小さい頃の春千夜は、ばあちゃんの家で、千壽と一緒に暮らしていた。
 朝、起きると春千夜はさっさと布団から抜け出して、少し離れた場所にある目覚まし時計を止めた。自分よりも大きな毛布をふわりと持ち上げ皺のないよう整えて、心地よいあたたかさが残る寝床に別れを告げる。夏の暑さが残る中、裸足に伝わる床の冷たさで少し目がさえた。
 廊下に出ると小気味よい音と美味しそうな匂いがして、あぁ今日は目玉焼きなんだなとすぐに分かった。途端に空腹を自覚して、腹の虫がぐぅと鳴く。そのまま、空っぽの胃を気にしながらも洗面所で顔を洗った。冷たい水越しに分かるいつもと違う顔。少しごわつくタオルで顔を拭くと鏡に映る自分と目が合うが、それは一瞬のことで、意識はすぐに別の所へと向かった。口の両端にあるひし形の傷。血は止まり、怪我も治り、包帯はもう要らない。だけれどこの傷だけは、あの日からずっと残っている。医者が言うには、傷跡が自然に消えることはないらしい。両頬にそっと手を当てるとようやく、十年近く見慣れた自分の顔が映った。もう二度と見られないかもしれない自分の顔だ。あの日、あの時、友人から向けられた冷たい視線を思い出し、心臓が跳ね上がる。カッと頭に血が昇り、指先は氷のように冷え切るのが分かった。吐き気を催したが、空っぽの腹では胃液以外に吐き出せるものは何もなく、行き場のない不快感を逃がすため洗い場の淵を強く握る。そのままじっと、波が引くのを待った。寒さで体が震えて、崩れ落ちそうになるのをぐっと堪える。視界が滲む。こんな姿を、ばあちゃんや千壽に見られたくない。そんな、たった一つのプライドだけが春千夜を支えた。そうしてどのぐらい時間が経ったか分からない。春千夜にとってはひどくて長い時間だったが、実際には二、三分にも満たないだろう。落ち着きを取り戻した春千夜は改めて口を漱ぎ、洗面所を後にした。血の混じった水が、排水溝へと流れ落ちる。戸棚から新品の絆創膏を取り出して、口の端へと貼り付けた。口を動かし生活に支障がないかを確かめる。うん、大丈夫。
 キッチンに立つばあちゃんの元へ向かうと、焦げ目のあるトーストとサラダと、それから思った通り目玉焼きが三つ並んでいた。春千夜が「おはよう」と挨拶すると、ばあちゃんも「おはよう」と返し「千壽に声をかけてやってちょうだい」と続ける。言われるまま千壽の所へ向かうと、あいつは暑かったのか布団を蹴とばしお腹を出した間抜けな状態で、まだぐっすりと眠っていた。
「千壽、起きろ」と揺さぶるが、起きる気配はなく、代わりにうんうんとうめき声が返ってくる。
「朝ごはん、先に食べてるぞ」と追い打ちをかけると、「うん、やだ、まって、起きる」ともそもそ言って、あいつはゆっくりと布団から這い上がる。まだ開いていない目を擦りながら「おはよう、ハル兄ぃ」と口にするので、素直に「おはよう」と返してやると、あいつは寝ぼけながらもふにゃりと笑った。
 ようやく三人が揃ったところで朝食を取る。少し前までは四人で使っていた食卓は空白が目立ち、違和感がある。春千夜がトーストを食べようと大きく口を開いたとき、両端が痛み思わず顔を顰めそうになったのをすんでの所で抑え込んだ。貼ってある絆創膏に皮膚が引っ張られ、痛む。ピリピリとした感覚が口元に残った。咄嗟に自分の口が裂ける様子を想像したが、頭をぶるりと揺すり、嫌な妄想を振り落とした。家族の前では気丈に振る舞いたい、という気持ちは兄によって植え付けられたものなのか、生まれ持った自分の意志なのか、春千夜には分からなかった。だけれど、この傷と生きていかなければならないということはよく理解していた。春千夜は存外、物分かりの良い子どもだった。あの日、あの後、彼の兄であり自分の友人に告げた言葉は、決して嘘ではない。いつかこの傷に見慣れたとしても食事が取りにくいことだけは欠点だな、と春千夜はぼんやりと考える。この傷ごと愛せる日がきっと訪れることを、春千夜は信じていた。そうやって少しずつ何かを受け入れることに、今更抵抗はない。
 なにもつけていないトーストは咀嚼するごとに口の中の水分が持っていかれて、飲み込みにくい。牛乳で無理やり押し流すと喉に詰まってむせ込んで、千壽に笑われるし、ばあちゃんには心配された。


 小学校も終わり昼を過ぎてから、春千夜はもう一度外へと出かけた。高く上った太陽がアスファルトに反射され、肌を突き刺す。いつもの公園、いつものメンバー、集合時間は十五時頃。待ち合わせに遅れないよう早足で向かっていたが、後ろからタタタッと懸命に走る音が聞こえて、春千夜はスピードを少し緩めた。正直、千壽のことは置いていこうと思っていた。だけど家を出るときになってあいつは、俯き自身の服をギュッと強く握りしめて、なにかを堪えるようにしながらも「一緒にいきたい」と言い出したのだ。ばあちゃんにも後押しされて、断り切れなかった。
 あの日以来、千壽はあからさまにこちらの顔色を伺うようになった。「ごめんなさい」は聞いたような、聞かなかったような。あまりにもたくさんのことがあったので、忘れてしまった。妹がびくびくと怯えながらも決して離れることはなく、春千夜について行こうとするのは、謝罪の機会を伺っているのか、罪悪感からか。それとも、春千夜以外に縋るものがないからなのか。とにかく、兄妹の間で決定的になにかが変わってしまったのは事実だった。
 公園にたどり着くと思った通り、マイキーと場地はすでに遊び始めていた。二人しか居ないのに、飛んだり跳ねたり大騒ぎをしている。こちらに気がつく様子のない二人になんて声をかけるべきか、迷い、躊躇った。足が重たくなるのを感じ、先ほどよりも歩みが遅くなった気がする。理科の授業で学んだ重力のことが、春千夜の頭をよぎった。強い重力がかかると、体が重たくなり動かなくなるらしい。それならば、兄貴の周りは重力が強いのかもしれない。そんなことを考える二番目の兄の様子に、妹が気がつくことはない。こちらの顔色を伺うくせに、だ。
 現実的に考えれば場地とマイキーが春千夜を無視する、なんてことはなく、実際に、遅れてきた春千夜に対して場地は「おせーよ、春千夜」と悪態をつきながらもカラカラと笑っていたし、マイキーは「千壽も一緒なのか」と声をかけ、兄妹を迎え入れてくれた。だけど、あの日から時々、春千夜はどこか疎外感を抱く瞬間があった。それは、特にマイキーから感じられるものだった。決して悪意をもった行為ではないのだけれど、自分と友人は対等ではないのだと思う瞬間。実際に軽んじられていなかったとしても、一度でも自身がそのような劣等感を抱いてしまった以上、世界は歪んでみえるものだ。
 春千夜は、ずっと昔にどこかの誰かと喧嘩をしたマイキーが「弱ぇ奴はすぐに泣く」と言っていたことを想っていた。そんな台詞は日常茶飯事で、春千夜自身ずっとずっと忘れていたのに、最近になって鮮明に思い出したのだ。
 あの日、オレは泣いた。
 もちろん、身に覚えのない出来事で友人に口を引き裂かれたのであれば、誰だって痛みや困惑や怒りで涙を流すはずだ。だけど、もしもあれが場地だったら、戸惑い涙を流しながらも、マイキーに殴りかかっていたに違いない。いやそれ以前に、冤罪を疑われた時点で襲いかかっていただろう。春千夜は、そうしなかった。できなかったのだ。
「春千夜はどう思う?」
「……えっ?」唐突に話題を振られ、春千夜の意識はあの日の佐野家からいつもの公園へと帰ってきた。
「なんだ、聞いてなかったのかよ」
「……あーごめん」
「ハル兄ぃ大丈夫……?具合悪いとか?」
「いや、大丈夫。ただ、ぼーっとしてただけ」と嘘偽りなく答えた。「それで、何の話?」春千夜の質問に対し場地が答えかけた時、言葉を被せるようにマイキーは口を開く。
「体調悪いんだったら、水飲むとか少し休むとかすれば?」
 それはたしかに友人を気遣う言葉で、優しさに溢れた提案だった。だけど、今の春千夜にとっては最悪の提案で、数秒息が止まった後に「うん、そうしようかな」と答えるだけが精一杯だった。三人から離れ自動販売機へと向かう途中、あぁ一人にはなりたくないな、という思いだけが胸の辺りで渦巻いていた。
 公園を歩いていると好奇の目が突き刺さる。それ自体、普段はどうでも良いのだが、今は鬱陶しくて仕方がない。視線を振り落とすようにそっぽを向き、春千夜は無心を心掛け自販機へと向かう。ポケットからばあちゃんに与えられた小銭を取り出して、適当な水を買おうかと思った。が、やっぱりジュースを選ぶことにした。ガコン、と大きな音がしてペットボトルが落ちて来る。最近新しくなったルーレットは、いまだに当たった試しがない。ほら、今日も当たらない。適当なベンチに腰掛け、春千夜は再びぼうっとした。口元にある絆創膏を触っていたのは完全なる無意識だった。
「ハル兄ぃ、大丈夫?」
「あぁ、別に」
 後から追いかけて来た千壽が、心配そうに訊ねる。ざすざすと公園の地面を巻き上げるように、足を軽く引き摺り歩く姿を見て「靴底がすり減るからやめさせろ」と、また兄貴に怒られるかもしれないなと思いながらも、注意する気にもなれなかった。当たり前のように隣に腰掛ける妹を、春千夜は横目で見やる。
 こいつのせいで、と考えなかったわけではない。だけれど、兄としてのプライドか、妹への愛なのか、それとも兄貴の躾の成果なのか。不思議と千壽に対する怒りよりも、オレがもっと強ければと考えることの方が多かった。
 オレがもっと強ければ。それは呪いの言葉だった。
「……ハル兄ぃ?」千壽は繰り返し訊ねる。不安でいっぱいな顔をしているのは分かっていたけれど、わざと無視した。春千夜なりの小さな仕返しだった。


 明けない夜がないのと同じように、夜は必ず訪れる。基本的に、ばあちゃんと妹の三人暮らしである春千夜は、家族の中では自然と眠る時間が最も遅い人となる。冷たくて静まり返る家の中を、物音を立てないよう慎重に洗面所を目指す。ばあちゃんの家は古く床はぎぃぎぃと鳴り響くから、静かにするには自然とすり足になる。丁寧に歯を磨いた後、口元の絆創膏を剥がした。粘着面に引っ張られた皮膚が熱を持ち、水で冷えた手を当てると心地よい。見慣れた自分が一瞬見えて、両手を離すと見知らぬ自分が鏡に映る。傷が一生治らないのであれば、傷は傷ごと愛した方が良い。そう思ってはいるけれど、今はまだ、難しそうだ。傷を見る度、あの日のことを思い出すから。
「弱ぇ奴はすぐに泣く」彼がそう言うのであれば、きっと彼の世界ではそうなのだろう。
「笑えよ」彼はそうも言っていた。
 言われるがまま、春千夜は鏡の前で笑って見せる。それは、あまりにもひどい笑顔だった。口角を上げると口元の傷が痛むし、不格好だし、情けなくて、何一つ楽しくない。笑えないほど、下手な笑顔だ。無理やり笑う自分の顔は、ピエロ見たいで滑稽だった。ピリピリと口の横から皮膚が裂けるような感覚がする。あの日のように、顔の半分を血で濡らした自分が一瞬、鏡に映ったように見えた。そうだあの日も、きっと今日みたいなへたくそな笑みを浮かべていたに違いない。口の中がカラカラに渇き、胃の中のものがせり上がりそうになるのをぐっと堪える。喉が胃酸で焼けるのが分かり、慌てて口を漱いだ。口の端が少し裂けていたのか、水が沁みる。水も血も胃酸も混じった気味の悪い液体を口から吐き出す。
「へったくそ」
 いっそのこと笑えてくる。

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