星さえ息吹を忘れるというのに



 噂をすれば影が差すとはよく言うけれど、“影“呼ばわりだなんて噂話をされている当人に失礼ではないだろうか。この諺を作った人は影の気持ちなんて一ミリも考えてなどいないに違いない。影だって、好きで影になった訳では無いというのに。

 ──あの時、教室に飛び込んでそう主張できたらどんなに良かったことか。いくら後悔しても、例え天と地がひっくり返ったとしても、もう二十日も前の事実を書き換えることは不可能なのはとうに分かりきっていることだ。

 



  焼きそばを食べたらクレープが食べたくなったし、クレープを食べたらお好み焼きが食べたくなった。今はチョコバナナが食べたい。
 先程から問いかけに答える言動がところどころ主張とちぐはぐなのは、日が沈んだというのに未だ熱が尾を引くこの気候のせいだと思う。私はあくまでそんな想定外の暑さに参っているだけである。断じて。決して。無意味な抵抗はどこに向かっているのか、生温い風に犯された今の頭では考えられそうにもない。

 それに、悪いのは暑さだけという訳でもないのだ。ちらりと見やった横顔はいつも通り能天気に思えて訳もなく虚しくなった私は、零れかけた溜息をお好み焼き一口で飲み込んだ。


 
 




「そういや千石ってなまえのこと好きらしいよ」
「あー、誰かが本人から聞いたやつ?」
「そうそう、まあよく話してるし有り得ない話じゃなくない?」

 鳥だとか花だとか、人間以外のものになりたいと願うのはそう珍しいことでもないけれど、無色透明な空気になって消えてしまいたいと思ったのは生まれて初めてだった。
 別に悪口を言われている訳でもないのに酷く居た堪れないのは、教室にいるクラスメイトに今の話を私の耳に入れるつもりがないことが明らかだからだろうか。兎に角、忘れ物を取りに来た夏休み前最後の放課後、私に残された選択肢は逃亡ただ一つのみだった。
 



 千石清純。テニスが上手い。コミュニケーションが得意。ラッキーが口癖。そして、女の子が大好き。

 元来そういうタイプの人間は苦手としていた筈の私は腐れ縁というやつなのかはたまた偶然か、中学生活の三年間を千石清純と同じクラスで過ごす羽目になっている。
 三年間同じクラスの人なんてそう多くはないし、流石に三年もクラスメイトをやっていれば言葉を交わす機会は必然的に普通の人より多くなる。それに彼の性格だ、嫌でも仲良くなってしまうに違いなかった。

 正直、女友達が多い彼の中でも私はかなり彼と仲が良いという自負がある。恐らくお互いに話しやすいのだ。流石の彼も三年間ずっと口説き続ける訳もなく、挨拶だとか何気ない世間話だとかが増えていって今ではすっかり周りからも仲良し認定をされる程になった。
 それに彼の試合を応援しに行ったこともあるし、テスト前にどうしても分からない所があって、机を合わせて勉強会をしたことだってある。疑う余地もないくらい私たちは十分に仲が良く、親友と呼んでも差し支えなさそうな、でもそれには少し及ばないような関係が私にとっては好ましかった。



 しかし、こんな最悪のタイミングで彼に夏祭りに誘われたのは正直言って間が悪い以外の何物でもない。

 彼があの噂話を聞いていないとしても、私が平然としていられるような気がしなかった。素知らぬフリをして純粋に祭りを楽しめる自信がなかった。
 それなのに、あの屋台の焼きそばのソース味が恋しくなった私は彼の誘いを受けてしまったのだ。そこには、意外と何でもないフリができてしまうものではないかという自分への淡い期待もあった。


 

 

 結論。彼は噂話なんて全く知らないようだった。

 あれ見たいこれ見たいと小さくはしゃぐ彼にそんな後ろ暗さは一切感じられず、その様子は私のクラスメイトであり友人である千石清純そのものだった。けれども考えてみれば当然だ。彼は何も知らないのだ。おかしくなってしまったのは私の方で、そんな噂話を聞いただけで私たちの関係性が大きく揺らぐ訳がない。そんな安心が胸の内に広がっていく感覚だけは、汗ばむ身体とは裏腹に心地良かった。



「ねえ、花火見ていく?」

 お目当てと考えていた屋台を大方回り終えたのか、千石が時計を見ながら驚いたように言う。どうやら思っていたよりも大分良い時間になっていたらしい。ただそれも、道すがら射的やビー玉掬いにいとも簡単に吸い寄せられていた私達のせいなのだから、当たり前なのだけれど。

 この地域の中ではかなり規模の大きいイベントということもあってか、名物とまではいかないもののそれなりのスケールで花火が打ち上げられるらしい。特に花火に強い思い入れがないとはいえ、綺麗なものはやはり見ておきたい気もするのでその誘いに頷くことにした。……少しだけ、まだこの空気感に浸っていたいという気持ちもあるというのは、何故だか彼に言えなかった。





「うん、そうしよう──……ッえ、」

 兎にも角にも、もう余計な悩みは投げ捨てて普通に楽しもう。そう思って顔を上げた矢先、確かな悪寒が私に走った。
 ふと視線を前方に向ければ、いやに見慣れた顔が遠くに見えて凍りつく。特段仲が良い訳でもないクラスメイト達だった。何とも運が悪いことに、あの日……終業式の日、教室に残っていた顔もちらほら見える。それならばどうせ十数メートル先の全員にあの噂なんてきっと共有されてしまっている。端的に言って、今の状況は最悪に近い。


 もし、もしも、千石と二人でいることに気づかれてしまったら。その先を想像するだけで恐ろしさが心臓周りを駆け回って吐き気がしそうだ。首筋を流れるのは紛れもない冷や汗で、その感触に思わず焦りに拍車がかかる。



「ねえ千石、あっちに、」

 気づいてるの、と問いかけようと顔を上げた瞬間、優しい瞳とかち合って息が詰まる。彼の唇が緩く弧を描いたかと思えば、柔く強く腕を引かれた。大した勢いではなかったからかほんの少し前方につんのめる程度だったたけれど、私が呆気にとられるにはそれで充分だった。
 急に何をするんだ。文句のひとつでも言ってやろうにも、もう既に普通に声を出したらあちらに聞こえてしまいそうな距離までクラスメイト達が迫ってきている。私は意図せずして人通りに背を向ける形になっているものだから確信を持って言えないが、はしゃいでいる賑やかな声がすぐそこに聞こえる。気のせいかもしれないし、そうではないかもしれない。それがまた私の不安を助長する。どくりと脈打つ身体には、正体不明の熱が蔓延している。


 冗談ではなく、数秒が永遠に感じられた。引き寄せるためだけに握られたと思っていた指先は何故か触れ合ったままで、周囲にひた隠すように握られ、彼にしっかりと私の焦りと熱を伝えてしまっている。

 ──千石ってなまえのこと好きらしいよ。
 通り過ぎていく筈の声が、回想の中でも脳に響き続けている。そのせいでいつ彼らが私達の側を通り過ぎていったのか、どれくらいの時間そうしていたかもわからなくて、彼の手を握る力が緩まるまで私はそれに気づくことができなかった。



「……な、んで」

 酷く渇いて張り付いた喉を無理に震わせた声は拙かった。どうして彼は隠れるでも、何でもないように声をかけるでもなく、ただ私の手を握ったのか。わからなかった。そんなことをして彼のためになる訳がないし、それをあの人たちに気づかれないとも言い切れない状況だったというのに。ただ、唐突な彼の行動に私が馬鹿みたいに焦らされただけだった。私だけが、困っていた。


 そこまで考えが至ってはじめて、目の前の彼が意地悪な顔をしていたことを知った。確信犯だ。彼はきっと、私を困らせたかったに違いなかった。





「なまえちゃん」

 それは、きっと。
 ふ、と細められた瞳は意地の悪さと優しさが同居していて、私は思いがけなくドキマギした。明るくてお調子者の彼はそんな顔を教室ではしない。私は、見た事がない。


「気づいてるんでしょ、」

 小さな息遣いと、彼の唇が次の言葉を形作るのを見ているのがどうにも耐え難くて息が詰まる。顔の火照りに、今にも胸の核から身体がどろどろに溶け出してしまいそうだ。


 それがあまりにも苦しいものだから目眩がしそうで──もういっそのこと、夏の夜に溶けていけたらいいのにと、私はどうにも馬鹿なことを願ってしまったのだ。
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