陸
冷たく鋭い風が、春千夜の長い髪を揺らす。冬の気配がする。春千夜はひとつ花束を抱えて、歩いていた。深く、鮮やかな青色が目立つ花束だった。
場地圭介が死んだのは、一つ前のハロウィンだった。一応「自殺」という形になっている。場地がそうでありたいのなら自殺にしておこう、と春千夜は思っている。
あの日、芭流覇羅との抗争の日。
誰かの悲痛な叫び声が聞こえて、春千夜は声の主へと視線を送った。地上から、車が積み上げられた山を見上げる。松野千冬の目の前には、ぐったりと力なく倒れる、白い特攻服を着た男の後ろ姿が見えた。春千夜は思わず目を見開く。
「は……?」呼吸だか、声だか分からない音がこぼれ落ちた。
あの、黒く艶のある長い髪はとてもよく知っている人のように思えて、あぁいや、そんなまさか、と意味のない言葉が頭をよぎるが、両の目で見た現実は変わることなく、赤黒い血を流す場地の姿を捉えていた。抗争中であることを忘れ、無意識の内に場地の元へと一歩足を踏み出す。突然動きが鈍くなった春千夜を相手が見逃すはずがなく、顔をめがけて拳が飛んでくる。最低限の動きだけで躱す。そのまま下から顎を殴りつけ、相手を沈めた。この方が、他人の体液で汚れずに済む。本当は武器を使う方が好みだが、今回のような抗争に持ち込むものではないため泣く泣く諦めた。一刻も早くあちらに加勢したいが、芭流覇羅の連中が道を塞ぐだけでなく、"伍番隊副隊長の三途春千夜"が心配そうに場地の元へ駆け寄るわけにもいかず、思うように動きにくい。
「クソが」舌打ちと共にそんな暴言が飛び出すが、誰も気に留めないだろう。怒りに任せてもう一人、飛び込んできた奴を蹴り飛ばす。先ほどから辺りがざわいているのが分かる。どこか空気が変わった。春千夜も動きを止めてもう一度車の山を見たところで、体が硬直した。
ゾッと寒気が走り、肌がピリピリと痛み出す。鳥肌が立った。重力が強くなり、足がすくんだ。体は凍りついたように、動かない。
目がマイキーを捉えて、離さない。視界が狭くなる。
この感覚には、ひどく覚えがあった。克服したつもりだった。大丈夫だと思っていた。許されたと思っていた。けれど、そうではなかった。すっかり忘れていただけだったらしい。春千夜の脳裏には「あの日」が再び流れだし、腹の底から胃液や叫び声が沸き上がりそうになるのを、どうにか抑えた。恐怖や焦燥が、春千夜の体を支配する。
彼の目は暗闇に染まり、雨の中立つ真一郎を思い出させる。
自分の罪を突き付けられて、責め立てられているような気持ちになった。お前のせいで。お前が弱いから。あぁ違う。今の真一郎君を殺したのは、羽宮だ。
そう思った途端、春千夜の頭は次第に落ち着きを取り戻した。今、殺気を向けられているのは、突き放されそうになっているのは、軽蔑されているのは、オレじゃない。
マイキーは誰よりもしっかりとした足取りで、羽宮の方へと向かっていた。ドラケンと争っていた半間が、彼の前に立ちはだかる。がしかし、その長身は一瞬にして地に沈んだ。マイキーが自分よりもうんと背の高い相手を、たった一度の蹴りだけで、倒したのだ。彼の蹴りは昔から、鋭く、早く、強い。マイキーはしっかりと前を向いているはずなのに、目の焦点が合うことはなく、ただひたすらに深い、ふかい、底の見えない闇だけが広がっていた。主戦力である半間が倒されたことで、芭流覇羅の奴らのほとんどは悲鳴をあげて、慌てて逃げだした。忠誠心のない奴らばかりだ。
人が春千夜を飲み込み、波のように引いて行く。開けた視界に見えたのは、向かい合ったマイキーと羽宮だった。ドガっと鈍い音がして、羽宮が崩れ落ちる。マイキーは躊躇うことなくもう一度、彼の顔を蹴り上げた。吹き飛ばされ、地面に横たえる羽宮を、マイキーはただひたすら殴り続けた。泣き声やうめき声すら聞こえない。声を発する余裕さえもないのだろう。沈黙の中、人が人を殴る音だけが、断続的に聞こえる。いつも側に居たドラケンも、三ツ谷も、そして春千夜も、誰一人動けずにいた。殺気に気圧されていた。今動けば、確実に自分が殺されるという予感がした。血の匂いが春千夜の元まで届く。幼い頃見た、蟷螂の共食いが頭をよぎる。でも、今目の前で繰り広げられている行為は、そんな生存本能に駆られた生き物ではない。もっともっと利己的なもの。感情に支配され理性を捨てた人間が、生き物が、他の生き物を食い殺す瞬間に、目が離せないでいた。
春千夜としては、羽宮がここで死ぬことはむしろ喜ばしいことのようにも思えた。だけれど、マイキーが人を殺すのはダメだと反射的に思った。ダメだ。やめろ。止めねぇと。本当に?
マイキーが救われるなら、それで良いのではないか。
なんて言葉が、どこからともなく湧き上がる。それも、間違いではないような気がしていた。だって、ここで死ぬのはマイキーじゃない。羽宮だ。もしも少年院に入ったとしても数年で出てこられる。死ぬわけじゃない。また迎えに行けば良い。マイキーが罪悪感に苛まれるというのであれば、気が済むまで罪滅ぼしに付き合えば良い。居なくなるわけじゃない。
あぁなんだ、大丈夫じゃないか。
一度大丈夫だと気がついてしまうと、それが最善のように思えて、そんな夢のような未来しか考えられない。まるで熱に浮かされたようだった。静けさと恐怖と混乱を混ぜた異様な空気が満ち溢れる。人が、人を殴り殺そうとしている。この空間が異常だということに気がついていたものの、それもまた、悪くないように思えた。このまま身を委ねてしまっても良いような気がした。どうしようもない災害のような、嵐のような時間の中、黒く厚い雲を静かに切り裂くように、とても小さく、だけれどしっかりとした声で、彼の渾名を呼ぶ声が聞こえた。
「マイキー」
場地に名前を呼ばれ、彼は羽宮を殴る手を止め勢いよく振り向いた。場地は口から血を吐きながら、ふらふらとした足取りで、取り繕ったような笑みを浮かべて、額に汗を滲ませて、歩いていた。背中から流れる血が、通って来た道に跡を残す。どこをどう見ても大丈夫なはずがないのに、安心して心を預けてしまいたくなるほど、真っすぐで芯を持った目をしていた。何かを、覚悟したような目。
きらりと光るものが彼の右手に見えて、春千夜は思わず、あっと声をあげそうになった。
全ての動作が遅く見えて、まだ間に合うと錯覚してしまう。真一郎君の時と同じだ。あぁまた、春千夜はいつだって見ていることしかできない。どれだけ手を伸ばしても、叫んでも、届くことはない。
場地はナイフを両手に持ち、勢いよく、自分の腹に突き刺した。ぐらりと崩れ落ちた体を、千冬が支える。側にいた隊員と、何かを話しているようだったが、春千夜の耳には聞こえない。耳鳴りがする。うるさい。誰かの叫び声がする。人を殴る、鈍い音が聞こえる。そんな風にしか、頭が働かない。
「守れなかった」千冬が声を荒げる。
「救えなかった」鮮明に聞こえた心からの叫び。
それは、春千夜にも言えることだった。
三途春千夜は知っていた。場地圭介が東卍のために、仲間のために、芭流覇羅へと移ったことを。
場地が一度倒れる直前に殴りかかろうとしていた男は、参番隊隊長の稀咲鉄太だった。つい最近まで愛美愛主に所属していた奴に、マイキーは何を思ったのか、いなくなった隊長の座を与えた。入隊式の時からどうも胡散臭く、自分と似た空気を感じる。東卍に居るはずなのに、どこか遠くの先を見ているような目。だけど、いくら春千夜個人が怪しんだところで隊長やマイキーが認めている以上、口出しすることはできなかった。念のため調べ上げてみたものの、これと言って目立った経歴は分からず、様子を見るしかなかった。まさか場地も奴を睨んでいたとは、つい先ほどまで知らなかったけれど。
場地が東卍を辞めた日。春千夜は場地に、髪の手入れについて聞き、普段は石鹸を使うと言われた。試してみた結果翌日の髪質は最悪だった。
そんな緊張感のないいつも通りの会話をしたのは、場地がスパイの真似事をしていると、春千夜は知っていたからだった。きっと、松野千冬も彼の思惑に気がついていたのだろう。あいつはいつも、場地の隣に居たから。春千夜もまた、昔から場地のことを知っていたから、あいつが裏切るわけがないと分かっていた。何より伍番隊として誰よりも熱心に働く春千夜が、同じスパイに気がつかないわけがない。それでも強く引き留めなかったのは、東卍のための動きだと確信していて、場地が他人の言う事を素直に聞かないことをよく知っていたためだった。場地なら大丈夫だろうと、安心していた。だから、春千夜は痛んだ髪を触りながらも、次会ったときには絶対場地を殺してやろうと思っていた。また今までみたいに、馬鹿なことをして、軽口を言い合って、笑って。今までも、これからも。
どうやらそれは、叶わないかもしれない。
ちゃんと、寂しくなるなと伝えたはずなのだけれど。あいつはいつも、人の話を聞かないから。
マイキーは、羽宮のことを殴り続けていた。このまま、殴り殺す勢いだった。目を大きく見開き、瞳孔が狭まる。その時、黒く渦を巻いた何かが、マイキーの体から溢れ出しているのが見えた。
あれは何だ?
春千夜の目にはっきりと見える黒い何かは、マイキーの体から溢れ、うねうねと生き物のように渦巻いている。見間違いかと思ったが、以前もどこかで同じものを見たことがあるような気がして、必死に記憶の中を探る。タイムリープの前と後。そのどちらの記憶も手繰り寄せ、考え、思い出そうと試みたとき、沸きあがったのは真一郎のことだった。さらに引っ張られるように、彼の不思議な話が思い出される。
呪われろ。
直感的に、あれのことだと思った。呪いなどこの世に存在するのだろうか、と思ったが、タイムリープという不可解な現象によって、この世界は成り立っているという前提を思い出す。あり得ないとは言い切れない。そういえば、初めて話を聞いた時は気がつかなかったが、今思えばタイムリープなどという、この世の理に反した出来事が無償で行われるとは、到底思えない。
他人を殺し、エゴで人を救った代償は、いったい何になるのだろうか。
場地がついていながらも真一郎君が死んだのは、なぜだ?
やけくそのような雄叫びが聞こえ、春千夜の思考が邪魔される。ほんの少しの怒りを覚えながらも声の主を見やると、見覚えのない隊員が羽宮をかばうようにマイキーの前に立ちふさがっていた。マイキーは容赦なく隊員を吹き飛ばす。がしかし、彼は諦めることなく、ボロボロの体を引き摺ってすぐさま立ち上がった。
「場地君はこんな事望んでねえよ」
今のマイキーに対して最悪だな、と春千夜は思う。出会って間もないであろう男に、今、目の前で倒れた幼馴染について語られて、良い気はしない。思った通り、そいつは顔から蹴られ遠くへ飛ばされた。馬鹿な奴。「テメェが場地を語んじゃねぇよ」
顔も名前も知らない彼は、地面に大の字になりながら荒く息をしている。虫の息、というのが正しいような、どうにか保たれた呼吸だった。
「死んじまったんだぞ場地君は」
まだそんな力があったのか、と思えるほど耳を貫くような大きな声で、はっきりと、そう叫んだ。みっともなく顔をぐしゃぐしゃにして、泣いて、大声で。だけれど、頭に、心に、よく通る声だった。
そうか、場地は死んだのか。
春千夜はようやく現実を理解したような気がした。隊員が放り投げた上着から、ぽとりと何かが落ちる。マイキーはそっと、それを拾い上げた。小さい、どこにでもあるようなお守り。だけれど、それを見つけた瞬間から、マイキーの雰囲気がゆっくりと、変わり始めたのが見て分かった。周囲の空気が変わる。
「"あの日"のお守りだ」
黒く闇に染まった瞳に、ぼんやりと光が灯り始める。
それは、東卍の創設に関わる思い出の品だった。創設メンバーから語られたのは、色鮮やかで美しい過去の記憶。困っている仲間を助けるために、創られたチーム。少年たちは、たったひとりのリーダーを信じて、自分たちのすべてを預けた。
誰かが傷ついたらみんなで守る。一人一人がみんなを守るチームにしたい。一人一人がみんなの為に命を張れる。
それが場地の掲げた理想のチームだった。
それはあたたかくて、やさしくて、陽だまりのような思い出だった。六人の心に刻まれた、生涯忘れることのない淡い記録。さきほどまでの緊迫した空気が嘘のように緩まる。
ただ、春千夜の心は凪のように静かだった。
だって、そんなの、春千夜には何の関係もない。場地は死んだ。真一郎君も死んだ。二人とも、春千夜の心の中に居座っていた人だった。春千夜の世界を構成する一部だった。そのどちらの死にも、あの羽宮という男が関わっているのは明白で。春千夜は、彼を許せるのか分からなかった。いや、そもそも春千夜にそんな権利すら、許されていないのかもしれない。それを選べるのはきっと、彼だけ。春千夜は彼らの親族でもなければ、「大好き」と言われる友人ですらない。ただ、家が近くにあっただけで、幼馴染と呼ばれるような関係であっただけで。こちらが勝手に、心の内に椅子を用意していただけで。ただ、それだけの関係で。
春千夜はいつだってひとり、見送る側だった。
川の向こうへ渡ってしまう友人たちを、ただぼんやりと眺める。対岸の火事、という言葉が頭に浮かぶ。あの諺の意味は、変えた方が良いのではないか。だって現実は、こんなにも痛くて、辛くて、息苦しい。対岸で見知った物が、人が燃えていくのを見つめることしかできない。春千夜は、川を渡れない。
河原でひとり、家々が燃やされるのを眺めながら、崩れもしない石を積み上げる。救われることを、祈る。
ふと思い浮かんだのはひとつ下の妹の顔で、あいつはどうしてこんな名前をつけたのだろう。皮肉なことに、あいつと決めた名前は今の自分にぴったりで、あぁそういうところが本当に、癇に障る。
遠くからサイレンの音が聞こえる。警察だとすぐに分かった。みなが素早い動きで撤退していく中、羽宮は場地とここに残ると宣言した。ふわりと吹いた風に揺られ、羽宮の耳元でリンと鈴の音が鳴る。透き通るような音がする。
「許してくれなんて言えねぇ。真一郎君の事も場地の事も一生背負って生きていく」
そう言って彼は、マイキーの背に向けて深々とお辞儀をした。ちらりと振り返る者も、涙を流す者も居たが、マイキーは決して振り返らなかった。
東卍の面々も撤退することとなり、春千夜もゆっくりと動き始める。人の波に飲まれながらも、逆らうように歩みを止めて、一度だけ、後ろを振り返った。冷たく横たわる場地の側に静かに座り込む羽宮。あの二人には、透明で淡く、強い、絆と呼ばれるような何かが確実にあったのだろう。それは、春千夜の知らない場地だった。
「三途、さっさと逃げるぞ」
「……はい。すぐ行きます」
数歩先を歩く隊長の背を追いかける。春千夜は二度と振り返らなかった。小さな背をした羽宮と、動かなくなった場地の姿が頭から離れない。春千夜はぎゅっと強く、拳を握った。そうやって、行き場のない感情をやり過ごす。昔からそうしてきたように。
平日昼間の墓地は人気がなく、静かで冷たくて落ち着く空気がした。ふらりふらりと歩き回り、ようやく見知った名前の書かれた墓石を見つけた。
場地の葬儀には参加しなかった。葬式なんてもううんざりだったし、彼とはあまり家族ぐるみの付き合いはしていなかったから、連絡すら来なかった。ただ、このまま何事もなかったかのように日々を過ごすには、失ったものが大きかった。場地が死に、羽宮が捕まり、それでもどうしようもなく日々は続く。東卍は存続し、みな今まで通りの生活に戻ろうとしている。場地の墓にたどり着いた春千夜が、いつもつけているマスクを外すと、ひんやりとした風が顔に当たって心地よかった。
「もう親泣かせらんねぇって言ってたじゃねぇか」
春千夜のひとりごとは、空に溶けて消える。
朧げな記憶の中にある場地の家族は、彼によく似ていていたと思う。反抗的な子どもに屈することなく、ダメなものはダメだと叱責しちゃんとした大人であろうとする姿を見て、親とはああいうものなのだと、漠然と思った。自分にはないもの。やはり場地は死ぬべき人間ではなかったはずだ。
先の抗争は「血のハロウィン」と呼ばれ、殺人事件として報道された。テレビや新聞では、場地は抗争中に勢いあまって殺され、凶器はナイフで、犯人はまだ中学生の少年だと言われていた。本当はそうじゃないのに。対岸で燃える家を見て、安全なところから「家主が不用心だったからだ」などとのたまう連中が、春千夜は心底嫌いだった。誤った報道が、噂が、人をさらに追い詰めることを、春千夜は身をもって知っていた。口元の傷跡を撫でる。
場地は他殺ではなく自殺だ。他でもない彼自身がそう言ったのだ。あんなに強かった場地を自殺に追い込んだのは、羽宮だったりマイキーだったり真一郎君だったり、仲間だったり。とにかくいろいろなのだろうけれど、春千夜の脳には、あの黒い生き物のような何かが焼きついていて、離れなかった。
あんなものただの見間違いとして無視することもできたはずなのに、うまく忘れられなかったのは、あれを見たのが初めてではなかったからに他ならない。初めて気がついたのは、真一郎君の葬儀だ。それも、二度目の葬儀の方。真一郎の遺体から零れた何かが、場地に吸い込まれるのを見た。二回目は先日の抗争だ。あの時、体溢れる黒い闇を抱えながらも、一切の光のない虚ろな目をしたマイキーを見て、"あの日"の恐怖がよみがえった。今思えばあの日、春千夜の口を引き裂いた彼も、どこか様子がおかしかったように思える。あの時のマイキーも、同じような目をしていた。少なくとも一つ目の世界では、そんな様子を見た覚えはなかったのに。だとするとやはり、タイムリープが関連しているのではないか。そう推測するまでにさして時間はかからなかった。
「呪われろ」
もしその言葉が本当だったとしたら、呪われたのは誰だろうか。
初めは真一郎君かと思った。人を殺めた代償として、同じような方法で殺されたのだと。だけれど、真一郎君が亡くなり、黒い何かは場地に吸い込まれ、そして場地は死んだ。
偶然と呼べるのは、二回まで。
それは、伍番隊として働く中で隊長から聞いた言葉だった。
春千夜の仮説はこうだ。黒い何かは人を殺し、人から人へと移る。そして、あれの正体についてはおそらく、マイキーと関連がある。マイキーは時々虚ろな目をして、他人に躊躇うことなく暴力を振るうことができるようになることがあった。いつも、仲間に優しく、愛情深い彼が嘘のように豹変する。先日、羽宮を殴り殺そうとしていたマイキーがまさにそうで、体から黒い闇を零していた。もしそれが見間違いでないのなら、黒い闇の根源は、マイキーだ。こうなると、春千夜としても他人事ではない。
次に死ぬのは自分かもしれない。
そう思うと、体温がぐっと下がり、指先が冷たくなった。口元が痛む。
マイキーの衝動的な暴力は、黒い闇——呪いのせい。
あの日、春千夜の口を裂いたのも、羽宮を殴り殺そうとしたもの、場地が自殺して、真一郎君が殺されたのもぜんぶ、ぜんぶ、全部。一度そう考えてしまうと、それが正しいように思えた。人が変わったように恐ろしく、躊躇いなく人を傷つける彼にも、説明がつく。もしそうだったら、春千夜は羽宮を恨み、殺さなくて済む。羽宮を許したマイキーに殴りかかりたくなる衝動も、きっとなくなる。彼が許すというのではあれば、赤の他人である春千夜が怒り、恨む権利はないのだから。
マイキーが許したとしても、オレは許せない。なんてことは、認められないのだ。マイキーが受け入れるなら、春千夜は煮え湯だろうと黙って飲み込み、マイキーが怒るというなら、春千夜は刀として相手を斬り殺す。何か拒否する権利を、春千夜は与えられていない。小さい頃からそうだった。でも、もしも呪いのせいだとしたら、少しは呼吸がしやすくなる。喉につかえたパンを牛乳で押し流すように、呪いは行き場のない感情を抑え込むのに最適だった。ただ、それにしたって、呪いという選択肢は捨てきれない。だってこの世界は、結構、だいぶ、歪んでいて、この世界の一番の歪みはマイキーだから。彼はもともと死人であることを時々忘れそうになるのが、春千夜は怖かった。
人を殺し実弟を生き返らせた代償として、呪いが生まれた。だから、マイキーを取り巻くようにして、様々な出来事が起こっている。これが、ここ数日で春千夜の出した結論だった。これからもずっと王と共に在るためにも、呪いなどと馬鹿げたことであっても頭に入れておくべきだろう。将棋では、盤面を把握し先を予測できた方が、勝つ。
春千夜は場地の墓の前に座り込むと、そっと花を供えた。ここに来る途中、立ち寄った花屋に入ったとき、真っ先に目に留まったのは深く鮮やかな青色をした花だった。場地にぴったりだと思って、気がついた時にはそれを選んでいた。あいつは、夏の青空のような人だった。カラカラと大きく笑い、ぶっ飛んでいて、暴力的で、だけど誰よりも仲間思いで、大きな背をしていたひと。その仲間の中に、春千夜が含まれていたのかは、最期まで分からなかった。
墓の前で線香を立てて、手を合わせる。冬のはじまりの風に合わせて、煙の匂いが広がる。いまだに、ここに自分の良く知る場地圭介が眠っているという実感がない。この世界のどこかで、春千夜の見えないところで、いつもみたいにたくさんの人に囲まれて、笑って、馬鹿みたいに元気に生きているような気がする。だけどもし、呪いの話が本当だったとしたら、ほんの少し彼の死を受け入れると思う。春千夜の目から涙が溢れることも、視界が滲むこともない。彼のような強い奴に近づけているのなら、良いのだけど。
「また来る」
立ち上がった春千夜は、自分よりもずっと小さく、冷たくなった幼馴染を見下ろした。濃い青色が太陽を反射して、目が痛い。