東京卍會が結成された。
 学校でその噂を聞いたとき、春千夜は鈍器で殴られたような衝撃を受けた。頭の中が真っ白になって、一度世界が遠のく。それからゆっくりと時間をかけて感覚が元に戻り、胸や胃腸の辺りの重苦しさを感じ、ざわざわとした雑音が耳に届くようになってから、ようやく「ははっ……」と鋭い呼吸が鼻と口の間から零れた。肺の中いっぱいに重い鉛を詰め込まれたような気分になりながらもどこか冷静な部分もあり、「あぁやっぱりな」と納得している自分も居て、勝手に傷ついているオレに対して馬鹿な奴だと冷ややかな視線を送っている。そんな自分を強がりだと指摘するオレも居た。そうやってたくさんの自分が頭の中に居ることすらも理解できているのだから、やはり驚きはなかったのかもしれない、などと余計なことを考える。それもまた、現実逃避だと分かっていた。
 明司春千夜にとって佐野万次郎と場地圭介は、いつも行動を共にする友人であった。いわゆる、幼馴染という存在だ。年上相手にカチコミに行くときも、子どもらしく公園で遊ぶときも、新しいおもちゃが手に入ったら真っ先に自慢しに行くのもこの二人だ。何をするにも一緒だった。その中でも特にマイキーとは兄貴同士で仲が良く、付き合いが長い。春千夜の家は父子家庭であり、長男である武臣が父親代わりのようではあったが、さすがに年子の兄妹の面倒は見切れなかったのか何かある度に「佐野家に行こう」と言われていたし、実際に春千夜も退屈な時や兄貴の"知り合い"が来て家に居られない時は、千壽を連れて佐野家に行くようにしていた。佐野家が二人を拒むことはなく、むしろ温かく迎え入れてくれた。第二の家のような感覚だったのかもしれない。佐野家は春千夜にとっての逃げ場であり、支えであり、心の多くを傾けた存在だったのだ。だからこそ、佐野万次郎が東京卍會を結成したと名前も知らないクラスメイトの口から聞いたとき、春千夜の世界は一度止まった。ピシリと何かにひびが入る音がする。思考を止めた脳には他の奴らの声や、建て前や、世間体などという余計な情報が入り込むことはなくて、まっさらな言葉だけが流れ出す。「なんで教えてくれなかった」「どうして声をかけてくれなかった」「裏切られた」そんな台詞がどこからか飛び出してきて、最終的に残ったのは「裏切るも何も、最初から仲間ではなかったのではないか」という現実だった。なるほど確かに、最近の二人は「幼馴染だった」という言葉が似合う程度には疎遠だった。数年前、マイキーがドラケンと呼ばれる子と出会ってから彼の家に行く機会がゆるやかに減ったと思う。


 ある日、いつものように春千夜は千壽を連れ佐野家に遊びに行き、自分より高い場所に居る龍と目が合った。相手もギョッとしていたことから、お互いに「誰だコイツ」と思っていたのだと思う。千壽は他の小学生と比べてぐんと背の高く、刺青を入れた少年に戸惑っていたのか、春千夜の背中にしがみつくようにして様子を伺っていた。初対面の気まずい空気が流れる中で共通の知人、つまりマイキーはどこかへいなくなっており春千夜と千壽、それから少年が無言で見つめ合う空間がしばらく続いた。
「あー……オマエ、いやオマエらか。二人ともマイキーの知り合いか?」最初に口を開いたのは向こうだった。マイキーの友人であり、また小学生にして頭に龍を入れているだけあって、口調は荒い。しかし、きちんと二人として見ていることに好感が持てた。春千夜が、そうだよと肯定すると、彼は自分より背の低い二人に合わせるように屈んでから「オレ、マイキーのダチ。ドラケンね」と再び話を続けてくれた。
「オレは春千夜。こっちは妹」
「……千壽です」まだ少しびびっている千壽に対しても彼は気を害したそぶりはなく、むしろ親しく「おう、よろしくな」と返した。ニカっと人の良さそうな笑みを浮かべていた。
「春千夜、マイキーどこいるか知らない?」
「いや、オレも探してる」
「千壽も?」
「……知らない」
「ったく、アイツが来いって言ったのになぁ……」
 愚痴をこぼすドラケンからはマイキーに対する嫌悪や怒りは感じられず、「やれやれ仕方ないな」とでも言いたげな、むしろ彼を慕っているのがよく伝わった。
 それから三人は特に会話を弾ませることはなく、二手に別れて佐野家を巡りマイキーを探し始めた。しかし、春千夜は途中で嫌になり外へと飛び出した。千壽もまた「まって、ハル兄ぃ!」と言いながらも、春千夜についてきた。この頃の千壽はまだカルガモの子だったのだ。ドラケンとはそれきり会っていない。正確に言うと、それ以降佐野家を訪れてもドラケンに会うことはなかった。それはつまり、マイキーや場地にも会えなかったということだった。遊び相手が居ないのであれば、佐野家も家も同じだ。
 自分の見知った空間によく知らない他者が紛れ込み、次第に変容する関係を目の当たりにして、春千夜は驚きや寂しさや怯えの入り混じった複雑な感情に絡めとられ、動けなかった。決してドラケンの人柄が悪かったわけではなく、また彼だから起こり得たことでもない。それは何枚も重ねられた布団の下に置かれた一粒のエンドウ豆のようで、ほんの小さな変化だとしても、春千夜の眠りを妨げるには十分だった。そういうものだと割り切るには春千夜は幼く、逃げるためには世界が狭すぎた。場地がどのように感じたのかは分からないけれど、東卍結成に関わっているというのだから、あいつは小さな豆に気がつかなかったのだろう。たしかに場地は、繊細という言葉とはかけ離れた男だった。あいつは細かいことを気にしない、強い奴なのだ。
 オレがもっと強ければ。
 呪いの言葉が繰り返される。それは錆びた釘のような形をしていて、いつからか春千夜の胸の奥底や胃腸の辺りに突き刺さっていた。下手に抜こうとすると周りの臓器も傷つける。だけど、錆はじわりじわりと広がって、いつしか春千夜全体を呑み込むまでに侵食していたのだった。錆びついた体では釘が刺さっていることなど、忘れているときも多いのだけれど、こうして時々顔を覗かせて「忘れるな」と主張する。


 授業などいつだって真面目に聞いていなかったが、その日はいつにも増して上の空だった。春千夜の頭の中は、今朝の噂でいっぱいだった。担任の話す声も、クラスメイトのざわめきも、校庭から聞こえるはしゃぎ声だって、全部、ぜんぶ、ノイズでしかない。春千夜は、突如自分が東卍に顔を出すことで二人に罪悪感を抱かせるのはどうだろうか、などと夢想し、あの二人がそんなことで傷つくはずがないと、すぐさま否定した。らしくないことをしている自覚はある。そんな彼の不調に気がつく人は世界に二人しかいない。と、思っていたのだけれど。頬杖をつきながら口元にある傷跡をなでる。この癖は、いつの間にか春千夜に染み込んでいたものだった。まるで生まれたときからそこにあったかのように、己に馴染んだ傷。春千夜はもともとガラが悪くクラスで浮いていたのだが、この傷のせいでさらに他者が離れていることはなんとなく理解していた。年を重ねるごとに、自分が良くも悪くも人の目を惹きやすい容姿であることは嫌でも自覚される。自分によく似た妹が側に居ると、余計に目立つものだった。
 家に帰ると、先に下校していた千壽がテレビを見ていた。画面から視線を外すことはなく、だけれどちゃんと「おかえり」は言ってくれる。食卓の上に置きっぱなしにされた生ぬるい麦茶を、コップに移して一口飲む。美味しいとは言い難く、ただ喉を潤すためだけの作業。この数年で、痛みを伴うことなく何かを食すことには慣れた。ちらりと妹の方を見やると、頭の上にある結んだ髪があいつの動きに合わせて揺れ動いていた。昔よりも短く切り揃えられ、ずっと雑に括られた髪。こいつは東卍について知っているのかと考えたが、今は兄貴の知り合いがやるボクシングジムに入り浸っているという話を思い出し、かぶりを振った。数年前までカルガモの如くついて来たというのに薄情なやつだ、と思ったところで、自分がもう何年も妹の髪を結いてやっていないことに気がつく。
 千壽が見ていたのは何年か前に録画した幼児向けのヒーロー番組で、もううんざりするほど見たことがあるものだ。興味のない春千夜ですら、先の展開を諳んじることができる。
 序盤はいつものようにヒーロー側が優勢に敵をやっつけるのだが、不意をつかれたリーダーの赤を庇い、青が倒れる。取り乱す赤を黄色が叱責しながらも、敵の猛攻から二人を守り続ける。春千夜の記憶では、当初チームは赤と青の二人で結成されていたのが、気がついた時には黄色も混じっていた。きっとどこかでメンバーに加わるというエピソードがあるのだろう。黄色が攻撃を一身に受けることで、旧知の仲である赤と青に対話の機会を与えてやっているのだと気がついたのは、たしか通算五回目の視聴の時だ。リタイアしそうになる青に対して、赤が必死に呼びかけるものの次第に青の口数が少なくなっていく。青は最後の力を振り絞り、かつての思い出やこれまで語られたことのない赤への羨望が入り混じった信頼を告げるシーンは、幼いながらにも感激したのを覚えている。そして最後に青は「俺が居なくてもお前はもう大丈夫。心配するな」と口にする。
「俺たちは三人でチームだから」春千夜の言葉は、テレビによってかき消された。
 世界はああいう風に出来ていると、春千夜も思っていたのだけれど。

 それから数日後、春千夜は神社に向かっていた。そこは東卍のメンバーが集会場所としてよく利用している場所だった。目的は入隊希望の旨を伝えるため。春千代は、この数日で誰かから勧誘されたわけでも、喧嘩に負けたわけでもなかった。もちろん、気まぐれに興味を持ったわけでもない。明確に自分の意志で入隊を決意したのだ。 「本当にそうだろうか?」と問われれば春千夜は、数秒置いてから、やはり「そうだ」と答えるだろう。冷静に考えると意地を張っているような面はあるかもしれない、と自分でも思う。もうしがみつくのはやめるべきだと、考えなかったわけではない。
 春千夜が東卍を選んだのは、己のためである。
 と、春千夜自身は思っている。馬鹿げた妄想に浸って、勝手に傷ついて、泣いて。弱い自分を変えるために、東京卍會というかつての友が作った場所を利用することにしたのである。以前妹に吐き捨てた言葉を、現実にさせるために。
 神社には案の定東卍が揃っていた。突如として現れた春千夜に、集会に参加する者は早々に気がついた。特に石段の上に座り込んでいたボス、マイキーは真っ先に春千夜を見つけ出しすっと立ち上がる。直後、その場に居る全員が一斉にこちらを向いた。
「オマエ……」ドラケンが小さく驚いた声をあげる。春千夜は、彼が自分のことを覚えていたことに少し驚いた。殺気や警戒心を含んだ視線の矢が体中に突き刺さり、身動きが取れなくなる。が、それは一瞬のことで春千夜は一歩、また一歩と歩みを進めた。
「オマエ、何?」真っ先に噛みついて来たのは、場地の隣に並んでいた黒髪にリーゼントの男だった。特徴的に垂れた目と片耳に鈴のピアスをした彼は、瞳孔を開いたままこちらを鋭く睨み付ける。
「東京卍會に、入隊希望に来ました」
 緊迫した空気が震える。数秒後、ぶっと吹き出す声が聞こえて、やかましいぐらいの笑い声がたった一人から発せられた。それは、場地圭介によるものだった。場の空気が乱れる。あの男は決して賢いとは言えないが、状況を読み、事を進めるのは上手かったなと春千夜は思い出した。
「ふざけてんじゃねぇぞ」
「まあまあ落ち着けって一虎」今にも掴みかかろうとする男を、灰色の髪をした短髪の男がたしなめる。あぁあいつが羽宮一虎か、と春千夜はようやく理解した。東卍を結成するきっかけとなった男だ、と。
「野次や揶揄いには見えないし、こいつも本気なんじゃねぇの?なぁ、ドラケン」
「なんでオレに振るんだよ」
「ん、知り合いなんだろ?」
 ドラケンは無言で顔を逸らした。知り合いというにはお互いのことを知らなさすぎる。そんな彼の態度を見て男は「まぁ良いや」とドラケンから視線を逸らし、そのまま真っすぐ春千夜を見つめた。「オマエ、名前は?」
 即座に威嚇して来た一虎とは異なり穏やかにこちらの話を聞くような口ぶりだったが、それがポーズであることを察するのは容易だった。春千夜がすうっと大きく息を吸うと腹が膨らむのが分かった。だけれど息を声に変えることはなく、深呼吸として吐き出す。それからさらに一呼吸置いてから答えた。
「三途春千夜です」
 はっと息を飲む音がする。わざわざ見なくても分かる。場地だ。動揺している様子が目に見えて分かり、かえって安心した。唐突に現れた幼馴染が異なる名字を名乗れば誰だって少しは驚くだろうに、顔色ひとつ変わらない彼に春千夜は少しがっかりした。三途春千夜、という名前はいつだったか千壽と決めた源氏名のようなものだった。三途春千夜と瓦城千咒。どちらの名にしても、あまり良い意味が込められていないのは明白だ。
 正直、東卍が結成されたと聞いた時、心の内では入隊することは決定事項だったのだと思う。あれこれ考えた部分はあれど、結局はこの道を選んでいたという確信が、春千夜にはあった。たとえ喧嘩に負けて入隊を余儀なくされたとしても、誰かに勧誘されたとしても、結成メンバーに加わっていたとしても、自分の知らないところで設立されていたとしてもだ。どれも同じ結末に辿り着き、そこに至るまでの経緯が違うだけ。つまり、入隊の意志は早い段階から決まっていたのだ。そしてその時「明司春千夜」をやめることも決めていた。
 オレももっと強くなりたい。
 昔、一つ下の妹に吐き出した紛れもない本音。そこには暗に"家族"に縛られない自由への憧れも、含まれていたのだと思う。春千夜にとっての強さは自由への切符で、家族は妨げになり得るものだった。
 春千夜は他の全ての人間を無視して、かつての幼馴染だけをじっと静かに見つめた。人より少し高い位置に堂々と立つ姿は、リーダーというよりもまさに「王」と呼ぶにふさわしく、それ相応の威圧感と人の目を惹く力があった。この場には、十年と少しを生きた少年たちしか居ない。だけれど、ジリジリと肌を焦がすような緊張感で満たされ、気を抜けば足がすくむような重圧があり、はっきり言って異様だ。ただ、不快ではなかった。たっぷりと間を開けた後、マイキーはふらりとこちらに近寄ってくる。熱く重たい空気には合わない、ペタペタというサンダルの音。マイキーにとって春千夜の名はもちろん入隊自体が予想外であるはずで、どんな言葉を投げかけられても言い返せるように、春千夜は十分に覚悟しているつもりだった。石段を降り、自分より少し低い位置になった王の顔から目を逸らさず、だけれど不躾にはならないように気を配る。春千夜の心の内など気にすることなく、マイキーはみなと同じ地面に立った。人が自然と、春千夜とマイキーを結ぶ一本の道を作る。彼は地面の砂を巻き上げるように歩きながらこちらにやってきて、春千夜の前でピタリと止まった。
「オマエなら来てくれると思ってたよ、春千夜」
 そう言って彼はふっと笑うものだから、春千夜はどうしたら良いのか分からなくなった。その姿に王と呼ぶべき貫禄はなく、またあの日見たような冷たさも感じられない。春千夜の良く知る、ただの少年に見えたのだ。

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