伍
「…居場所がねぇのか?」
武藤の問いに、春千夜はすぐには答えられなかった。
武藤泰宏という男は、何を考えているのかいまいち読みにくい人だった。無表情で口数も少なく、加えて大柄な体格で、どことなく熊が連想される。東卍の中でもかなり強い人物として有名で、実際に巨体を活かした派手な喧嘩を目の当たりにすると、たしかに野生の熊のようであった。大きな腕をぶんと回し、圧倒的な力でねじ伏せる。マイキーのように小柄で素早く、鋭いナイフのような強さではなくて、言うなればでかいトラクターのような強さ。どちらも異なる魅力があり、不良なら誰しも憧れる強さだ。
春千夜と武藤の出会いは唐突の出来事だった。ただ、今思うとあれは偶然ではなくいつか必ず起こり得る、必然的な出会いだったと思う。それは、夏の暑さがだいぶ和らぎ、一年のうちでほんの一瞬しかない過ごしやすい日が続いた頃。外の気候に反して、春千夜はひどく荒れていた。真一郎が亡くなってから、春千夜は「自分にできること」について考えるようになっていた。この世界の秘密について知る自分が、彼の為にできることとは。悩んだ末にいつも頭に浮かぶのは、太陽のように強く輝く金色。チームのボスで、かつての幼馴染で友であった佐野万次郎のことだった。真一郎がその命を懸けて守った実弟。彼を救うために、春千夜の友は命を落としたのである。この世界を作り変えてまで。春千夜はまだ十年と少ししか生きていない少年で、狭い世界しか知らない子どもであった。その小さな頭と心で懸命に考え、考え、悩んだ。自分にできることについて。その結果辿り着いた結論は非常にシンプルで分かりやすいものだった。
真一郎に代わってマイキーを守り、支えること。
それは、自分の兄ができなかったことでもあった。兄貴はチームの王を守れなかった。アイツは自分のボスを見捨て、チームの威厳を借りて、居場所を壊した。真一郎と万次郎は、容姿や性格や言動がそっくりとは言い難い。だけれど、仲間思いで、強くて、だからこそ他人の前では強い自分を見せたがる。その点だけは兄弟だった。雨の中、見たこともない闇を抱えて真一郎がゆっくりと川底へ落ちていく姿が、春千夜の脳裏にこびりついて離れない。真一郎君が最期まで誰かに助けを求めることができなかったのは、彼を支えるはずの副総長が居なくなったからだろう。そう、真一郎はひとりだったのだ。長い時間共に過ごして、信頼し、側に置いていた男は、王を見捨て自分のことばかり考えていたから。春千代はそうはならない。春千夜にとって、王はなによりも、なによりも大切な存在になった。王様を守れば勝ちなのだから。
何に?
この不条理な世界に。
少なくとも十年と少しを生きた少年の脳内では、この理論は成立していた。だからマイキー、ひいては東卍を馬鹿にする奴らは全員ムカついた。そういう舐め腐った奴らが王の前に現れるより先に、可能な限りぶっ飛ばす。そうすることで春千代自身も、喧嘩が強くなっていた。傷も増えた。春千代の体はいつもどこかに怪我をしていた。あまり楽しくはなかった。反対に、気に食わない者すべてに襲いかかり荒れ狂う春千夜は、次第に孤立を深めていった。自然な流れだった。口元の傷も相まって、人から敬遠されがちだった部分もある。孤独の傷を誤魔化すように春千夜はまた、暴れる。傷を埋めてくれた人たちは、もう居ない。自分でどうにかするしかなかったのだ。やり方はよく知らなかったけれど。
ある日、いつものように喧嘩を仕掛けていた春千夜は、突如その場に現れたマイキーによって場を治められ、そのまま首根っこを捕まれた。
「は、ちょ、何すんだよマイキー」
「いいから黙ってついて来い」
「えぇ…?分かった、分かった。とにかく、痛てぇから離してよ」
ついて来い、と言われたものの彼に捕まれている以上、ついて行く以外の道はない。春千夜の言葉なんて聞きもせず、マイキーがその手を離すことはなかった。ずるずると引き摺られる不格好な姿を晒すこととなり「あぁ靴底がすり減ってしまうな」などとどうでも良いことを考えやり過ごそうとしていた。星がきれいな夜だった。夜風が体中の傷を撫でると痛みが走るが、不快ではなかった。突然、階段の上で立ち止まったマイキーは誰かに声をかけたのが分かった。いつものように渾名だったため、それが誰かまでは、引きずられている春千夜からは分からない。それから、マイキーは春千夜の首をぐいと引っ張り、勢いをつけて前に春千夜を掲げた。急に切り替わった視界いっぱいに、熊のような大男が飛び込む。それが武藤との初対面だ。ギョッとしたのは一瞬で、よく見れば自身の隊の特攻服を着ている。つまり、仲間であった。
マイキーに吊るされた春千夜は、彼との身長差のせいか、段差のせいか、足がギリギリ地につかず、つま先立ちのような姿勢になっていた。体のバランスがうまく取れず、変な筋肉が働き体が痛い。はやくやめて欲しい。
「他の隊じゃ手ぇつけらんねぇ暴れ馬だ。オマエなら何とかしてくれるだろ?ムーチョ」
マイキーの言葉から、春千夜はようやく目の前の男がムーチョ、武藤泰宏であると知った。暴れまわっていた自覚はあったものの面と向かってはっきりと、それも初対面の相手に告げられるのは少し気まずくもあった。マイキーの言葉の節々から武藤に対する信頼が感じられ、不思議に思う。一体何をすればここまでの信頼を得られるのか。武藤という男は、一体どんな人物なのか。春千代の世界が、広がりかける。そんな予感がした。
その日から春千夜は、武藤率いる伍番隊に所属することとなった。伍番隊は他とは違う特殊なチームで、簡潔に言うと内輪のスパイの役目を果たしていた。
「疑わしきは罰する」それが伍番隊。つまり、今まで春千夜がやって来たことと何も変わらなかったのだ。マイキーが自分にぴったりの役目を与えてくれたことに、春千夜は少し嬉しく思った。マイキーはきちんと自分のことを見ていてくれたのだと、そう思えたから。武藤は愛想の良い人間ではなかったが、居心地は悪くなかった。特に王に忠誠を誓ったという点は、形は違えど自分に通ずるものがある。意外にも、武藤自身には愛嬌と呼べるような所があり、入隊して間もない春千夜にわざわざケーキを買い与えてくれたこともあった。チーズケーキだった。独特の酸味とクリームのような食感がして、味は、悪くなかったと思う。チーズケーキとチーズは全く別物であることを、この時初めて知った。共に居る時間が増えるほど武藤は実直な男だというのがよく伝わり、マイキーからの信頼があるのも、伍番隊という特殊な役目を任されていることにも、納得した。
誠実で真面目で、与えられた仕事を正確にこなす男。春千夜は、武藤という男を信頼に足る人物だと評価していた。自然と敬語を使うのは、相手が隊長だからという理由だけではないような気もした。尤も、元来春千夜は礼儀を知らない人間ではなかった。もともとは"物分かりの良い子"であり、特に内輪での余計な争いは避けるタイプだ。
コンクリートの壁に向かって体が投げられる。背中に痛みが走る。無機質な壁の冷たさが背中を伝う。喧嘩でボロボロになった体が、余計に痛む。春千夜を放り投げた当人は、感情のない目でこちらを上から見下ろしていた。むやみに問題を起こした自身に非があることは道理として理解できるが、それはそれとして、突如ぶん投げられたことに対する非難の意を込めて、武藤の方を見つめた。
「…居場所がねぇのか?」
そういわれた時、春千夜は、どう答えるべきか分からなかった。心臓はひやりと汗を流す。困惑と、図星によるものだった。武藤が何の脈絡もなく問いかけたそれは、まさに今の自分を的確に言い表しているようで、最悪の気分だった。あれは、春千夜に投げかけられた問ではなかったと思う。どちらかというと、こちらの心の内を汲み取って、確かめるような言い方。
何も答えない春千夜に対し、彼は「オレとオマエは似た者同士だな」と続けた。無言を肯定と受け取ったのか、疑問が確信に変わる何かがあったのかは、分からない。だけどこの時春千夜は、ただ漠然と「あぁ、だからか」と納得していた。だから、息がしやすかったのだ。欠けていた部分がぴたりと埋まる。
錆びた釘で腫れあがった傷口に、清潔な包帯が巻かれる。どうか治りますようにと、祈る。
それから少し、穏やかな日々が続いた。喧嘩をしなかったわけではないが、武藤に指摘された手前、八つ当たりのように争いを起こすことが躊躇われた。それに、武藤にとって問題児と見なされたら、伍番隊からも飛ばされる可能性がある。マイキーに頼まれた武藤が役目を放りだすようなことをするはずないとは思うが、万が一の場合、東卍から外されマイキーから遠ざかることは避けなければならない。そのためにも、春千代は、"良い部下"である必要があった。ただ、家と比べて不思議と辛くはなかった。
パチリと将棋の駒を置く。春千夜は将棋について詳しくなかったが、ばあちゃんの家で見かけたことがあり、ぼんやりと知っていた。武藤が好んで指していたため自然とルールは身につき、しばらくすれば対等に戦えるぐらいには強くなっていた。王様を守れば勝ち。非常にシンプルで、分かりやすい。春千代によく合うゲームだった。隊長と将棋を指す時間は静かで落ち着いていて、だけれど戦の緊張感もあって、心地よかった。その時の武藤は場地を気にしているようだったから、「マイキーは場地と幼なじみだから」と必要な情報を簡潔に伝えた。かつての友を売るような言い方に、良心が痛むことはなかった。疑わしきは罰せよ。それがチームのためならば。ただ、"幼馴染"という枠に自分を加えることはしなかった。
「"穴熊"か…意外と手堅いな」春千夜の策がバレる。が、それも想定内。
「"王"がなによりも大切ですから」
春千代は「穴熊囲い」を気に入っていた。見るからに守りが固そうに見え、実際に王手が読みにくい。そうやって着実に、確実に獲物を仕留めるのが性に合っていたからだ。
「王を大事にするものいいが自分も大事にしろ」
「…はい…すみません」
それは春千夜自身に向けた言葉であると理解するのに、少し時間がかかった。そんなことを面と向かって言われる機会はほとんどなくて、困惑する。どうしたら良いのか分からなくて、"良い部下"であるなら何と返答するのか検討がつかなくて、意味のない謝罪を吐き出した。家族にも、幼馴染にも、言われたことのない言葉。真兄であれば、などと考えかぶりを振った。そんなの、もう誰にも分からない。反応の鈍い春千夜に対し、武藤が何か言うことはない。彼の不器用ながらも人の心を汲み取る姿勢は、いつも春千夜を大きく助けた。
話の流れを断ち切るように隊長は「マスクぐらいしとけ」とこちらに黒いマスクを投げ渡した。「オマエはその傷で損してる」
春千夜はしげしげとマスクを見つめる。胸の内側をくすぐられたような気持ちになった。
おそらく武藤には合わない少し小さいサイズのものを、彼はいつから用意していたのだろうか。
頭に武臣の顔が浮かんで消える。人から物をもらうことに、嬉しさと戸惑いの感情が入り混じり、心の内が揺さぶられる。隊長から善意や優しさを汲み取ろうとしたけれど、無表情な顔からは何も分からなかった。ただ一つだけ、「損をしている」という言葉が、春千夜を素直に喜ばせるのを拒んだ。
あぁオレはそんな風に見られていたのか。
明確に言葉で示され、突き放されたような気がした。浮かれそうになる心を落ち着かせるには十分な言葉だった。掴もうと伸ばした手をほんの少し引っ込めて、躊躇う。不快ではないが、どこか引っかかるような、それは小さな棘のようなもので、一度気がついてしまうと忘れられないものだった。瘡蓋が剥がれるような痒みが、心臓のあたりで生まれる。その時、真っ先に春千夜の脳裏によぎったのは「あの日」の金色だった。それから、入隊を受け入れてくれた時のこと。彼もそういう風に、思っていたのだろうか。明石春千夜は損をしている、と。
貰ったマスクは思った通り、春千夜にぴったりのサイズだった。隊長の瞳にニコニコと微笑む自分が写っているのを見て、マスクも悪くないなと思う。それは、春千夜にとって都合に良いものだった。
それから半年後、春千夜は伍番隊の副隊長として、武藤の一歩後ろに並んでいた。黒いマスクを携えたまま。