捌
「隊長」
抗争前の最後の幹部集会が終わった後、春千夜は咄嗟に武藤に声をかけたが、そのあと告げるべき言葉が見つからず、一度口を閉じてしまった。普段の春千夜ならあり得ない、少し大きめな声だった。心臓がどくどくと嫌な音を立てる。武藤はゆったりとした動作でこちらを振り向き、そのまま、何も言わない春千夜を急かすことも責めることもなく、ただ静かに待っていた。
「隊長は、オレのことを信用してくれてたんじゃないんですか?なんで教えてくれなかったんですか?オレが、弱い奴だからですか?」そんな詰問じみた言葉は、結局のところ口に出すことはできず、沸き上がったごちゃまぜの感情を、まるでチーズケーキの土台みたいに全部、ぜんぶ砕いて、壊して、"隊長の求める三途春千夜"の型に押し込めて。そうやって吐き出されたのは、「すみません。何でもないです」という随分下手な逃げだった。「何でもないです」というのは、何でもなくない奴が言う言葉だと知っていたのに。
「佐野エマのことか?」
「そう、です」
武藤は意外にも人の心の機微を敏感に汲み取ってくれる人間だったから、春千夜が言おうとしてやめたことも、ある程度分かっていたのだろう。分かっていながらも、春千夜の口から言い出すのを待ってくれていたのだと思う。それを優しさと呼ぶ人も、世の中には居るのだろう。
佐野エマを殺し、マイキーとドラケンを潰す。
東卍は終わり、横浜天竺が関東を統べる王者として、日本の闇をすべて牛耳る。これが、先の集会で伝えられた今回の作戦だった。そんなの、初めて聞いたことだった。あまりにも現実味がなく、一瞬だけ言葉の理解が止まる。ただ、漠然と「また届かなかった」という言葉だけが、頭の中に浮かんだ。胸の辺りが締め付けられて、体全体が心臓になったみたいに、拍動がうるさく感じられる。頭が熱い。叫び出してしまわないように手を強く握る。手先はやけに冷たかった。武藤の方へと視線を向けるも、集会の最中に彼と目が合うことは終ぞなかった。集会が終わり幹部らと共に解散した後。武藤と共に車に戻る途中、春千夜は何度も声をかけようとして、やめて、を繰り返していた。「オレのこと信用してたんじゃねぇのかよ」という怒りや悲しみにも似た感情を皮切りに、失望や不信感が芽生え始め、それからすぐに感情を抑えつけるための諦めや納得が働き始めた。ちがう、そうじゃないのは分かってる。
武藤は春千夜を信頼している。
それはおそらく事実だ。腹心として側に置いてくれたことが何よりの証拠で、可愛がってもらって、良くしてもらったことは、一度だって忘れたことはない。だけれどそれは、気遣いや優しさといった慣れないものを生み出して、結果的に「三途には伝えない方が良いだろう」という形に至ったのだと思う。だから、"裏切られた"と思うのは半分正解で半分は間違いだ。人の感情は複雑怪奇に蠢いている。そう、頭では分かっていたとしても、こころがついて来れるかは別で、いつもだったら抑え込めるはずの感情が今回ばかりは少し溢れてしまって、気がついた時には武藤のことを呼び止めてしまっていた。そんなの"三途春千夜"らしくないのに。伍番隊に居た時は、一度もなかったのに。それはきっと、もう武藤の元から春千夜のこころが離れている証拠でもあった。
「佐野エマのこと、黙っててすまなかった」武藤は、春千夜の視線から逃れるように顔を少し下に向けた。「オマエが、マイキーだけじゃなくて、アイツの家族とも親しいのは、知っていた」
「もしかして、気を遣ってくれたんですか?」春千夜の質問に、武藤は答えない。それが何よりの答えだった。
「ふふ、ありがとうございます」あぁうまく笑えているなと、自分でも分かった。最悪な気分の時こそ、一番きれいに笑える。自然と笑みが湧き上がるから。「まさか殺しをするとは思わなくて、少しびっくりしただけです」たった今考えた言い訳だけれど、我ながらうまく取り繕えていると思う。"武藤の腹心である三途春千夜"にうまく軌道修正ができている。まだもう少し、仮面は被り続けないといけない。
「大丈夫ですよ」春千夜は努めて優しく声をかける。「隊長について行くと決めたのは、自分ですから」
最後にそう後押しすると、武藤の目が少しだけやわらかいものに変わるのが見て分かった。安心や喜びが見え隠れする。隊長は普段が無表情な分、感情が読み取りやすい人だった。それは、武藤の側で彼を見てきた春千夜だからこそ、分かることかもしれないが。
その日の夜、春千夜は天竺と共に第七埠頭に居た。夜の九時を過ぎていたが、東卍が来る気配はない。暇を持て余した黒川イザナは、集めておいた関東の著名な不良どもを、たった一人で殴り飛ばしている。骨が軋み、肉がぶつかる歪んだ音が聞こえる。夜気が潮の匂いと血肉の匂いを運び、混ざり合い、鼻の奥に残る。人が近くに感じられて、気分が悪い。黒川がいきものに躊躇うことなく暴力を振るい、圧倒的な力を見せつける様は、春千夜のよく知るマイキーに、少し、似ていた。
エマのこと、マイキーに連絡しなかった。もしかしたら、防げたかもしれない未来。だけれど春千夜がそれを選ばなかったのは、何もかも、分からなかったからだった。マイキーが自分の言葉を信じてくれるのか。春千夜の話を聞き入れてくれるのか。黒い闇のことを知っているのか。このままでは近い未来、必ず妹が死ぬことを、理解しているのかどうか。春千夜には分からなかった。だって、もう長いこと、マイキーと二人っきりで会うことなんてなかったから。思っていたよりもずっと、ずっと、ずっと、二人の距離は遠かったことを、ついさっき思い出したのだ。
マイキーが生きている以上、彼の近くに居る佐野エマは、近い未来、必ず死ぬだろう。それが今日なのか、もう少し先なのか、ただそれだけの違いで。妹の死がどれほど大きな出来事なのか、春千夜にはピンとこないものだった。三途春千夜には、兄も妹も居ない。居ないものを想像するのは、少し難しい。だったら春千夜は、マイキーを選び取る。選び続ける。それに、あの日——場地が死んだ日。マイキーは黒い闇に呑まれたがっているようにも見えたのを、春千夜は見逃さず、決して忘れもしなかった。なんとか抑え込んでいた激情を開放し、心の赴くままに暴力を振るう様は、強く、恐ろしく、美しく。抑えつけるものがなくなり生き生きと、本来の自分を取り戻した、春千夜の王。大きな力を前にして憧憬のような腹の底から湧き上がる感情があり、強く、つよく、心を惹かれた。その解放感と歓喜の感情は、春千夜にも身に覚えがある。肩書きや立場に囚われない、本来の自分。
もしも、王が闇に呑まれることを望んでいるなら、ノイズは排除すべきだろう。罪なら、すでにいくつも背負っている。人を斬りつけ、少年院に居たことだってある。今更一つぐらい増えたところで、もう、痛むものは何もない。マイキーが生きてさえいれば、それで良い。たとえそれが、修羅の道であったとしても、春千夜は共に在り続ける。それが偶像だろうが、虚構だろうが、偽りだろうが、ただ一人の友人である佐野万次郎であることに、変わりはないはずだから。
そうやって自分に言い聞かせるみたいに何度も、何度も、何度も。王が何よりも大切だからと、唱えるのだ。
夜の十時をまわった頃。いまだに東卍は来ない。ひとりの少女の死が、じわりじわりと背を伝い、春千夜の体にまとわりつく。一向に起こる気配のない抗争に、天竺の面々が空気を緩ませる中、たった一人の男だけが遠く先を見つめていた。
「いや、アイツは来るよ」稀咲は確信めいた言い方をした。
「は?何の事だ?」
ボスである黒川の疑問に答えることなく、稀咲は人差し指を唇に当て、静かに耳を澄ませる。獣がピンと耳を立てて警戒するみたいに。遥か向こうの天敵を、探り当てる。ほどなくして、遠くの方から複数のバイクの音が聞こえ始めた。まるで、未来が視えているかのような振る舞いをするこの男が、春千夜は初めから嫌いだった。次第に近づいて来る走行音の中に、聞きなれた音が混じっているのが分かった。独特な、バブーと鳴く排気音。一瞬だけ淡い期待が芽生えたが、それはすぐさま打ち砕かれる。チームの先頭に立つ男は、春千夜の求めた王ではなかった。分かっていたはずなのに。もしかすると、許されたかったのかもしれない。これは、間違いなくエマが死んだ証拠だった。
チームを率いた花垣武道は、顔に何枚もの湿布を張って、赤や青に変色したままの皮膚で、ただ、めらめらと命を燃やす星のような大きな目をしていた。そういえばアイツも、同じCB250Tだったなと今更ながらに思い出す。マイキーがアイツを気に入った理由は、ここ数日で少し分かっていた。
あの目が、真一郎君に似ているから。
春千夜はそこが、気に食わなかった。気味が悪かった。鬱陶しかった。真一郎君を他人に重ねるマイキーのことが、それ以上は言葉にするのを意図的にやめた。熱から逃げるように、花垣から目を逸らした。
「待ってたぜ、ヒーロー」
稀咲の放った台詞をそのまま、口の中で転がす。稀咲らしい演技じみてて壮大で、陳腐で幼稚な言い回し。春千夜の脳裏に浮かんだのは、幼い頃からいつもテレビで流れていたヒーロー番組だった。春千夜のお気に入りは、本当は、赤だった。けれど、アイツも赤が好きだから、春千夜は兄だから、譲らなくてはいけなくて。いや違う。三途春千夜に兄妹はいないはずだ。リーダーに見合うのはマイキーだから、マイキーが赤で、春千夜は青で、黄色は場地ということにしたんだった。そんなふうに空想して。幼馴染という関係は、永遠のものだと勘違いして。親友という幻想を信じて。だけれど理想の未来は、創り変わったこの世界でも、その前でも在り得なかった。でも確かに、赤に似合うのは青で、青が似合うのは場地だ。嫌なことを思い出したなと、腹の辺りが重くなった。
魁戦を任された斑目はひとりベラベラと大声で喋り続けていた。対して東卍を代表は林で、斑目がどの程度の強さかは知らないけれど、勝敗は目に見えていた。林の長い腕がぶんと飛んできて、人が顔から吹き飛ぶ。骨が歪む音がして、斑目はそのまま地面に伏せった。新鮮に驚く天竺の面々を横目に、春千夜は内心でため息を吐いた。東卍はオマエらが思っているよりも、ずっと、ずっと強いのだ。
花垣が、開戦の狼煙を上げた。
春千夜は、抗争に積極的に参加することはしなかった。いくら東卍が強いとはいえ圧倒的な人数差があるため、多少手を抜いていも問題ない。何より武藤が、積極的に動くことをしなかった。心のどこかで、躊躇いや後悔があるのだろうか、と淡い期待を抱きそうになるが、現実に直面すべきだと、甘ったれた自分の頬を叩く。隊長の側に付き従い、時々突っ込んでくる東卍の奴らをぶっ飛ばすだけの簡単な仕事。他の幹部らはもともと祭りが好きなのか、大々的に暴れまわり、ひどく楽しそうにしているのが見えた。たくさんの人の怒号や、雄叫びが耳を貫き、人が人に暴力を振るう乾いた音が断続的に聞こえる。血と汗の匂いが舞い、波と潮の気配を掻き消す。冬の冷たさは感じられず、人間が肌で感じられて、とても気持ちが悪かった。
開戦からあまり時間が経ってないにもかかわらず、春千夜と武藤の前方に居た隊員らが吹き飛ばされていくのが見えた。明らかに、こちらを狙った誰かが居る。春千夜は少し警戒を強めた。が、人混みの中から短く揺れる金髪が見えて、すぐに相手を悟った。
「会いたかったぜ、元伍番隊隊長さん」乾青宗は、ただ一点——武藤だけを見つめていた。"元伍番隊"という言葉が、不用意な春千夜の心を抉る。「テメェぶっ殺して九井を奪い返してやる」
「オマエの相手はオレじゃねぇ」
その言葉を合図に、彼の顔を横から殴りつけたのは九井だった。乾は唖然とした、間抜け顔を晒す。何が起きたか分からない、と顔に書いてあった。
乾が来たら、九井が相手をする。それは、天竺の中で事前に決めていたことだった。いつ裏切るか分からない異分子を精査するための、儀式めいた行いとも言える。自ら天竺を選んだことの証明。ただ、それを志願したのは、他でもない九井からだったのが、少し意外だった。だってあの時、むやみに傷つく乾を見て、まるで自分が殴られているかのように焦り、怯え、傷ついた顔をしていたのは、九井だったから。だからこれも、九井なりに乾のことを考えた行為なのだろうなと察するのは容易だった。
「もういいんだぜ?天竺のフリしなくても!オマエを迎えに来たんだ」
ドッと鼓動が早くなった気がした。乾の言葉は間違いなく九井に向けられたもので、春千夜は何の関係もないはずなのに。春千夜には、そんな台詞を放ってくれるような人は、手を差し伸べてくれる人は、居ないと分かっているはずなのに。胃の辺りが締め付けられた。
「天竺に来い!イヌピー」九井は乾の提案を跳ね除け、代わりに乾に手を差し伸べたが、アイツは拒絶した。二人は殴り合う。怒鳴って、叫んで、感情を剝き出しにして、心をさらけ出して。そうやって本気でぶつかり合う二人を、春千夜はぼんやりと眺めていた。コイツらの過去に何があったのか、さして興味もなかったし、知りもしない。だけれど、こんな風に傷つけ合ってまで隣に立ち並ぼうとする姿は、少し、ほんの少しだけ、眩しく見えた。同じ"幼馴染"であるはずなのに、それは春千夜の知る関係とは全くの別物だった。光に目が眩んで、頭が痛くなる。息がしにくい。だから、こちらに近づいてきた東卍の奴を殴って、誤魔化した。
乾と傷つけあいながら段々と、戦意を喪失し始めた九井を背に隠すように、武藤は前に出た。九井は東卍に寝返ることはなかったため、天竺としては合格だったのだろう。
冷静に先を見通す九井とは対照的に、乾は感情的な性格のようで、武藤に向かって真っ直ぐ殴りかかろうとこちらに突っ込んで来た。武藤は乾の腕を掴むとそのまま、彼の勢いを利用して、地面に向かって投げ飛ばす。ひどく大きな乾いた音が、周囲に響き渡った。隊長が魅せる柔道は人を叩きつける派手なやり方が多く、大きな熊のような、恐竜のような、力だけの粗暴な動きのように見えて、その実、相手を正確に捉えるための繊細でやわらかな動きが必要だった。春千夜は、武藤の正統な戦い方を見るのが好きだった。乾は動物じみた声をあげ、地面に伏せる。九井はもう、傷ついた顔は見せなかった。
乾を伸してから少しして、誰かが泣く声が、騒ぎの中でもかすかに聞き取れた。それからすぐに、周囲の空気が変わったことが肌で感じられた。騒ぎの中心を見れば、アングリーが灰谷と望月を伸しているのが見えて、春千夜は素直に驚いた。いつもと違う無感情なソウヤは、まるで別人のようで、彼の髪色が青でなければ、どちらだか分からなかったかもしれない。彼は箍が外れたように、躊躇いなく、容赦なく、人間をコンクリートに叩きつけて回る。いつも彼はスマイリーの影に隠れていたが、あれは隠れていたのではなく隠していたのだと、今更ながらに分かった。たしかにアレでは、一線を越えてしまうかもしれない。いつか誤って、人を殺してしまうかもしれない。武藤や灰谷と同じ、他人に暴力を振るうことに躊躇いのない人間。だから、双子の兄弟などさして変わらないはずなのに、唯一の兄として懸命に弟を隠し、守っていたのだろう。そういう意味でも二重に驚いたのだ。あんな風に弟を大切に想う兄は、真一郎君だけではなかったのだと。もしかすると、そっちの方が"普通の兄弟"なのかもしれない。春千夜の知らない、家族の形。
春千夜の一歩前に並んでいた武藤は、真っすぐな足取りでソウヤの方へと向かう。
「テメェは東卍のダークホースだな」
「ムーチョ」
あぁまだ渾名で呼んでくれるのかと、春千夜の腹に巣食う重たい煙のような息苦しさが、また増える。そういえば、彼の兄は武藤を慕っていたなと、また余計な情報が浮かんで、しゃぼん玉のようにはじけ飛んだ。武藤はソウヤの腕を強く掴むと、そのまま勢いよく叩きつけようとした。小柄な体が宙に浮く。おそらく武藤は、相手を本気で傷つけるつもりで、殺す覚悟で、容赦なく技をかけたつもりだったのだろう。しかし、武藤——彼だけでなく周囲の面々、さらには春千夜の想像に反して、ソウヤが重傷を負うことはなかった。ソウヤは宙に浮いたまま、自身の足を武藤の首に引っ掛ける。想定外の動きに、武藤が目を見開くのが見えた。ソウヤはそのままの姿勢で上からドンと力をかけて、武藤を頭から地へ叩きつけた。武藤は反射的なうめき声をあげ、同時に少し血を吐いた。
これで、天竺の四天王は全滅だ。
東卍の想定外の強さに、天竺の面々がざわつき始めたのを、春千夜は冷たく眺めていた。流れが一気に東卍の方へと傾き始め、追い風を吹かせる。他の四天王と違い、武藤は気を失っておらず、呆然と仰向けに倒れていた。頭を強く打ち付けていたから、念のため安否を確認しようと彼に一歩近づくと、息を荒げているのが聞こえ、春千夜はそこで足を踏み出すのをやめた。嫌な予感がした。武藤の様子がおかしい。彼が倒れ込んだままなのは、敗北感や屈辱感、もしくは痛みが原因かと思っていた。だけれど、武藤の顔に写っていたのは、焦りや恐怖、もしくは絶望感、といった言葉がぴったりで。血走った目で、冬の透き通った夜空より先の、遠い過去を見ているような気がした。
春千夜の中で隊長の面影が、煙のようにぐにゃりと歪む。
「待てコラぁ」
唐突に、武藤は大きく声を荒げた。彼はいつの間にか、特攻服の中から細長いものを取り出していた。そのまま、何かを宙に投げる。それはカランカランと軽い音を立てながら転がり、ちょうど春千夜の目の前で止まった。鞘だ。ようやく頭で理解した時、視界の端にきらりと光る銀色が見えた。瞬間、むせ返るような血の匂いと、ぐったりと力なく倒れた場地の姿が、記憶の表層から浮かび上がる。最悪の気分だった。彼はどうにか立ち上がっており、片手に短刀を持ったまま、虚ろな目で、息を荒げて、東卍の方を睨み付けていた。「まだ負けてねぇ」と叫びながら、短刀を振り回す武藤は、哀れで、醜くて、とても見ていられない。
春千夜の憧れた隊長は、もう居なかった。
過去の鮮やかな思い出にひびが入り、ガラガラと崩れ始める。春千夜の知る隊長は実直な人だったはずだ。だからこうして、マイキーを裏切ってまで、自分の居場所へと帰ったのだろうに。負けを認めず、怒鳴り、叫び、足搔き続けるこの男を、「隊長」と、あの頃みたいに呼べる気はしなかった。
今の武藤は、まさに"兄貴"のようだった。
短刀を振り回す武藤からアングリーを庇うように、花垣が咄嗟に前に出る。しかし、それよりも前に、赤色が刃を食い止める。鶴蝶だった。
「アンタの負けだ、ムーチョ」
「どけクソガキ。テメェになにがわかる」
武藤の声は、震えている気がした。もしかしたら少し、泣いていたのかもしれない。ただ、春千夜はあの場から一歩、また一歩と離れていたため、彼の表情までは見えなかった。春千夜の目には、鶴蝶をクソガキと罵倒する武藤の方が、聞き分けのないガキのように映った。でも彼はもう十八だ。子どもじゃない。
オレたちは、いつまでも子どもではいられないのだ。あとどのくらい夢を見続けられるだろうか。悪さばかりしてきたオレたちの猶予が終わったら、そしたら、どうする?
あぁうるさい。聞きたくない。見たくない。見なくて良い。マイキーがいればそれで良い。それ以外は何もいらない。何も聞きたくない。そうやって春千夜は、目を瞑って、耳を塞いだ。ああはなりたくなかったから。
鶴蝶が武藤の腹を殴り、鈍くやわい音がした。武藤がその場に倒れ込む。
「イザナ!この罰は後で受ける」鶴蝶は、主へと聞こえるよう叫んだ。花垣は「ありがとう…カクちゃん」と真面目くさった顔で言う。この場にそぐわない感謝の言葉と幼い渾名に、春千夜は身体の内側をくすぐるような不快感を抱いた。少しの沈黙の後、鶴蝶は花垣の言葉を否定する。それから、白けた空気を引き締めるように「命を預けた男の行く先がたとえ地獄であろうとついて行く」と言い放つ。それは曖昧だけれどはっきりとした断絶だった。
鶴蝶は春千夜と同じで、王のために全てを捧げた男だった。だけれど、だからこそ、春千夜は、鶴蝶の行いは気に食わなかった。だったらなぜ、武藤を止めた。王の意思に反していると分かっていたはずなのに。まるで、自分が間違っていると言われているようで。いい子で、正しくて、眩しくて、腹が立つ。
「あの頃のオレじゃねぇぞタケミチ」彼は真っすぐな言葉で、今度は明確に、花垣を突き放す。「天竺四天王筆頭、鶴蝶だ」
鶴蝶が纏う空気が変わった。敵意を向けられているのは自分ではないのに、少し寒気がした。立ち上がった東卍に向かって、鶴蝶は駆け出す。速い。咄嗟に受け身入ったソウヤを、そのまま遠く投げ飛ばした。頭から地に叩きつけられる。辺りがざわつく中、黒川だけは平然としていた。間髪入れずに乾の元へと向かい、殴り飛ばす。近くに居た千冬も合わせて吹き飛ばされ、硬い地面に骨が当たる音がした。うめき声一つ上がらない。鮮やかで、見事な身のこなしだった。春の嵐が過ぎ去ったかのように、鶴蝶の通った道には、誰一人立っていない。体を強く打ち付けたのか、痺れが残っているようで、東卍が再び立ち上がることはなかった。残っているのは、花垣だけ。
鶴蝶が暴れている間に、春千夜は武藤のすぐ側に戻っていた。うつ伏せに倒れる彼の側にしゃがんで様子を見る。気を失っているだけのようで、呼吸も脈も感じられて、荒れた心が少し、落ち着いた。生きているのであれば問題ないと、春千夜はまたいつものように、武藤の少し後ろに立ち並ぶ。そうやって武藤の意識が戻るのを待ちながら、このガキの喧嘩を越えた抗争を、ぼんやりと眺め続けるだけだった。