次に意識が戻った時、春千夜は布団の上に居た。見慣れたばあちゃん家の自室。つい先程まで、葬儀に出ていたはずなのに。肌に触れる布の感触はやけにリアルで、葬儀の方が夢ではないかと錯覚してしまうほどだった。そう思いたいだけかもしれないが。
「何なんだよこれ……」思わず独り言を溢すと、口元にある違和感に気がついた。冷え切った、力の入らない手を震えながらも動かして、春千夜はそっと口元に当てた。ざらりとした慣れない感触。瞬く間に体温が奪われる。あぁ血の気が引くというのはこういうことを言うんだなと、自分で思えるぐらいには冷静で、落ち着いてはいられなかった。春千夜は布団から勢いよく飛び出して、バタバタと大きく音を立てながら廊下を走った。床がぎぃぎぃと軋み、家が揺れる。埃が舞う。そんな些細なことは、全く気にならなかった。慌てて洗面所に飛び込んだ瞬間、緊張が走る。これを見れば予想が確信に変わると分かっていた。心臓がまるで耳のすぐ横にあるのではないかと思えるぐらい、ドクドクとうるさく鳴り響く。洗い場の鏡の前に立った春千夜は、視線を下に向けきつく目を瞑った。深く深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。それを三回繰り返す。そうしてようやく、心拍以外の音が聞こえるようになった頃、覚悟を決めて恐る恐る両目を開けた。顔をあげ、鏡写る自分自身を見つめる。
 そこには、口元に菱形の傷跡がある自分が映っていた。
 思った通り。恐怖と高揚が入り混じり、体のすべてが心臓に置き換わったかのようだった。ぶらりと顔が熱くなり、脳の芯が燃えている。これは、理想の世界が今ここに存在しているという確固たる証拠になり得るものだった。自然と口角があがり、顔がにやける。鏡に映る自分は醜悪とも美麗とも取れる、歪んだ笑みを浮かべていた。が、しかしそんなものはどうだっていい。冷静でいられるわけがない。だって、この傷があるということは今見た夢のような記憶が現実で、つまりは二人が生きているということなのだから!
 こんな不格好な傷でさえ、今は愛しくてたまらなかった。

 新しく生まれた記憶を頼りに、春千夜は真一郎の営むバイク屋へと向かった。本当に本当に本当に、夢じゃないのか確かめるために。事態を把握するために。自然と足が動き出すことから、どうやら自分は定期的に通っていたらしい。自分の知らない自分に気がつき、ゾッとする。外の風にあたり、正気を取り戻した頭に残ったのは、燃えるような歓喜ではなく、見知らぬ世界に対する漠然とした不安と恐怖だった。体の真ん中にぽっかりと穴が開いたかのような感覚がする。胸の奥がざわつき、内臓からふわふわと宙に浮いたかのような。体がバラバラとなり砕け散るかのような。うまく言葉で言い表せず、だけれど確実で強大な不安と恐怖。自分が自分じゃないようで、どうしたら良いのか分からなかった。夢と現実の境目が曖昧になる。重く、立ち止まりそうになる足を一歩、二歩と動かして、長い時間をかけてようやくバイク屋に辿り着いた。本当に存在したんだ、と春千夜は内心驚愕していた。正直、半信半疑だったのだ。店の前には、一人の男が立っていた。間違えもしない、もう二度と見られないかと思っていた真一郎の姿。春千夜はいつものように「真一郎君」と呼びかけたつもりだった。しかし、実際に口から飛び出したのは「真兄」という聞き慣れない渾名だった。認識がぐにゃりと曲がる。気持ちが悪い。ペケペケと間抜けな音が遠く聞こえ、それがすぐにホーク丸の音だと分かった。そんなの、見たこともないはずなのだけれど。

 場所をバイク屋から喫茶店に移し、春千夜と真一郎は向かい合うように座った。店内は涼しく、不安や焦りで混乱した体に追い討ちをかけた。春千夜はジュースを、真一郎はコーヒーを注文する。それらが届くまでの間、二人は奇妙な沈黙に包まれていた。こんな馬鹿げた話をどう伝えるべきか分からず、口を開きかけては閉じるを繰り返す。ただいたずらに口の中を渇かすだけの行為。だけど、今の春千夜には頼れる相手が真一郎しか居なかった。
 明かに様子のがおかしい春千夜に真一郎が先を急かすことはなく、ゆっくりと春千夜のペースに合わせてくれたことに、かなり助けられたと思う。届いたジュースを一口飲んでから、春千夜は己に起きた不可思議な出来事について語りだした。自分の話は支離滅裂で、現実味がなく、ぶっ飛んだ出来事であることは十分に理解していた。頭のおかしい奴と思われても仕方がない。でもそれが、春千夜にとっての現実で、実際に起こった事であるのもまた変えようのない事実だった。真一郎は、困惑しながらも己の話に黙って耳を傾けてくれた。一通り話終えた後、少し間を置いてから、彼の雰囲気がゆっくりと変わるのが分かった。
「春千夜…オレは…万次郎を救う為にタイムリープしたんだ」
 それは春千夜の予想を上回る、罪の話だった。真一郎は滔々と語った。事故でマイキーが植物状態になったこと。いかがわしいものでも、怪しいものでも、マイキーのためならなんだってしたこと。おかしなホームレスに出会ったこと。彼を殺したこと。春千夜の目の前で、飛び降りたこと。そうやって、四年前に戻ったこと。
 事の顛末を包み隠さず丁寧に、彼は教えてくれた。真一郎の話は突拍子がなくて、奇妙で不可解で信じがたい出来事のように思えたけれど、春千夜はこれが事実なのだと確信していた。そうでなければ、自分の持つ二種類の記憶に説明がつかない。まるでパズルのピースがぴたりとはまるかのように、しっくりきた。目の前に居る彼が人を殺めたことや、二人の友人が一度死んでいたことに、やはりショックは大きかった。
 自分が手を伸ばした時には、もうすべてが遅すぎたのだと、本人から明確に突きつけられたような気がしたからだ。想像の斜め上を行く夢のような出来事を、春千夜は呑み込めないまま、ただ茫然と聞いていた。陳腐で面白味のない映画のあらすじを、延々と聞かされているかのような不快感。しかし、これ以外の正解が思いつかなったのも事実だった。ゆっくりと確実に、タイムリープという不思議な概念が自分に染み込み、受け入れられていく。少しずつ何かを受け止めることに、抵抗はない。渇いたトーストのように、きっかけさえあれば何だって飲み込むことができるのだ。たとえ痛みを伴うとしても。

 真一郎と別れた後、春千夜はほんの少し遠回りをしながら、家へ向かっていた。先ほど聞いた、この世界の仕組みについて噛みしめる。タイムリープなるものが通常起こり得るものなのか、春千夜には分からなかったし、それに伴う影響や変化や、被害についてもいまいち理解が至らなかった。ただ、自分の大切な二人の友人が救われて、生きていた。それだけで十分だった。それで自身に治らない傷跡が残っていたとしても、そんなのは瑣末なことだと、思えるようになっていた。あの二人が生きていれば、それで。それで十分。
 自分の居る世界について把握できたおかげか、ようやく地に足が着いた感覚がして、恐怖はいくらか薄らいだ。すると、代わりに浮き上がるのはよろこびの感情だった。
「今日聞いた話秘密にしてくれ」別れ際に真一郎は、そう言った。言われずとも、春千夜は今日の話を誰かに言うつもりはまるでなかった。弟想いの彼のことだ、この話をわざわざマイキーに伝えるはずはない。もしも告げてしまえば、きっとマイキーは、自分のせいで兄が罪を犯したことにひどく後悔するだろうから。真一郎は、あの黒龍をひとりでまとめあげた強い男だ。この世界の秘密を一生一人で抱えて生きていくだろう。つまりこれは、実の弟にも話せない罪の話。世界でたった二人だけ、共有された秘密の話。
 それは、孤独に傷つく春千夜の心を浮き立たせるのには十分すぎるものだった。
 やはり春千夜は傷ついていたのだ。自分に秘密でチームが立ち上がっていたこと。みなと疎遠になったこと。クラスで浮いていること。兄貴のこと。妹のこと。ずっと痛くないフリをしていた。飲み込むことに慣れていたから。そうして積み重なった傷跡に、今日の出来事が塗り込まれる。真一郎から強い信頼を得られた。実の弟よりも実の兄よりも強固な、ひみつという名の信頼関係。「共犯」と言い換えることもできる"それ"は、ひどく勝手で歪なものであると、指摘する者は居なかった。自身のゆがんだ笑みに気がつくためには、春千夜は幼く、弱く、純粋無垢な子どものように無邪気だったのだ。

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