肆
その日は、唐突に訪れた。忘れもしない、夏の暑い日。その日は夏休みで、千壽は朝からジムに向かい、ばあちゃんは買い物に出ており、春千夜はひとり家で棒アイスを食べていた。もうしばらく冷房にあたってから、外に出るつもりだった。突然鳴った電話の音にほんの少し胸騒ぎを覚えながらも、片手にアイスを持ったまま受話器を取った。「はい、明石です」と本当の姓を名乗る。それは、マイキーのじいちゃんからの電話で、昨晩佐野真一郎が強盗に襲われ亡くなったと、震える声で告げられた。
「え……?」頭が真っ白になった。ぐらりと世界が足元から崩れ落ちるような感覚。冷房のついた部屋が、熱い。溶けたアイスが手を伝う。ぽたりぽたりと床に水溜まりを作る。春千夜はその後、じいさんと何を話したのか全く覚えていない。気がついた時には受話器からプープーと間抜けな不通音が流れていた。かろうじて覚えていることは、真一郎が亡くなったということ。葬儀は後日行われるから来て欲しいということ。犯人はすでに、逮捕されているということ。塀の中では殴り込みに行くことすら許されないじゃないか、と咄嗟に思ったのを覚えている。足元に生ぬるい水が当たる。アイスはとうの昔に崩れ、ぐしゃりと床へ落ちていた。砂糖で手がベタつく。まだ一口しか食べていないのに。
春千夜にとって三回目の葬式は、そこまで苦労しなかった。一度目はマイキー。二度目は真一郎。そして今日もまた、真一郎。さすがに慣れてしまった、というのが正しいと思う。葬儀には、ばあちゃんと千壽とで向かった。思った通り武臣は来なかった。たとえ世界が作り変わったとしても、アイツは変わらないのだ。今回の葬儀にも制服で参列した。学生にとっての唯一の正装。最初はそれなりに学校へ通っていたこともあり、制服に着心地の悪さを感じることはなかったけれど、やはり独特の窮屈さはあって夏の不快感を増幅させた。三度目となると呪文のようなお経ですらなんとなく聞き取れるようになったのは、意外な発見だった。椅子に座り、呪文と人の啜り泣く声を背景に、春千夜は真一郎との秘密について考えていた。先日、真一郎が語ったタイムリープ。それが本当に起こった出来事であるというのは、自分の記憶とそこに居るマイキーが証明している。この世界は真一郎が一度タイムリープしたことによって、再生成された世界。この真実を知る者は、自分以外にも居るのだろうか。
春千代はあの時の会話を鮮明に思い出せる。
唐突に世界が変わったあの日。真一郎の罪を聞いた、あの日。春千夜は間違いなく、秘密を誰にも言わないと、伝えた。
それは生前の真一郎とした約束だ。そう、約束。
オレは、この秘密をひとり抱えて生きていかなければならないのか。
そう考えた時、肋骨の下のあたりが押し潰されるような気持ちになった。内臓が締めつけられて、内側から体に穴が開いて、そこからぐらりと崩れ落ちていくような、とても不安定な感覚。生涯、あの約束を、罪を、あったかもしれない未来を、忘れることができないのではないか。思わず口元を手で覆った。そうでもしないと、何かを吐き出してしまいそうだったから。不安、恐怖、歓喜、心配、憎悪、悲痛、孤独。様々な感情が入り混じった、言葉にならない歪で奇妙な形をした何か。この場では、口を抑え涙を流す人など大勢いるのだから、一人増えた所で浮きはしない。瞳がぐらぐらと揺れる。目を瞑ると、枯れた植物のようにやせ細ったマイキーの姿が写り、慌てて目を開けた。あんな悪夢はもうごめんだ。視線を前に寄越すと、そこには俯きながらもおとなしく座る、生きたマイキーが居る。隣にはエマも居る。みんな生きてる。ただ一人を除いて。
ここは、真一郎が命を懸けて守った世界。必死になって掴み取った未来。
あれは、真一郎君が命に代えて救ったもの。この世界に、愛された人間。
それを知るのはオレひとり、なのかもしれない。だとすれば、オレに出来ることは何だろうか。オレがあの子にできること。
「あいつは一生友だちだ」その言葉に嘘はない。オレがあいつにできること。それが、真一郎君の為になるならば。
そうやって思考が黒く塗りつぶされて行くことに、春千夜は気がつかない。呪いの釘がまた一つ、増える。
ふと気がつくと、参列者が順番に焼香に向かっていた。どうやら長ったらしい挨拶や呪文は終わっていたらしい。その中でも一人、制服姿の男が目に留まった。見覚えのある黒く艶のある髪。場地だった。久しぶりに近くで見た場地は、記憶よりもやつれ、疲れているように見えた。それもそうだろう。風の噂で、場地が強盗に関わっていると聞いた。"共犯"だったと。なんて馬鹿なことしたんだと、呆れと失望と恨みの入り混じった暗いもやが胸や胃腸の辺りを渦巻く。自分はいつもその場に居ないくせに、だ。不意に、黒く渦を巻いた何かが真一郎から抜け出すのを見えた気がした。それは生き物のように動き、するりと場地へ吸い込まれ、そのまま消えてしまった。見間違いかと思ったけれど、どこかで見たことあるような、聞いたことがあるような、そんな気がして頭の奥底に引っかかる。あれこれ思い返してはみるものの様々な記憶が混在しており、すぐには分からなかった。どれが現実でどれが夢なのか、曖昧になってきている。夢をうまく思い出せないのと同じように違和感だけを残し、そうして、それすらも忘れていく。自身の順番が回って来て、春千夜も記憶を頼りに線香をあげた。やけに手慣れた様子で焼香を終える子どもに、気がつく者はいなかった。
一度会場の外に追い出された春千夜は手近な椅子に座りながら、ぼんやりと空を眺める。そんな彼に声をかける者は誰も居ない。
春千夜はとうとう、ひとりぼっちになったのだ。
誰かを待つのもバカバカしくて、ふらりと立ち上がり、建物内を散策しようと足を踏み出す。「春兄ぃ、どこ行くの?」千壽が呼び止める声がしたので、「すぐ戻るよ」の意味を込めて手を振ってやった。どこもかしこも辛気臭くて、常に誰かの泣き声がする。真一郎が多くの人に愛されていたことは、一度目の葬儀で知っていた。葬儀屋なんて死んでもやりたくないな、と春千夜は思った。たくさんの人に愛された真一郎が、たった一つ、命に代えてまで愛した実弟。それが、マイキー。今、この世界に愛されている男だ。オレが、守るべき男。
とある一室。つい先ほどまで葬儀を行っていた大きめの部屋。真一郎はそこに居た。火葬場に持っていく前の棺が、蓋が開いたまま放置されている。まるで、春千夜の為にわざとそうして待っていたかのようにも思えた。幸か不幸か、春千夜が周囲を見渡したけれど、そこには誰も居なかった。春千夜と真一郎だけだった。慎重に辺りを警戒しながら、春千夜は一歩ずつ歩み寄る。棺の中をそっと覗く。今までで最も綺麗な遺体だった。安らかな寝顔だった。ぐっと息を吞み込んで、深く吐き出す。震えを懸命に抑えながら、春千夜は、真一郎の手を握った。氷のように冷たく、硬い手。人形のような現実味のない手。どれだけ強く願っても、待っても、祈っても、決して何も起こらなかった。