愛別離苦


 その日は一段と冷え込む日らしかった。
 
 ***
 
 彼を待っているうちに薄く積もってしまった雪がコートを濡らして、少しだけ冷たかった。はらはらと溢れる涙も雪になって降ったのか、私の頬を同じように濡らしていた。だからもう身体の芯まで冷え固まってしまっているのに、彼から発せられた言葉は何よりも冷たく私を刺して、その拍動を止める。
 信じられなくて、信じたくなくて、聞き返した。

「日和くん、いま、なんて」
「別れてほしいんだ」
 間違いだった、忘れてくれるかな。そういう言葉が欲しかったのに、日和くんは目も合わさずに繰り返した。
 別れる。日和くんが転校するという噂は聞いていたけれど、まさかこんな急に、どうして。
 声に出ていたのか、日和くんは綺麗な顔を歪に顰めた。息苦しそうなその表情が私の首をも締めて苦しかった。

「このままじゃきみもぼくも、幸せになんかなれないよね」
 幸せ。その言葉を聞いて、開きかけた口を噤む。

 日和くんの人生に、私は必要ないんだ。口外に言われた台詞が私の視界を滲ませて、彼の存在をあやふやにした。
 私は、日和くんの幸せの一部にはなれないのだと。私の幸せには、人生には、日和くんが必要なのに。
 
 それでも引き止めて「嫌だ」と我儘を言えたらよかったのだけど、そんな勇気なんか持ち合わせていないからただ黙っていた。
 無言を肯定と受け止めたのか、日和くんは最後に私を優しく抱きしめる。

「きみの幸せを願っているね、心から」
 その行為が、私をどんな気持ちにさせるのかも知らないで。
 寒空の下でもあたたかい、日和くんの体温が愛おしかった。離したくない。そう思って抱き返してみたけれど、日和くんは宥めるようにそっと私を剥がして、待機していた車に乗り込んでしまう。

「ひよりくん」

 最後に紡いだ言葉は届かないまま虚空に堕ちて、辺りはしんと静まり返った。はらはらと溢れ落ちる涙が寒々とした空気に晒されて、頬が凍るように冷たい。それなのに、心臓と目頭だけが熱くて堪らなかった。
 
「なまえちゃん?」
 ふと、後ろから私を呼ぶ声がした。
 決して今聞きたい声ではなかったけれど、どうしてかその声は、私の身体の緊張をそっと解いた。

「…つむぎ、くん」
 駆け寄ってきた彼の身体を、私は必死で抱きしめる。
「どうしたんですか、大丈夫ですか?」
 心配そうに言う彼の優しさを、空っぽになった胸に埋めるように。
 
 
 ***

「本当に良いんですか?」
「…うん」
 一泊一万円のお城は、お姫様にも王子様にもなりきれない私たちをピンク色の安っぽい雰囲気で出迎えた。きっと本当なら私たちは来てはいけない場所だけど、私は何度もこの部屋で夢のような夜を明かしている。

「もちろん、俺としては嬉しいんですけどね。こういうの何て言うんですっけ? 鴨が葱を背負って来る?」
「…それはさすがに、ひどいよ」
「ええっ? すみません、そんなつもり無かったんですよ〜…?」
 あわあわと慌てるように言ったあと、つむぎくんは私からすこし目を逸らして、熱の篭った瞳を潤ませる。頬が薄く染っているように見えるのは、照明のせいかな。

「俺はただ、あなたが日和くんと別れていて、俺をこんなとこに誘ってくれるなんて、夢みたいで」
 満ち足りた微笑みを浮かべたつむぎくんは濡れたコートを私の肩から取り去って、律儀にもハンガーにかける。そのほかにも甲斐甲斐しく世話を焼くつむぎくんの姿を、倒れ込むようにベッドに横になって眺めながら、私はまた静かに涙した。つむぎくんの一連の動作は、ぜんぶ、日和くんにはなかったものだったから。
 
 空調を弄ると、つむぎくんは寝転んだ私の体を挟んで膝立ちになった。綺麗な黄色の瞳が熱を持って蜂蜜みたいに蕩けて、私を見下ろしている。涙を優しい人差し指で拭って、それから頬にひとつだけ、キスをする。

「綺麗ですね」
 やさしい手つきでひとつめのボタンに手をかけながら、つむぎくんが言った。
「うそ」
「綺麗ですよ」
 また、乳児をあやすように頬に軽くキスをしながら、ふたつめのボタンを外す。今度は何も言えないで、つむぎくんのするがままにされていた。ぜんぶ外し終えたあとで、つむぎくんがゆっくりと私の体に腕を回す。その瞬間、怯えるみたいに体が震えた。

「寒い、かも」
 それが寒さなのか恐れなのか、本当はよくわからなかったのにそう言った。
「ふふ、大丈夫ですよ。すぐに熱くなりますから」
 壊れ物を扱うみたいなつむぎくんのやさしさが、愛になって私に触れる。つむぎくんの言う通り、本当に、恥ずかしいぐらいにすぐに熱くなって、どちらのものかもわからない鼓動がばくばくと全身を駆け巡った。
 同時にその瞬間、私の中の何かが、ぱりんと音をたてて壊れた。

 ああ、汚れてしまった。
 天使のような、彼の手で。
 
 急に苛まれる、日和くんとつむぎくん、両方への罪悪感。耐えきれず、シーツを手繰り寄せて顔を覆った。私の目から傳う熱い涙が、絶えずシーツを濡らしていた。煩いぐらいに存在を主張する心臓が、何よりも冷たく私を責めて、息が苦しくなる。
 
 太陽の傾き切った窓の外で、未だ降り続いている雪だけが、その場で唯一潔白だった。
 
 ***
 
 
なまえちゃんが泣きながら俺に抱き着いて来た日から、俺となまえちゃんは幾度となく体を重ねました。なまえちゃんはいつだってこれが最初で最後のような顔をして、何度も、何度も、俺のするがままにされていました。
 
なまえちゃんが欠乏させている愛をパズルみたいに埋めていく。
 それは永遠に終わらないのかと思うほどに果てしないもので、どんなに愛を与えても、彼女の涙はそれを洗い流すみたいに溢れ出したままで。だからきっとこの行為に意味なんてないのに、それでもなまえちゃんからは、決まって土曜日の夜に「会いたい」と連絡が来るんです。
 可哀想に、
 

「つむぎくん、もう、今日で終わりにしたいの」

 そのときなまえちゃんはベッドに座って俯いて、小さな拳を握っていました。表情は見えなかったけれど、意を決したような顔をしているのだと思います。俺は努めてやさしく笑いました。そんななまえちゃんが、少しでも安心してくれるように。

「いいですよ。俺は貴方の嫌がることなんてしたくないですから」
 それを聞くと、なまえちゃんはほっと息を吐きました。緊張が解けたのか、気が抜けたのか。その後で、可愛くにこりと笑いました。そのあどけなさが、俺の心をきゅんと握ります。
 やっぱり、貴方には笑顔が似合いますね。
 そう思いながら、俺はわざわざ処方箋と書かれた袋に入れ替えた薬を鞄から取り出して、ペットボトルと一緒に彼女に手渡しました。

「知り合いの精神科医に相談して、安定剤を出してもらったんです。今日はこれを飲んで、もう寝ましょう?」

 彼女はありがとうと言って、躊躇いなく薬とペットボトルを受け取りました。
 危ういなあ。そう思いながらも、少し目を細めました。
 
 錠剤を一粒取り出して、水とともに嚥下する。その様子をきちんと見届けてから、俺はベッドに向かいます。狭い部屋とは不釣り合いに、大きすぎるベッド。そこに糸が切れた人形のように意識をぱっと手放して、程なくして規則正しい寝息をたてる彼女の頬を、愛おしくするりと撫でました。
 
 
 
 結論から言うと、俺が彼女に渡したのは、安定剤ではありません。もちろん、睡眠薬とかの健全なものでも、毒薬とかでもないですけど。
 
 あれは少しだけ、記憶が消える薬です。大体一日ぐらいしか消えません。それでも、なまえちゃんの決意だけが消えてくれれば、俺はそれでよかったので。彼女が無くした記憶のその間にもう一度、一から丁寧に彼女を愛して、苦しみを少し和らげる。そうやって、麻酔みたいにじわじわと彼女を鈍らせていくつもりで、幾度となくこのやり取りを繰り返してきました。効率的では無いですけど、優しさに弱いこの子には確実ですから。 
 もちろん、そんな非科学的な薬が病院で貰えるはずがないので、魔法使いを名乗る彼に無理を言って作ってもらって。良い顔はされませんでしたけど、渡せる報酬を話すと何も言わずに用意してくれました。

「それなりの報酬を貰うかラ、何に使うのかとか聞かないけド…センパイは、それでいいノ?」

 珍しく俺を心配するような口ぶりで言う彼を、俺は笑いました。すやすやと、何の疑いもなく眠る彼女を見て、また同じように笑いました。
 
 ねえ、なまえちゃん。
「俺は、愛する人と離れたくなんてありませんから」
 だから、わかってくれますよね。
 
 ***
 
 一段と冷え込むらしい夜に、貴方が風邪をひかないように。
 やさしく毛布をかけ直して、何も知らないふりをして、彼女をそっと抱きしめた。
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