僕だけがきみの中に有る


 二月の終わり。まだ冬が抜け切らず、しかし春とも言い難い時期に私はこの本丸にやってきた。年が開ければ新年度まであっという間とはよく言うけれど、年が開けてからこの本丸に研修生として就任するという話に着地したのは、随分とあっという間だったように思う。思わぬところで俗説に実感を覚えながら、古い木造建築の隙間風に震えた。

「はじめまして。あなたが研修生さんでいいのよね?」

 待機するように命じられた離れの一室。待ち合わせの時間よりも五分ほど前にやってきたその女の人は、しっかりと着物を着込んで、布で顔を覆っていた。あまりにも堅苦しい服装を不審に思って、怪訝そうにじいっと見つめてしまっていたからだろうか。女の人からは「病弱で酷い顔をしているから表に出したくないのだ」と苦笑いをこぼされた。

 そんな女の人の所作は、ひとつひとつがとても美しかった。
 事前の情報で良い家の出だということは耳にしていたけれど、あまりにも住む世界の違う人のようにすら思える。病弱だとはとても思えないほどにテキパキとした対応、その淡麗な仕草ひとつひとつが私の目を釘付けにした。女の人からしてみれば、私のほうがよっぽど不審だったかもしれない。それくらい、思わず見入ってしまった。

「今回は二週間ほどだったかしら。そんなに気負わなくても構わないから、頑張ってね」
「ありがとうございます」
「何か分からなければ、私や彼に聞いて頂戴」

 打ち合わせの折、女の人はそう言ってひと振りの刀を呼び寄せた。その刀は源氏の重宝と名高い太刀・髭切。この本丸の近侍を務めているらしい彼は、小さく笑みをひとつ携えて私を見る。何かを見透かされるような強い視線に背筋を凍らせながらも、初めて目にした政府勤務以外の刀剣男士への感想は「綺麗」だった。女の人に抱いた感想と似たようなもの。二人ともひと目見たときからこちらを惹き付けるような、強い何かを持っていた。二人とも研修生という立場の私に対して善く接してくれたけれど、同時にそこには踏み込めない何かがあるような気がして、この二人の前ではどうにも居心地が悪いような気もした。

 なんといえば良いのか、そう。
 端的に言えば、お似合いの二人だと思った。



 四月。桜がようやく散り切った頃に、この本丸に戻ってきた。あの後、私は研修生としての契約期間を終えて一度この本丸を去った。それなのにこうして再度戻ってきたのは、この本丸を私が引き継ぐこととなったからである。それまでに様々な経緯はあったが、長くなるので割愛するとして、簡単に言えば、この本丸を漂う前任の審神者の霊力と私の霊力が、研修済の候補生の中では最も相性が良かったらしい。以前この本丸には研修生としてきていたこともあり、その際に本丸の刀剣男士との関係も良好だったとの報告を受けていたことが決定打だったそう。

 久方ぶりに顔を出した本丸で私を迎え入れてくれたのは、当時も近侍を務めていた髭切だった。私のことはなんとなく記憶の片隅に残っていたようで、久しぶりだね、と声を掛けてくれた。その距離感は前回この本丸に来た時と同様で、来る前は不安で仕方なかったけれど、変わらない彼の様子に肩をなでおろす。


 前提として、この本丸の刀剣男士には前任の審神者の記憶はないらしい。
 どういった原理なのかは知らないが、前任の審神者の記憶のみが消去されるような処理が済んでいるそうだ。主に審神者の存在そのものに依存する性質の刀剣男士が、他の審神者の元へと渡る際に利用されるらしい。所謂ブラック本丸等の対処に使われる既に安定した技術なので心配はないらしいが、本丸ごとに適応するといった大掛りな形で使用されることは滅多にないそうで、今回に限っては不安定である可能性があるという。担当さんからは「できるだけ本丸内で前任の審神者の話をしないように」との忠告を事前に承った。

「今の時間だと、大広間に大体集まっているだろうから。挨拶でもしておいで」
「ありがとうございます」

 どうやらこの髭切は私のことは覚えているらしかったが、その当時の話を持ち出すことはしなかった。何かの弾みで前任の審神者の話を思い出されても厄介だし、何よりも「この髭切に」というところが嫌だった。仮に彼らが何かしらの弾みで前任の審神者のことを思い出してしまおうと、(それはそれで一大事ではあるのだけれど)大した問題ではない。けれど、仮にこの髭切が、前任の審神者のことを思い出してしまったら。ふと脳裏に、研修生としてこの本丸にやってきた時の記憶が蘇る。

 あれは確か、この本丸にきてすぐ、昼餉をとってから執務室に戻ろうとした時の話だ。通ってきた道が分からなくなって彷徨っていたところ、離れ横の木陰にちょうど前任の審神者と髭切の姿を見つけた。知った姿に安堵する傍ら、彼女らも戻る場所は同じだろうと考えて声を掛けようと近寄ったその時。審神者の目元に光が反射して、涙の粒が光ったのが見えた。思わず立ち止まって姿を潜めたが髭切は私に気付いていたようで、私に小さく視線を送っては微笑む。その視線は反射的に背筋が凍るほどに怖くて、暗に黙っていろと口止めされているのだろうと悟った。それでも足が竦んで動かなくて、その場を立ち去ることはできなくて。声は聞こえない距離だったのでどんな話をしていたのかまでは聞き取れなかったが、明らかに踏み込んではいけないものなのだという事は分かった。

 結局あの時の二人のやり取りははっきりとしないままに終わってしまったが、あの二人の間には何か踏み込んではいけないものがあるのだという事だけははっきりと分かる。それが、初めて会ったときに感じたものと同じかどうかは分からないけれど。髭切に前任の審神者の事を思い出されるのは、何となく気まずいように思えた。

「ああ、そうだ。主の部屋はこの突き当たり、一番奥にある空き部屋だそうだから。じゃあ、僕はこれで」

 今さっき思い出しました、と言わんばかりのトーンで肝心なことを伝えてくるこの刀は、抜けているように見えてどこか掴み所がない。大広間の襖を目前にしてそう言って去っていった髭切は、一度もこちらを振り返ることなくどこかへ行ってしまった。この調子でうまく本丸に馴染めるのだろうか。先が思いやられるな、と思いながら、手元の端末をスクロールし、髭切の欄にレ点を入れた。



「さっきは兄者がすまない。今朝、急に君の迎えには自分が行くと言い出して聞かなくてな」
「あっいえ、特に何もなかったので……」
「そうか、なら良かった」

 大広間には髭切の言った通り大勢の刀剣男士がいた。私を大広間まで連れてきてくれるはずの髭切の姿が見当たらないことを不審に思ったのか、私に一番に声をかけてきたのは髭切の弟・膝丸だった。彼とはその後簡単に挨拶とたわいもない言葉を交わしたが、彼は兄とは違って私が研修生としてやってきていたという記憶はないそうだ。以前、この本丸に研修生としてきたことがある、ということを伝えると、少しだけ寂しそうな顔をされた。

「君が新しい主かい?良かったら、これを」

 木製のお盆におにぎりとお茶を乗せて厨から出てきたのは、この本丸の初期刀である歌仙兼定だった。ちょうどお昼時を過ぎた厨では後片付けに追われていたらしく、袖を捲り上げて気合の入った様子の歌仙の額には、うっすらと汗が滲んでいる。歌仙はどうやら私のことははっきりと記憶していないようだったけれど、膝丸と同じことを伝えると、しばらく悩む様子を見せてから「何となく覚えている」と溢していた。大広間にいた他の刀剣男士とも会話はしてみたが、私のことを覚えているかどうかというのは五分五分というところか。二週間しかいなかったのもあり、私自身も全ての刀剣男士と会話をしたわけではないので仕方ないのだが、少し寂しい気持ちにもなる。膝丸の気持ちを少し理解した瞬間だった。

 今日は出陣していたり遠征に出ていたりと、全ての刀剣男士がこの本丸にいるわけではないらしい。初日に挨拶することは叶わずとも、一応可能な限り挨拶をしたいと言えば、大広間にいた刀剣男士たちは、ここにいない刀剣男士の居場所を次々に教えてくれた。それらをメモに取りながら、歌仙が出してくれたおにぎりを頬張る。たった二週間しかいなかったはずなのに、程よい塩加減のおにぎりからは、どうしてか実家のような安心感を覚えた。
 
「如何せん、長らくこの本丸には審神者がいなかったからね。君がきてくれたことによって皆浮き足立ってはいるが、どうぞよろしく」
「……こちらこそ、よろしくお願いします」

 前任の審神者の記憶がないということに今ひとつ実感がなかったが、なるほど、初めからいなかったことになっているらしい。きっとそれは、彼女にとっても、彼らにとっても、たまったものではないだろう。今まで共に歩んでいたことが、全て亡きものとなる。彼らの記憶に彼女は残らず、生きた証も全て、失われる。それが一体、どれだけ苦痛だろうか。忘れてしまえばその悲しみを背負う必要はないけれど、その悲しみが彼らを強くすることだって往々にしてあるだろうに。確かに、こうして彼らの中で前任の審神者の記憶がなくなっているのならば、私のような後任の者は楽だ。前任の審神者とのことに気を遣う必要もないし、彼らの傷を無意味に抉ってしまう恐れもないだろう。しかし、これは一体、本当に正しいことなのだろうか。

 鬱屈とした気持ちを抱えながら、歌仙を初めとする刀剣男士たちに礼を言って大広間を去る。事前に貰った本丸の見取り図を頭の中で浮かべつつ、今後の巡回の段取りを決めながら、奥の空き部屋――前任の審神者の自室へと足を運ぶ。明らかに前に来た時よりも本丸は変容しているのに、景趣によって定められた本丸の様子は前に来た時からなんの変化もない。そのアンバランスさが妙に気持ち悪くて、懐かしいなと感傷に浸る反面、どうにも気味が悪かった。



 九月の暮れ。私がこの本丸に正式に就任してから約半年が経過した。
 初日に抱いていた不安はどこへやら、私は案外審神者としてうまくやれているのではないかと思う。うちの本丸限定で演練という制度が中止になってしまったこと以外は特出して語るようなこともない。これも、この本丸には私の前にも審神者がいたということが外部から刀剣男士たちに漏れないようにするためらしい。私はこの本丸での初めての審神者ということになっているので、審神者という存在を重要視する刀剣男士たちを中心とし、彼らも特に引っ掛かることなく私の存在を受け入れてくれているようだ。慣れというのは恐ろしいもので、この頃には次第に、私自身も当初抱いていた違和感が薄れていっていた。

「今日の分も、いつものところに置いておけばいいのかい?」
「うん。ありがとう」

 そして、こちらから指名した覚えはないのだが、当たり前のように近侍の枠には髭切がいる。私の記憶が正しければ、恐らく私が来てから近侍が髭切でなかったことがない。以前もそうだったのか、その件に関して他の刀剣男士たちが突っ込むこともなかった。人が寝て起きて食事をするのと同じくらい、当たり前のように私の隣には髭切がいる。しかし、一つだけ明らかに違うのがその態度だ。嫌われたり呆れられている、というわけではないだろうが、あからさまによそよそしいように感じる。

 他の刀剣男士たちは皆、私に関する記憶の有無に関わらず私のことを審神者として、主として接してくれる。けれど髭切は、私のことをどこか赤の他人のように思っているような節があるのだ。千年もの間を刀として生き主を転々としてきた彼が、私という新たな主に対してそう思い入れを持たないということは何ら不思議ではない。現に似たような境遇を持つ刀や彼の弟・膝丸なんかはそういった節がある。それでも彼らの中にも最低限、私のことを自らの主として認識しているが故の態度というものはあるのだが。

 髭切に限っては、それがない。まるで私と髭切は、ずっと他人なのだ。

「今日の分はこれで終わりかな。ありがとう」
「今日は随分早く終わったねえ」
「うん、まあ昨日が特別多かっただけだから」

 ずっと近侍を務めてくれているのに、交わす言葉は最低限。執務以外で顔を合わせることはなく、それ以外の時間に彼が何をしているのかは全く知らない。私もここにいる全振りがいつどこで何をしているのか把握しているわけではないけれど、それにしても髭切については知らなさすぎる。恐らく、執務外の所謂プライベートな話は一度もした事がないのではないかと思うほどに。

 私自身も前任の審神者の事があるので極力彼には踏み込まないようにしている節があるし、それも相まってなのだろう。直近の髭切との会話を思い出してみても、事務的な会話以外をした記憶がない。研修時代に見た、私の知っている髭切はそういった刀ではなかったように思う。それはつまりこれが本来の髭切の姿であって、私が知っている主への態度――つまり、前任の審神者への態度が特別だ、ということなのだろうか。そこまで至って、考えすぎだと思考に蓋をする。

「そういえば主、この後は何か予定があったりする?」
「……えっ」

 先程蓋をしたばかりなのに、それを強制的に引き剥がすような発言に、分かりやすく動揺の色を隠せなかった。そんな私の様子に気付いていないはずがないのに、髭切は特に何も言わない。そのままじっと私の返答を待っているようだったが、それも有無を言わせないような目つきをしている。慣れからか、この髭切の視線に臆することは無くなったけれど、それでもやはり何を考えているのかまでは読み取れない。

「この後……は特に用事はないけど」
「そう?なら、ひとつ付き合って欲しいところがあるんだけど」

 私が首を縦に振れば、それに合わせて髭切はにこりと表情を歪めた。それは、今までに見たことのない彼の表情。研修時代にも、正式にこの本丸の審神者になってからも。それなのにどこか懐かしいような、暖かいような、そんな不思議な感覚に襲われる。どうしてなのかは分からない。けれど、この温かみのある表情が、髭切本来のものなのではないかと感じた。

 そういった経緯があってその後、髭切が私を呼びつけたのは離れの一室――私が研修時代に、初めて彼に会った場所だった。実の所、この離れは私が就任したこの半年の間で一度も利用していない。何となく、前任の審神者の影がチラついてしまってボロが出そうだったからだ。以前は客間として使われていたこの離れは、建築にも見るからにいい材木が使用されており、見かけだけではなく中の家具や調度品の細部に至るまで、こだわりの見える上質な仕様になっている。流石良家の娘だな、と勝手に感心していたら、初期刀である歌仙の見立てだと前任の審神者に言われた記憶がある。

 指定の時間よりも少し遅れてきた髭切は、特に詫びる様子もなく、私が腰掛けていた向かいの椅子に腰かける。そのまましばらく私をじっと無言で見つめて、そうしてようやく口を開いた。

「ここ、主には見えたんだね」

 笑っていない。
 否、笑っているのに、笑っていない。怖いとか、底が知れないとか、本質が掴めないとか、そういった類のものではない。ただただ身の危険を感じた。今すぐここから逃げたいのに、逃げなければと思うのに、体は岩のように動かない。ただじいっと、磁石が吸い寄せられるように髭切の方を見ている。まるで自分の体が自分ではないような感覚。

 彼は一体何を言っているのだろう。見えるも何も、ここには私がきた時には既に立派な木造の離れがあった。私が好んで近寄らなかっただけで、私が正式に就任した頃も確かにここに有ったし、そして今でも確かにここに有る。

「まあそれは後でいいや。それよりも僕、最近ずっと同じ夢を見るんだ」

 状況の理解ができていない私を他所に、彼は淡々と話を続ける。

「森の奥のようなところで、巫女装束を纏った女と二人でいる。丁度、君が畏まった場に着ていくようなやつかな。僕はその知らない女の横にまるで恋人のように寄り添っていて、泣いている女の涙を拭って、その後口付けをする。女はやけに病弱そうな青白い肌をしていて、僕に縋るように泣いている」

 病弱そうな青白い肌をした女。それも、審神者の制服を纏った。私の中には、心当たりなんて一人しかいなかった。恐らく髭切が言っているのは前任の審神者のことだろう。髭切の言葉から考えるに、恐らく彼には前任の審神者の記憶はないのだろう。もしかすると、彼の記憶に反して無意識的に見ている夢なのだろうか。ふと、着任する前に記憶処理が不安定だと言われたことを思い出す。何らかのきっかけで、髭切に施されている記憶処理が不安定になっているということなのだろうか。

「それにこの場所、この本丸の誰に尋ねても存在を知らなかったんだ。それどころか見えてすらいない。こうして今日、君をここに呼び出したのと同じようにしたんだけど、実際ここに来れたのは君だけだったし、この建物が見えていたのも君だけなんだよねえ。つまり、この建物は僕と君にしか見えていない」
「え、」
「まあ、信じるかどうかは君次第なんだけど。それと、最後に一つだけいいかい?」
「な、に」

 髭切が一体何を言っているのかさっぱり掴めない。ここが他の刀剣男士たちには見えていないというのは、一体。ここは私がくるずっと前から、客間として使われていた筈では。前任の審神者は確かにそう言っていたし、髭切だって、客人としてやってきた私とここで会っている。まさか、前任の審神者の記憶と一緒に、ここの記憶も無くなっているというのだろうか。

「君は一体、何者なんだい?」
 
 髭切の最後の問いかけに、私はなんの返答もできなかった。私の記憶はそこで途切れている。



 その記憶の続きにあったのは、いつもの部屋――本丸の母屋の突き当たりの部屋だった。布団を敷いた記憶はないのだけれど、シワひとつなく綺麗に敷かれたその上に私は横たわっていて、枕元には愛用の水筒に冷えた麦茶が入れてある。空調も丁度心地いい具合に設定されていて、非常に快適な空間となっていた。ただ就寝するだけなら、私はここまでしない。確かにこんな準備をした記憶もないし、誰かが用意してくれたのだろうか。ふと時計を見るととうに日付は変わっていて、十月になっている。夕餉をとっていないので微妙にお腹も空いていて、小さく腹の虫が鳴った。

「主、膝丸だ。入っても構わないだろうか」

 厨に行って、何か簡単なものでも腹に入れようと起き上がった時だった。襖の向こうから呼びかけてきた膝丸は、じっと立ったまま私の承諾を待っている。月明かりによって映し出されたシルエットは戦装束のままで、若干不審に思いながらも入室を促すと、そのまま一礼して襖を開ける。

「夜分遅くにすまない。体調は大丈夫か」
「うん、特に問題ないです」
「そうか。庭先で倒れていたと聞いたのでな。無事なら何よりだ」

 そう言って膝丸は静かに目を伏せて、小さく姿勢を正した。本体こそ持っていないものの、戦装束のままこうして向き合われると思わず緊張してしまう。膝丸に倣うように私も姿勢を正し、あからさまに何か言いたげな膝丸に向き直る。

「単刀直入に聞くが、兄者の居場所を知らないか?」
「…………髭切の?」
「今日、兄者が主に会うと言って部屋を出て行ったきり戻ってきていなくてな。てっきり主の元にいるのかと思ったんだが、ここには君しかいない」
「えっと……髭切なら、執務が終わった後に離れで一緒に、」

 そう言った瞬間、膝丸の表情は一気に険しくなった。何か失言をしたのだろうかと思い返して、先刻髭切から聞いたばかりの話を思い出す。決して髭切のことを信用していないわけではないのだけれど、てっきり悪い冗談か何かかと思っていたあの話。まさか、本当に膝丸にはあの離れが見えていないし、存在も知らないのだろうか。恐る恐る膝丸に離れの存在を問うてみたけれど、そのまさかだった。

「そういえば前に、兄者にも似た様なことを聞かれたことがあるな」

 恐らく、膝丸が話しているのは髭切が言っていたものと同じ時のことだろう。こうして髭切の話が真実味を帯びてくるのが、どうしようもなく怖かった。私と髭切にしか見えていない離れ。前任の審神者が出てくる夢。そして、いなくなった髭切。私はただ、死んだ審神者のあとを引き継いだだけではないのだろうか。明らかに普通ではない。知らない。何も、知らない。

『君は一体、何者なんだい?』

 脳内で反芻される、髭切の冷たい声。私が何者なのかなんて、私が一番分からない。病弱だった前任の審神者が病死したから、研修生としてこの本丸にも来たことがあって、前任の審神者と霊力の相性がもっとも良かったという理由で、この本丸を引き継ぐことになった。前任の審神者の病死が一部の刀剣男士にとって相当こたえてしまったことから今回の記憶処理が行われて、私はこの本丸の「初代審神者」という偽の肩書きを背負ってやって来た。それ以外は何の変哲もない、ただの審神者だ。能力だって平均的、家柄だって普通。審神者になるまでの人生も一般的、志願理由だって適性があったから、というだけ。

 膝丸が何か言っているようだったけれど、今の私には全く聞き取れなかった。震えが止まらない。何かとんでもないことに巻き込まれてしまっている。分かっているのに、きちんと本能は警鐘を鳴らしているのに、我に返った頃には膝丸にとんでもない提案をした後だった。

「お願いします。離れまで、一緒に来て」



 離れの内装は、過去にこの本丸の初期刀である歌仙兼定と女が、本丸一周年を祝って奮発し、二人で見繕ったものだ。洋風のものから和風のもの、はたまた民俗調のものまでさまざまなものが混在しているそこは、女がこの本丸のなかでも一等気に入っていた場所。他の刀剣男士たちからは「うるさい」だの「趣味が悪い」だの不評だったこともあるが、すれ違いの多かった女と歌仙が唯一互いを理解しあえる、大切な場所だった。

 それでも、こんなにも人が来なければ日も当たらない場所にずっと閉じ込められていれば、たとえ好きなものに囲まれていようとストレスになりかねない。現に女は苛立ちを隠せないでいた。そういう制約を科されてしまった女は、この離れ小屋に誰かが足を踏み入れない限り、半永久的にここに閉じ込められたままである。ここへ閉じ込められた当初は歌仙なり、誰かしらがすぐに開けてくれると思っていた。けれど、まるでこの離れの存在を忘れたかのように、誰もやってこないのである。

「ここで、あってるよね……?」

 そんな退屈な日々の中、どれだけの時間が経過しただろうか。
 この離れに最初に足を踏み入れたのは、かつて研修生としてこの本丸に来ていた少女だった。女は、これを機にこの離れからの脱出を試みたが、その前にこの離れに入ってきた、もう一つの影にその足を止める。女が、焦がれて、焦がれて、人でなくなってしまうくらいに焦がれてやまなかった相手。

 何やら二人で話し始めたのを、女は黙って聞いていた。するとどうだ、愛しい彼は女のことを覚えていないという。あまつさえ目の前の少女を「主」と呼んだではないか。腑が煮えくり返るというのは、恐らくこういうことを言うのだろう。女は、許せなかった。唯一自分と彼を繋ぎ止めていた「審神者と刀剣男士」という主従関係すら、こんな少女ごときに奪われてしまっていたこと。自分自身の存在が、本丸内において無きものとなっていたこと。何よりも、絶対に私のことを忘れないように彼の中に刻みつけていた女の全てが、忘れ去られていたこと。

「……許さない、絶対に」

 女は、気付けば丸腰の相手の首を力一杯締めていた。手のひらが痛い。こんな状態になっても痛覚が生きていることが恨めしい。手も、心も、さまざまな場所が痛む。少女をどこか遠くへ放り投げ、無我夢中で愛しい彼の首を絞める。死んでしまえ、死んでしまえ、死んでしまえ。私はこんなにもあなたを忘れられないのに、どうしてあなたはそんなに簡単に私を忘れているの。

「思い、出した……きみ、か」

 人の子とは違い、首を絞めたくらいで簡単に死にはしない。そんなことは分かっている。ろくに声を出す事さえ許さず、憑かれた女は怨念のままに一本の刀を焼き尽くす。
 泣き叫びながらも、そうして女は愛しい一本の刀を折った。



 私の提案を渋々呑んでくれた膝丸は、十分も経たないうちに腰に刀を携えて私の部屋まで戻ってきた。母屋から離れまでは私の部屋が最も近い。部屋から見えこそしないものの、庭先を歩いていればものの五分も経たないうちに辿り着く。離れは確かに変わらぬ場所にあるけれど、夕方ここへやってきた時は何も感じなかったのに、今は状況のせいかはたまた時間帯のせいか、非常に不気味な小屋のように見えた。

「君や兄者にはここに、小屋の様なものが見えていると言うことだな?」

 私が小さく首肯すると、膝丸はまだ今ひとつ納得がいかないと言った様子で首を傾げる。どうやら膝丸にはここが何にもない芝生に見えているようで、何かがある気配すら感じないとのことだった。膝丸と一度視線を合わせ、確認するように恐る恐る小屋へと足を進める。見えていない膝丸から見れば、何もない場所でひたすら忍び足で進む様は随分と滑稽だろう。

それでも、私は一歩進むごとに強くなる恐怖心に何とか抗いながら歩みを進めていた。膝丸からは途中で「顔色があまりにも悪いから引き返すべき」と言われたが、無意識的に私の足は小屋の入り口へと向いていた。ここでやめていれば。そう思っても、事が起きてしまってからでは遅い。私が入り口の取っ手に手をかけた、その時だった。

『――――』

 悲鳴にも似た女の声が聞こえて、そのまま視界が暗転する。女の声は膝丸にも聞こえていたようで、私を呼ぶ膝丸の声も聞こえた。腹がぐちゃりと捻れる感覚があって、徐々にそこから暖かくなっていく。自分の状況を理解した頃には既に手遅れで。最後に視界に映ったのは、醜く歪んだ女の顔と私の腹から流れ滴る鮮血、それから女の傍らで眠る折れた髭切だった。





【報告書】
本丸No.000xxxxx
 本年二月ごろ、前任の審神者〇〇と該当本丸内で鍛刀により顕現した太刀・髭切との間に痴情のもつれが発生。その後気を病んだ審神者〇〇は悪霊と思しきものに憑かれ、当時集団研修に来ていた審神者研修生およそ十数名を殺害、及び該当本丸内で顕現された刀剣男士数振りを破壊。その後駆けつけた政府役員数名が、該当本丸内の刀剣男士による助力を経て本丸内にある離れ小屋への封印を成功させた。

 (追記)
 その後、限定的な記憶抹消処理を本丸全体に行い、新たに該当本丸での研修経験のある研修生を四月ごろに審神者として派遣。念の為、該当本丸に限り演練中止の特別措置を実行。事前に研修生に渡していた端末からの報告によると、前任の審神者の記憶を保持している刀剣男士はなし。記憶抹消処理技術は広範囲でも安定して効力が発揮できる実例としては十分な成果である。
 しかし、本来記憶処理が成功していれば可視化されないはずの、起点となる離れ小屋は髭切にのみに視認できていた模様。原因は不明であるが、派遣した審神者の報告によると、他の刀剣男士同様に髭切に記憶の保持は確認できなかったとのこと。事件当時、髭切に呪いの類いが科されていた可能性を検証中。十月初頭、離れ小屋を視認できていた髭切の破壊、及び派遣していた審神者の肉片と思しき残骸を離れ小屋付近で確認。何らかの要因で封印が解かれたと推測。
 現在、憑かれている審神者〇〇を除霊すべく政府より人員を派遣中。
prev next


top