春雪忌

 雨と雪の混ざった霙が光を反射して、夜のくせに、外はやけに明るかった。あんなに恐ろしく、乱れた抗争は悪い夢だったのではないかと思えるほど、うつくしい雪がやってくる。分厚い灰色の空が、月を隠す。代わりに、港の明かりが春千夜を照らす。埠頭の近くには無機質なコンクリートが多く、湿り気を帯びた独特の冷たさを放っていた。
 横浜第七埠頭から少し離れた海沿いにたどり着いてから、春千夜は、羽織っていた赤い上着を脱いだ。中に服を着こんでいたとはいえ、長袖が一枚なくなるとだいぶ冷える。ただ、冬の冷たさは嫌いじゃなかった。海風が、手にした特攻服をバタバタと強く揺らす。まるで、春千夜の居場所を示す旗のようだった。オレはここに居るから、誰か見つけて、とでも言いたげな。誰にも届きはしないのに。
 春千夜はそのまま、風に任せて特攻服を放り投げた。ぶわりと吹いた冬の風が、真っ赤な布を舞い上げ、白い雪で濡らす。重力に従いひらりひらりと降りた服は、そのまま黒い海に落っこちた。夜の海は真っ暗で何も見えないことを、今晩、初めて知った。特攻服が水を吸い込んで、変色し、そのまま海へと沈む様子をぼんやりと眺める。天竺の文字が滲み、水面に歪み、闇に溶ける。オレたちのような不良が、天に届くわけがないだろうに。死んだら間違いなく、地獄逝きだ。それだけのことをして来たのだから。闇に沈み切った赤を眺めたけれど、特に思うことは何もなかった。怒りも悲しみも寂しさも孤独も感じられず、ただひたすらに虚ろ。救われたかった。報われたかった。まだ間に合うだろうか?いや、もう遅い。
 盲信こそが、唯一の救いだ。
 春千夜はこれまでの自分を許すためにも、生きるためにも、王を選び続けなければならなかった。陶酔し続けなければいけなかった。唯一の友を追いかけて、そんなところまで来てしまった。今宵春千夜は、意図的に人を殺したのだから。一線を超えたのは人生で二度目だったけれど、一度目の記憶は曖昧だった。世界が作り変わったせいで、本当に自分がやったことなのか、いまいち分からない。ただ、人を斬りつけた肉と骨の感触と、むせかえるような血の匂いだけはよく覚えていて、気がついた時にはよく手を洗うようになっていた。何度も何度も洗っても、自分の両手は空っぽで、他人の血で汚れ、死臭に塗れているように思えたから。
「アイツは一生友だちだ」
 その言葉に、嘘はない。本当だ。でも、選んだ道が過ちではないことを、信じ続けなければ、許し続けなければ、夢を見続けなければ。一度でも疑ってしまえば、もしも夢から醒めてしまったら、気が狂って死んでしまいそうだった。わざとでも正気を捨てなければならないと分かる程度には、酔いは醒めていた。全てを投げ出して、このまま海へと逃げ込みたくなるような。マイキーが生きる道とは、そういうものだった。
 黒川イザナはそれを、修羅と呼んでいた。
 突然全てが馬鹿らしくなって、春千夜は海辺を離れた。薄汚れた灰色の空から、この美しい雪はやってくる。世界が真白に染まり切る前に、春千夜はひとり家路につく。風が吹くたび長い髪が視界を遮り、鬱陶しいと思った。白金色が眼前にチラつき、雪が紛れ込む。切るか、染めるか、結ぶか。とにかく形を変えてやりたくなった。そうして思い入れごと全部、断ち切って。あぁそうだ、と春千夜は口元を覆うマスクに手をかける。これももう、必要ない。
 そうやって"伍番隊副隊長、三途春千夜"は、死んだ。
 それは、冷たい雪の夜のことだった。

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