楽園は何処

 高く登った太陽が肌を刺す。蝉が鳴き止むことはなく、耳鳴りのように脳を貫く。そんなよくある夏の日に、佐野真一郎の葬儀は行われた。自殺だった。この日の朝、春千夜はクローゼットから比較的取りやすい位置にあった制服を引き出した。つい最近まで鑑別所に居た春千夜の、唯一の正装である。長いこと着ていなかったというのに、まさかこの夏で二回も着ることになるとは夢にも思わなかった。わざわざ採寸までして購入した制服は、新品同様型崩れなく、きっちりと張られたのりのせいで腕もうまく上げられなくて、とても窮屈だった。外は嫌になるほど暑い。汗が頬を伝う。着込んだシャツが肌にまとまりついてきて、不快だった。暑さのせいか、受け止めきれない現実のせいか、脳の動きは鈍っていて同じ場面を繰り返し流し続ける。
 

 佐野真一郎の死は唐突の出来事に見えて、その実なるべくして起きたことだ、と春千夜は思っている。友人の死から数日が過ぎた頃。天気は大雨。佐野真一郎は川へ身を投げた。他でもない、春千夜の目の前で。橋の手すりの上に立つ真一郎を見て、春千夜は取り乱し、雨に濡れるのも構わず傘を放り投げ、震えながらも走り出した。水に濡れた服が体にまとまりついて、動きにくい。冷たい雨が、体と心を冷やす。
 こちらに気がついた真一郎は、一切の光もない暗闇を映した瞳をしていたことを、よく覚えている。どんな時でも強く優しく、みんなが憧れ好かれる男が、こんな姿になるまで心をすり減らしていたことに誰も気づいていなかった。いや違う。気づきながらも、どうすることもできなかった。あまりにも必死で、見ているこちらが傷つくくらいに痛々しく、甲斐甲斐しく、弟に命を捧げる様子を見て何も言えなかったのだ。尋常じゃない気迫に恐れ戦いたのかもしれない。そうしてみな同じ言葉を口にする。
 それで彼が救われるなら、と。
 雨だか涙だか分からない透明な液体が目から零れ落ち、頬を伝う。
「あの日に戻りたい」
 春千夜が伸ばした手も、言葉も、心も、真一郎に届くことはなかった。
 葬儀は粛々と行われた。久しぶりに見たエマは暗く俯き、淡々とした機械のように与えられた仕事をこなしていた。彼女はその年にして天涯孤独となった。春千夜は思わず、自分の妹を見やる。鑑別所から戻り久々に会った妹は、記憶よりも背丈が伸びて落ち着いていて「待ってよぉ」と必死に自分らを追いかける子どもは、もう居なかった。それから、この場に居ない自分の兄のことを思う。もちろん武臣にも連絡が行っているはずなのだけれど、彼はこの場に居なかった。自分の幼馴染が、かつてのチームのボスが、憧れの人が、こんな最期を遂げたことをアイツはどう思っているのか、春千夜には分からない。ただ一つだけ分かるのは、兄貴に失望したということだけ。すでにこれ以上評価が落ちることはない最底辺だと思っていたのだけれど、人はここまで家族を嫌悪することができるらしい。いっそのこと感心してしまう。会場は冷房がよく効いていて、汗で冷えた体には少し寒いぐらいだった。遺体を腐らせないためかと一瞬考え、そんなわけがないだろうとすぐさま否定する。意図的に思考を逸らしているようだった。意味の分からない呪文を聞きながら、春千夜は真一郎の死の間際を思っていた。彼の飛び降りを止められなかったことに、不思議と後悔はなかった。彼が自死を選ぶずっとずっとずっと前。事故が起こったあの日から、真一郎が囚われていたのを知っていたから。それで彼が救われるなら。それは魔法の言葉だった。

 葬式にきちんと参加したのは、記憶のある限り二度目だった。一度目はマイキーの葬儀だ。つい最近行われた。二度目とは言え、やはり決められた作法や手順が分からず困惑する。慣れないことをぎこちない動きで行うせいで、告別式が終わる頃にはどっと気疲れしていた。会場を追い出された春千夜は椅子に座りながら、ぼんやりと空を眺める。
「よぉ」ふらりと現れたのは場地だった。
「制服、似合わないな」
「それこの前も言ってたじゃねぇか。そんなにか?」そう言いながら場地はネクタイを緩める。
「あぁ、めちゃくちゃ似合わない」春千夜はふっと鼻で笑った。少なくとも本人はそのつもりだった。
「葬儀って、何回出ても慣れないな」
「こんなの、慣れたくないだろ」
「……それもそうだな」
 それから場地は、なにか言いたげな視線をこちらに寄越した。珍しいな、と春千夜は思う。だからこそ、なんとなく彼が聞きたいことは察せられた。
「オマエ、大丈夫か?」
「何が?」そう答えたのはわざとだった。相手に全てを任せて逃れようとする聞き方にムカついたから。それに、即答してしまえば、まるで事件のことに傷ついて忘れられない人みたいだなと思ったのだ。実際のところ、自分がどれほど負荷を感じているのか、春千夜には分からなかった。
「あー……その、えっと」どうにか言葉を探して言い淀む場地がおかしく見える。
「あれだろ。その、居たんだろ」
「あぁ」予想通りの質問に、「うん、ダイジョーブだよ」と予定通りの返答をする。「なんかさ、実感ないんだよ、まだ」
「オレも」
 二人はそれきり黙ってしまった。春千夜は再び空を眺める。目を瞑り瞼の裏に映るのは、ゆっくりと落ちた真一郎が水に呑み込まれるところ。空を切る自分の手。それから、眠るように穏やかだったマイキーの遺体。春千夜は自分の手を見た。人を斬りつけ、一度汚れた手。なにもかもを取り零した、自分の手。空っぽの両手。はぁ、と深い深い溜息が出る。呼吸は少し、震えていたような気がした。溜息というよりは、意図的に言葉として吐き出した音。そうやって、何もかもを追い出して消化しようとしたけれど思っていたより難しく、むしろ歯止めが効かなくなった。
「何が救われるなら、だよ。なに言ってんだよ。んなわけねぇだろ」思わず溢れたその言葉に、場地はちらりとこちらを見やるだけで何も言わなかった。大丈夫と、答えたばかりなのに。あぁもう、すべてが情けなくて、不甲斐なくて、いっそ全部壊れてしまえばいい。
「なぁ、場地」
「なんだ?」
「オレってこんな弱かったんだな」
 場地は答えなかった。
 真一郎を火葬場へ運ぶ時、「お別れの前に、良ければ撫でてあげてください」とエマから言われた。それは、マイキーが亡くなった時に真一郎が言っていたことでもあった。「最後ぐらいたくさんの人と触れ合えた方が、弟もよろこぶと思います」と。幸い、春千夜という目撃者のおかげで遺体は早くに発見され、引き上げられた。豪雨で荒れた川は石や砂やゴミを飲み込んでおり、それらにぶつかり体はボロボロだったけれど、水死体にしては綺麗な方らしい。ものによっては目も当てられないとかなんとか。死化粧の効果もあってか、春千夜の目には、ただ眠っているようにしか見えなかった。ある者はなにかを思い返すように頭を撫で、ある者は頬に触れながら唇を噛みしめ、ある者は体に触れることはなくとも静かに涙を流していた。春千夜は、真一郎の手を見た。喧嘩に使った無骨な手。誰かを守った大きな手。介護に尽くしたくたびれた手。あの時、掴み取れなかった手。手の甲に触れると、まるで氷のように冷たく硬い。すでに命がないことが身をもって知覚された。
 春千夜はそっと、真一郎の手を握った。
 瞬間、春千夜の頭に濁流のように映像が流れ込んだ。何本もの映画を一気に、強制的に見させられるような感覚。知らない映像が次第に知っている映像となり、新たな記憶が構築される。あまりにもたくさんの情報に耐え切れず、春千夜はその場にしゃがみ込んだ。頭が痛い。やめろと言いたいのに意味のない音が発せられるだけで、言葉の形にすらならなかった。
「ああああ……」絶叫が聞こえる気がする。それは、自分の声によく似ていた。神経が焼き切れそうなほど、酷使されているのが分かる。頭の中の不可思議な映像が視界をも遮り、何も見えない、聞こえない。たくさんの人が一斉に喋る。うるさい、うるさい、うるさい。黙れ。とうとう叫びすら、絞り出すことはできなかった。世界がぐんにゃりと捻じ曲がる。目が回る。気持ちが悪い。吐きそうになるのをぐっと堪える。呼吸ができているか分からない。目を瞑っても、情報が途切れることはない。瞼の裏に見えたのは、黒い特攻服を纏い、ホーク丸と呼ばれる原動機付自転車に乗るマイキー。バイクを整備する真一郎。知らない記憶だった。ないはずの、理想の世界。
「春千夜」場地が叫ぶ声がする。
「そんな声初めて聞いたんだけど」という軽口は、やはり言葉にならなかった。

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