星合い
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見慣れた故郷の懐かしい景色に切り替わると、意識せずとも少しの安堵を感じ、ネジはもう木ノ葉に近い、里へと続く最後の森を抜けようと、木立の間を駆けていた。
そうして暫くの後、反して彼は、異常な緊張感に包まれることになった。
筆の先から滴る少しの墨汁が、やがてじわじわと、胸全体に黒く染み渡るように。
得体の知れない胸騒ぎが、ネジを襲う。
細やかな月明かりに浮かび上がる、元来から色白の面立ちは、先走る不安と焦燥の為か、血の気が失せ青白いほどだった。
只、一刻も早く、少女の安否を確かめなければと、土を蹴る力を強くし、姿勢を低くすると、一段と速度を速める。
切っ掛けは、一つの知らせだった。

――至急、来イ、ヒナタ――

それは、彼女の妹の、ハナビから飛ばされたものだった。
憎まれ口を叩きはするが、ハナビはどちらかと言うと、大好きな姉と、それの慕うネジ寄りの思考の持ち主だ。
ネジが、ヒナタと相思相愛の仲でいることは、知っている。
つまり、彼女の名を出し、秘密裏に、時を争う程の大事をネジに知らせているのだ。
自分がいない間に、何か良からぬことがあったのか――ヒナタに。
逸る気持ちを押さえながら、ネジは先を急いだ。


漸く屋敷まで辿り着くと、ネジはだが、そのまま歩み寄る足を随分手前でぴたりと止め、己を照らす月影から隠れるように、傍の塀に背中を合わせ、身を潜めた。
周囲には、ヒアシの作った緻密な結界が張られている。
常に屋敷一帯を囲っている、対侵入者用の強大なそれは、今の時点では、ネジにも適用される。

多分ハナビは、宗家には内密に、ネジを呼び寄せた。
ヒナタに本格的に何かあったとすれば、必要ならばヒアシの方から、直接ネジに命を下す筈だ。
秘密でなければならない、理由があった。
しかしそれならば、一体彼女に何があったのだ? と、ネジはハナビの意図するものを推し量る。
そして、その思考は長くは続かず、藍色の闇に僅かに吐き出された、苛立ち混じりの溜め息に依って中断される。

――このままでは、埒が明かない。
自分の気に掛ける少女の安否が分からず、長期任務の疲労も相俟ってか、ネジは少なからず苛立っていた。
あれこれ考えるよりも、一目、ヒナタを視た方が早い。
かと言って、不用意に屋敷の中を“視る”ことは、出来なかった。
先程から、ネジが気掛かりなヒナタの様子を、白眼で探らず、慎重になっているのは、恐らく視た後に待ち受けている、宗家が寄越すカウンターの為だった。
屋敷の内部を視た瞬間、自動的に、視た者に幻術が掛かる仕組みになっている。
それはヒアシ直近以外の白眼遣い――言うなれば宗家の内部情報の持ち出しを目論む分家筋に当てた、対身内用の自衛策なのだろう。
ネジにそのようなことを起こす気は全くないが、これでは中を探る手立てがなく、安易に忍び込むことも出来ず、取り敢えずはハナビからの次の指示を待つことにする。
ネジを呼んだからには、必ず何かしらの“合図”が、彼女からある筈。
恐らくヒアシに気付かれぬように出されるだろうそれを、結界に付け入る隙を、ネジは息を詰めて待つ。

月光を遮る塀で出来る、影の中でじっとして、呼吸を潜めて夜の闇に溶け込む。
物音一つしない、ひっそり閑とした里の郊外、ふわりと涼しい夜風が、ネジの頬を撫でていった後、屋敷を覆っていた結界の一部が、不自然に歪んだ。
途端に、綺麗に丸みを帯びていた完璧な囲いが、敵の侵入を容易く許す、欠陥品となる。
仮令針の穴程の欠損でも、忍を相手取ったものとしては、致命的。
一部分だけ、注意深く見ないと分からない程度の綻びに、意識を集中し、ネジはやがて、現在は使われていない、屋敷裏手にある古びた木戸を見付ける。
如何やら、其処から入れと言うことらしい。
背後の塀から背を離すと、注意を払いながらも、ネジは吸い寄せられるように、護りの綻んだ裏戸に近付いた。


















「良いから早く! 姉上」

ぐいぐいと、小さな掌に手を引っ張られて、訳が分からぬまま、ヒナタは足を動かす。
部屋のドアを閉める間もなく、ハナビに手を取られて、強引に其処から連れ出された。
何があったの、と言い掛ければ、しっ、とすぐさま声を遮られ、ヒナタは口を噤んだ。
ハナビは何も説明しなかった。
只何か、酷く急いていた。
そしてそれは、如何やら家人には内密なことのようで、人目を避けるようにわざわざ大回りして、外を目指すハナビの様子に、開けっ放しにして来てしまったドアのことを、今更ヒナタは気にしていた。

「い、一体、どうしたの? 庭になんか出て……」

ヒナタを伴って屋敷から抜け出したハナビは、門には向かわず、中庭を突っ切っていく。
きつく握ってくる手の力に、そこはかとなく強い覚悟を感じる。
だがそれでも、ハナビの行動の意図するものが未だ分からなかった。
殆ど無言で、ヒナタを引っ張っていたハナビは、中庭を抜けたところでやっと足を止め、暫し前を向いたまま佇んだ。
ひゅう、と夜風に吹かれて、幼い少女の黒髪が、ヒナタの目の前で靡く。
固く握り締められた手は、そのままだった。

「……この先に、ネジ兄がいるはずです」

少し横顔を向けて、後ろにいるヒナタへと前方を見せるハナビに、ヒナタは全身が凍り付いたかのように、動かなくなる。
え? と殆ど無意識で問い返して、俄かに信じられない妹の発言に、二の句を失う。
行ってください、と言う、手の力を緩めたハナビの示す先には、随分前に壊れて使えなくなったらしい、古い木戸があった。

「……兄さん、が? ……ど……どうして?」

行き成り、ネジがいるから、行けと言われて、ヒナタは自らを取り巻く状況が整理出来ない。
只、訝しく、嘘のような話をするハナビを、困惑した眼差しで見据える。
それは、この夜に、本当なら会える人だった。
しかし、“ダメ”になったのだ。
言い難そうに、それでいて淡々と、ネジの帰還が延びたことを、朝、コウに告げられて――。
何も書いていない短冊を、そっと、引き出しに仕舞ったのだ。
明らかに吃驚し、不安げな顔で見てくるヒナタに、ハナビは少しだけ目を細めた。

「……一つ言えるとしたら、父上のせいです。とにかく、行って。コウが命懸けで、結界を弛めているので」

困ったような、何か泣きそうな。
壊れそうなハナビの笑みに、やっとその意図を覚ったヒナタは、驚愕した。

「……ハナビ」

ヒナタの、全てを見通した静かな呼び掛けに、答えるようにハナビは笑みを濃くする。
いつも事ある毎に、屋敷に出向いたネジに嫌味を浴びせていたが、そうだ、優しい子だったと、ヒナタはこれまでの出来事を思い起こす。


――今日はネジ兄が来るんでしょう!?

いつもの装束姿で、まったりと茶を飲んでいると、早く着替えて来いと、血相を変えたハナビに部屋に押し込まれて。

――ほら、この前貰った髪飾りもつけましょう。恥ずかしいとか言っている場合じゃないよ! いつまでもつけて貰えないって、ネジ兄ショック受けるよ!?

恥じて嫌がるヒナタを無理矢理鏡台の前に座らせ、ほら、似合う似合うと、地味な姉のするほんの少しのおめかしを、手放しで喜んでくれて。
道場でばかりデートしていないで、偶には二人で何処かへ行ったらどうかと、こっそりと、植物園の鑑賞券を、ヒナタに手渡して。

――……帰りにね、近くにあるあんみつ屋さん、寄って来ると良いですよ。ちゃんと言うんですよ? 姉上から言わないと、ネジ兄緊張しているから、絶対気付かずに素通りしちゃうから。


――“行ってらっしゃい、姉上”


笑顔で手を振ってヒナタを送り出した、誰よりもネジとヒナタのことを分かってくれていた、この小さな妹は。
七夕の夜に密かに涙する、姉の為を想って。
酷い無茶をして――。

切なく顔を歪ませたヒナタが、ハナビに覆い被さる。
背中に回された腕で、強く強く、肩を抱き締められ、此方まで泣きそうになってしまう。
しかしハナビは黙って、大人しく其処に収まっていた。
震えるヒナタの背に、手を回すこともしなかった。

強く、それでいて優しい抱擁の中で、ハナビは胸いっぱいに、その匂いを吸い込んだ。
この大好きな温もりが、自分から離れ、自分以外の誰かのものになるのは、少し悔しかった。
だが、決して後悔はしていない。
ここまでヒナタの心を、掴んで離さない男のことが、そんなに嫌いではなかった。
最愛の姉の幸を願い、密かにそう浮かべるハナビの顔は、どこか誇らしげだった。
若干の寂しさを隠し、ハナビが健気に微笑っていたのは、ヒナタの後ろにある、彼女を照らす月明かりしか、知らない。

「……ありがとう、ハナビ……っ」


肩を抱く手に、一層の力を込めて、声を詰まらせながら、ヒナタが耳元で告げる。
何も言わないハナビの体を解放すると、振り返ることなく、ヒナタは真っ直ぐに裏戸へ駆けて行った。

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