クリティカル・ヒット


「おはよう」
 声を掛けると、ルイは振り返ってかすかに微笑んだ。いつかに誰かの手によって戯れに持ち込まれたバーカウンターの椅子に腰かけるルイは、取り付けられたネオンサインがきらきらと光る中で探索の手はずをすべて整えてただ座っていた。
 血涙に関する研究資料を見るでもなく――もっとも、現状ではもうその研究は二の次になってしまうのかもしれないが――ただぼうっと時を待っているように見える様に、ずいぶんと早起きだね、と軽口を叩くことも憚られて、私はなんとなく口を噤んだ。何かを言うべきではないと思ってのことだった。
 けれど、すぐに静寂がいたたまれなくなった。ルイはどちらかといえば口が重く、小気味よく会話するという気質ではないからこうした会話の途切れも決して不自然なものではないというのに、今日に限ってはどうしてか胸がざわつくのだ。
 言葉を切り出しあぐねている私の様子に、ルイはそっと隣の席へと座るように促した。うん、と頷く。すでに戦闘の用意を済ましているルイと並ぶと、自分の軽装がいかにも寝起きだと言わんばかりに浮き彫りになった。
「お前は、ずいぶんと早いな」
「そうかな」
 私は首を傾げた。ルイに言われるとは、と暗に含ませる。ルイは真面目な人物ではあるが、同時に本を読み漁っていた、といった理由ですぐに夜更かしをしてはヤクモに苦言を呈されている面もある。もちろん極端に遅く起きるというわけではないが、早寝早起きなどという言葉は似合わないような部分もあった。まだ空は夜の暗さを残したまま、赤い霧と混じる地平線ばかりがかすかに白む頃だ。ルイが起きているにはあまりにも意外な時間帯であることは、彼にも自覚があるだろう。
 言外に詰るような私の言葉を聞いて、ルイは諦めたような苦笑を浮かべ、それきり口を閉じた。これは意図的な沈黙だと誰が見ても明白な、そんな決まりの悪い雰囲気があって、私はなんとなく彼の心情に触れるのが後ろめたくなった。今までさんざん腹を割ってさまざまなことと向き合ってきたわりに、この日の私は臆病だった。
「……今日、少し寒いね」
 ぽつりと言い訳のように零す。所々の壁の崩れ落ちた部分から、隙間風がかすかな音を立てて吹いていた。寒いのはこれが理由だろうか、と思うが、はっきりとしたことを自覚することはできない。感覚器官こそあれ、吸血鬼は暑さや寒さには強い傾向にあるのだ。その中で言う「少し」がどれだけのものであるのかは、私にはあまりわからなかった。
 ただ起き抜けに感じた感覚について口にしているに過ぎないその言葉を、ルイがどれだけ真剣に取り沙汰のかはわからない。しかし、彼は少し言葉を探すように悩んでから、そうだな、と同意した。
「暦の上では冬の手前らしい。ココが昨晩、そう言っていた」
「そっか、なるほど」
 頷いて、確かに、と思う。言われてみれば、時期的にはちょうど季節の切り替わりにあたる。ヴェインにわずかに見える植物も、その植生に則ってわずかながらも姿を変えていた。ただ、吸血鬼は心臓を破壊されなければ不死であるうえ、霧散と復活を繰り返す過酷な探索ばかり日々の中に、季節感というものが生まれないのは仕方のないことだろうとも思う。
「身体が冷えていたりはしていないか」
 ルイはこちらを伺うように、躊躇いがちにそう口にした。私は首を振る。確かに起きたときにはわずかな寒さを感じはしたが、それは吸血鬼としての身体に影響を与えるほどではない。話題にはしたが、内心その感覚が正しいのか不安がったほどである。むしろ季節の前触れだと思えば、どこか新鮮さすら感じる兆候だった。ルイは私の反応にほっと胸を撫で下ろしたようで、先ほどのどこか一線を引いたような振る舞いからは一転して柔らかい表情を浮かべている。
「寝具を新調する必要があったら、遠慮なく俺に言ってくれ」
 そう言って、彼は穏やかな様子で微笑んだ。ぞわり、と心が波を立てる。その気遣いに感謝する一方で、まるで人間のようなやり取りだな、と遠くに思う自分がいた。言うまでもなく、皮肉のようなものだ。私の人間だった頃の記憶は朧げなもので、それがどこか反感のような、恐れのような、そんな感情に繋がっているような気がした。
「ルイこそ」
 言うに事欠いて、私は彼の言葉を鸚鵡返しするに留まった。この場面で感情に従って皮肉をぶつけてしまうことは怖かった。彼に悪く思われたくない、という気持ちが強くあったのだ。わがままなことだとも思うが、その考えはどこか強迫観念めいて私を突き動かした。
 もっとも、ルイは私の内心には深く立ち入らないつもりらしかった。そういうところがお互いに臆病だな、と思うが、あるいはルイは自分の感情を律することで手一杯だったのかもしれない。血英を通じて彼の感情を垣間見たことは多々あれ、彼の内面を確かな証拠を持って覗き見ることは私にはできない。まして、記憶の消失によって自己の確立生すらも喪失しかけている吸血鬼が他人のことを推し量ろうなどという考えは、ひどく困難でおこがましいことなのかもしれなかった。
「そうだな、俺がお前にとやかく言う資格はないだろう」
 彼はぶしつけにそう言うと、くすりと小さく笑った。なんだからしくない言い方だな、と私は直感的に思う。思わず顔を顰めてしまっていたらしく、そんな顔をしないでくれ、と宥める声がどこかぼんやりとして聞こえた。拗ねたような態度を取る私に手を焼いたのか、それともルイも私との距離を測りかねたのか、彼はふと遠くを見るように視線を外す。片側だけの赤い瞳が、まるで宝石のように透き通っていた。
「……実は、あまり眠れなかったんだ」
 その言葉に、息が詰まるような気分になる。これまで感じた違和感のすべてが実を結ぶとともに、すべての理由を知ってしまった。今日は棘と血に覆われた臨時総督府の内部、そのさらに奥へと進むと先日から決めていた。ルイにとっては、責任を果たすべき時だ。そしてそれに、私は踏み入ることができない。
「悪い夢を見たんだ」
 そうだろう、と私は思う。内容についてもあらかた想像がついていて、だからこそ私は何を言えばいいのかわからなくなって、自分の不明と記憶の欠如を一緒くたに恨んだ。
 ルイを助けたい、と昔からずっと思っていた。けれど、ルイのそばにいればいるほど、彼が忘れたがった記憶をたくさん拾って、彼を苦しめることばかりしていた。私はただ、目の前に与えられたものに立ち向かっただけだ。現状は何も変わらないのかもしれないということを、直視したくなかっただけだ。
「でも、それも今日で終わる。終わらせてみせる」
 ルイは遠くを見たまま、祈るように呟いた。勇敢だな、と思う。私よりもよっぽど勇敢な人だ。私はあいまいに頷くだけして、黙ったまま席を立つ。指先が悴んで、耳の裏では痛いほどに鼓動を刻んでいる。何も言葉が浮かばないままな自分が、惨めでたまらなかった。
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