星合い
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大分以前に、屋敷に仕える使用人が使っていたらしき、その古い戸には、鍵がついていなかった。
表面は木が所々剥がれ、蔦が絡まり、数年、或いは数十年単位でほったらかしにされている様子だったが、此処に住まうヒナタも、近くで見るのは初めてだった。
子供心に、何か気味の悪い感じは受けていた。
だから意識せずとも、怖じけたヒナタが、指先を戸の引手に持っていくまで、少しの間が出来た。


――ヒナタ様?

戸の前に佇み、恐る恐る手を掛けようとするヒナタの気配を察し、外側から、静かに声がした。
それに反応し、ぴたりとヒナタの指が動きを止める。
ハナビの話は、真実だった。
その声を、ヒナタが聞き違える訳はない。

「ネジ兄さん!」

そう言った刹那、恐れを捨て、ヒナタは引手に手を掛けた。
力を込めて戸を動かそうとするが、長い間開けられた形跡のないそれは、固く閉じていた。
それでも無理矢理に力を入れ、必死にネジの元に行こうとするヒナタに、やがて外側からも、それを手助けしようと力が加わる。
ガタガタと脆い木の音を鳴らしながら、錆びた部分を滑らせて馴染ませるように、戸が左右に小刻みに揺れ出し、ヒナタは手を引っ込める。
少しだけ開いた隙間から、指先が入り込んで戸に宛がわれ、時々戻しながらも徐々に開いていく。
動きに合わせて揺れる白い袖が、隙間から見え、ヒナタの鼓動が高鳴る。
やはり紛れもなく、これはネジなのだ。
狂おしいくらいに会いたかった人が、木戸を挟んで、直ぐ其処に――。
ガタッ、と大きな音を出して、遂に、閊えが取れた戸がするすると開いていき、何も考えずにヒナタは外に飛び出した。

「ヒナタ様……」

声と同じ、思った通りの人が、戸の外に立っていた。
暗がりの中、何の迷いもなく、ヒナタの手がネジへと伸ばされる。
しかしガクリと、予期せぬ感覚が起こって、その場に戻された。
飛び出した勢いのまま、抱き付こうとしたヒナタを、肩に置かれたネジの手が、それを押し留めた。
真剣な顔で、じっと近くでヒナタの顔を覗き込むネジは、暫くし、ほっと、僅かに安堵の息を吐いた。

「……良かった。ご無事でしたか。何ともないようですね」

肩を掴む手から、力が抜けるのが分かる。
何故、任務から――何かしらの事情があって、帰って来たネジの方から、自分の身を心配されるのか。
けれどもネジが何を思って、そんなことをするのかは、今のヒナタにはどうでも良いことだった。
二人の間にある、ヒナタを押さえる彼の手の方が余程、もどかしくて仕方ない。

「ハナビ様から、妙な知らせが届いたので。急いで来てみれば……一体何が……ヒナタ様……?」

涼しい顔して淡々と話し続ける、邪魔なネジの手を押し退けて、その胸の中に、ヒナタは今度こそ飛び込んだ。
背中にしがみ付き、只管ネジの名を呼んだ。
顔を埋めたネジの胸元は、冷めた声音と反して温かかった。
少し湿った、雨の匂いがする。
将又それは、彼が身を置いていた所で降った、雪だったのか、溶けてしまえば、ヒナタには確かめる術がない。

「ネジ兄さん、ネジ兄さん……!」

壊れたように何度も名を呼び、抱き付くヒナタに、やがて立ち尽くしていたネジの表情が和らいだ。
ヒナタの直ぐ頭の上から、懐かしい、ヒナタに頗る甘い彼の声が、涙が出るほど優しく降る。

「はい……オレですよ、ヒナタ様……。ここにいます。帰って来ました」

ここに、いますよ――。
しがみ付くヒナタをしっかりと抱き留めながら、ネジが落ち着かせるように言い聞かせ、胸に収まる頭をさらりと撫でる。
その掌の感触に、熱涙が込み上げ、堪らず目をぎゅうと瞑って零れたヒナタの雫が、ネジの胸の装束に沁み込んでいく。

「随分と、ご無沙汰でしたが……大丈夫ですか? 変わりないですか?」

まるで妹を気遣うような、ネジの慈愛の籠もった問い掛けに、ヒナタはしゃくり上げながら背中の装束を握り締め、首肯の代わりとする。

「きちんと食べていますか? 睡眠は? 無理な鍛え方はしていないですか……? あなたはオレの心配ばかりしていましたが……オレの方が、心配でした」

どうあっても、ネジの方が過酷な状況にいたというのに、それでも彼はヒナタを気に掛ける。
ヒナタの落ち度を責めることなく、只、只管に、涙に暮れるヒナタを宥めようと、耳元に声を届ける。

「手紙、ちゃんと届いていましたよ。毎日、読み返しました。あなたときたら、いつも同じようなことばかり書いていて……いや、それはオレもですが……嬉しかったです」

「にい……さぁん……っ」

本来なら、自分がネジを気に掛けなくてはならないのに、先にネジに言われてしまって、不甲斐なさに益々嗚咽が激しくなる。
そんなヒナタの心情を知ってか知らずか、ネジは頭を撫でながら、ヒナタの書いていた“同じことばかり”な内容の一つを、口にした。

「それと……もう、謝らなくて良いです。オレが任務に行かされたのは、あなたが客人の茶を零した為ではないですから」

何度“違う”と言っても、文面で謝り続けるヒナタだったから、ネジはそれから、その話については手紙では触れなかった。
そんなことでヒアシが逆上することは考え難かったが、恐らく娘を一喝した手前、引っ込みがつかなくなったのだろうと、ネジは察する。
それならば、与えられた任を一つずつ片付けていくだけだ。
でも、と弱々しく見上げてくるヒナタを、ネジは強引に黙らせた。

「良いから。もう謝らない」

幼い子供に言い聞かせるように、すっぱりと言い放ち、またすっぽりと腕の中に包まれてしまえば、ヒナタは口を噤んで大人しくしてしまう。
まだ納得した訳ではなかったが、今は自分を包むネジの体温の方が、愛しい。
分かった振りをして、ヒナタはネジの胸に、くたりと頭を寄り掛ける。
従順にそうしていれば、また優しくネジの手に髪を撫でられ、ヒナタは力を抜いて彼に身を預けた。

「また、一緒に……いられるの……?」

細やかな希望を、そっと唇で紡ぐ。
それだけで良い。
もう何も気に病んだりしないから、唯それだけが欲しいとヒナタは望んだ。
しかし、静かなその一言に、ネジの手が止まった。
宙に浮かせていた手は、やがてヒナタの肩へと落ちた。

「……そうしたいのは山々なんですが……実は、ヒナタ様」

眠りに落ちそうなほど心地良い、ネジの腕の中で、急速にヒナタの意識が覚醒していく。
僅かに悲しみの色を含ませている、ネジの声が、今度はきりりと胸を締め付ける。
――追加の仕事が……鉄の国……明朝には此処を……。
ネジが何を言っているのか、良く聞こえない。
只、言葉の断片が、鋭い矢となって、ヒナタを突き刺すのだ。
――いや。
その全てを否定し、ヒナタはネジに縋り付いた。

「私も連れて行って」

体を起こし、真っ直ぐにネジの瞳を見つめる。
突飛なことを言い出すヒナタに、余程予想外だったのか、ネジは言葉を失った様子でそれを見つめ返す。

「自分のことは、自分でするから。ネジ兄さんに、迷惑掛けないから。ね? お願い、連れてって……? もうひとりは、いやだよ」

自分の為に無理をしてくれた、ハナビとコウのことは、頭になかった。
否、心の片隅に気に掛けて置いていたそれは、目の前のネジの存在に、簡単に掻き消えてしまった。
“何を引き換えにしても、一緒にいたかった”。

「……ヒナタ様」

一聴してみれば、何の変わりのない、ネジの声だった。
だが、只呼ばれただけの自分の呼称に、答が瞭然と表れていた。

「いや! 絶対いく! ネジ兄さんと、ずっと一緒にいる」

困惑しているネジの懐に、再び顔を埋める。
常にないくらいに、我が儘を言って、ネジの気を、少しでも此方に向かせようとする。
それは、願いが叶わないことを覚った、最後の足掻きのようなものだった。
ネジが、ヒナタの言い成りになって、自分の任務に同行させる筈が、なかった。

――ヒナタ様?

切ないほどの優しさを込めて、それは頭上から降り注ぐ。
それでも聞こえない振りをして、ヒナタは絶対に離れまいと、ネジの背に必死にしがみ付く。

――……ヒナタ?

急に、恋人を呼ぶ声で、ネジは耳元に唇を寄せる。
片腕でヒナタを抱き留め、もう一方の指先で、乱れた彼女の髪を丁寧に梳いて耳に掛ける。
聞いて、と言うネジは、果たしてどんな大層な言葉で、自分を納得させる気なのか。
何も、聞きたくない。
どんなに優しく、大好きなネジのものでも、それはヒナタにとって、悲しいものでしかないから。

「……いつか、お許しが貰えたら……」

逃れるようにヒナタは、深くネジの懐に顔を埋め、背中の装束を強く握る。
呼応するように、ネジもまたしっかりとヒナタを抱き返す。
既に、涙は止まらなかった。

「ずっと、一緒にいましょう。朝も夕も、片時も離れないで、一緒にいましょう。誰よりも、あなたの側にいるから。嫌がっても、絶対に離れてやらないから。……だから……ヒナタ……?」

約束を贈るから。
いつの日かきっと、二人で叶えましょう――。

幼子の機嫌を窺うようにして、途切れた言葉の先を、ヒナタは観念して受け入れた。
ネジは少し困っていた。
それでも真剣に、駄々を捏ねるヒナタにきちんと向き合ってくれた。
強く強く、抱き締めてくれた。
悲しいけれど、すごく寂しいけれど、もう暫くの間だけ、ネジから離れる覚悟が、出来た。

次に会える時は、今度こそ、笑顔で笑い合える再会となって欲しい。
その時はもう、こんな風にネジを困らせないから。
ネジを正門から堂々と潜らせて、胸を張って、“おかえりなさい”と大きな声で迎えるのだ。

だから、ゆき、と。
もう少しだけ、ネジを引き止めたくて、ヒナタは返事の代わりに、ぽそりと口を開く。

「ネジ兄さんの、見たゆき……おしえて……」

雪が降るよりも軽く、静かに。
囁いたヒナタの声を聞き取るように、ネジが、ん? と顔を寄せ、直ぐに手紙のことだと合点が行った彼は、腕の力を緩めた。

「ああ……雪ですか? 正直、もう懲り懲りなのですが……良いですよ」

最後の我が儘も、時間稼ぎと分かっていながら、快くネジは許してくれた。
緩く微笑ったネジに安堵して、ヒナタは彼の胸にぴたりと頬をくっつけて、甘えてみせる。
寄り掛かってくるヒナタを受け止めながら、ネジは七夕の夜空を見上げ、話し出した。

「……木ノ葉と違って北国だと、大粒の、牡丹雪が降ってね……毎晩、頭の上まで積もります。朝起きたら、雪掻きから始まるんです。そうしないと、外に出られないですから」

今まで知らなかったネジの暮らし振りが、初めて聞かされる。
もしかしたら、ネジの送る過酷な生活環境を知ったヒナタがまた、自分を追い詰めると思って、内容を省いていく内に、彼は同じ事ばかりをぐるぐると、手紙に書き綴ってしまっていたのかもしれない。
まるで子守唄でも歌うかのように、ゆったりと語るネジの語調に身を任せ、ヒナタは瞼を閉じて、彼の胸の鼓動を感じる。
トクリ、トクリと一定のテンポで流れる心音に、耳を欹て、そっとその上に手を添える。
この鼓動を、この温もりを、忘れぬようにしっかりと、記憶に刻み込み、ヒナタは目を開けて、問うた。

「冷たい……?」

北国に降る雪を、知らないから。
純粋な子供を装って、七夕の季節に、真冬の話を求める。
それでも、可笑しいところなど一つもないみたいに、ネジは笑い出さずに答えてくれた。

「ええ、冷たいですよ、それはもう」
「どれくらい?」

ネジに寄り掛かったまま、些か面食らった顔の彼をじっと見上げ、ヒナタは更に突っ込んだことを聞く。
簡単に答えられないことを尋ねて、ネジとの時間を引き延ばそうとする思いも、少しあったのかもしれない。
これに答えないと、帰れないよ、という無言の澄んだ眼差しに、どれくらい、と言葉に詰まったネジは、視線を空に向けて考え込む。
程無くして、唇に弧を描いた彼が、やけに楽しそうな表情で此方を見下ろしてくるのを、ヒナタは不思議な気持ちで眺める。

「そうだな……。あなたのこの、泣き虫の真っ赤な顔が、一瞬で青くなるくらい、です」

ヒナタの幼稚な質問に、負けじとネジもとことん付き合い、その上を行く答を用意する。
涙なんか、引っ込みますよ、とヒナタの顔を覗き込み、その紅潮した眦をあやすように、またからかうようにトントンと指で触れるネジに、ヒナタは真っ赤になって言い返す。

「な……っ、泣き虫じゃないよ。に、兄さんのいじわる」

少し離れていた間に、随分と軽々しく冗談が言えるようになったものだ。
ほんのついさっきまで、ネジの手紙に縋り、泣き虫なのと認めていたヒナタは、反して認めるものかと、満面の笑みでいるネジを必死に見返す。
ネジの装束を握り、またうるうると半泣きになるヒナタの、そこにネジは付け入る。

「ほら、そういう顔をするから。もっと意地悪なこと、したくなります」

しても良いですか? と面白そうに、頬をむにむにと指先で押してくるネジに、ダメ! とヒナタは真っ赤になった顔を反らす。
しかしそうすると、ネジも一緒に反対の手を用意して、現れたヒナタの反対側の頬を抓ってくる。
それを振り切って更に反対を向けば、また回り込んだ手によって頬を突かれ、どうしようもなくなって、ヒナタはネジの胸にぴったりとしがみ付き、顔を隠してしまう。
困り切ったヒナタの繰り出した、可愛過ぎる防御を前に、ネジはそれ以上面白がって彼女の顔を覗き込むことはしなかった。
代わりに目を細めると、一呼吸置き、心からの賛辞を贈った。

「……そうですね……。あなたは、強いですからね」

そっと、押し付けていた顔をヒナタが上げ、涙の滲んだ目元が、きょとりとネジを捉える。
今の今まで、泣き言一つ言わないで耐えていたヒナタは、本当に強い。
だからこそ、周囲を顧みずに、自分も連れて行ってと、涙ながらにネジに縋ったヒナタが、疾うに限界を超えていたのだとやっと分かった。

「ヒナタ様……必ず、戻りますから……。待っていてもらえますか?」

これ以上の頼みが酷と知っていても、それでもネジは、ヒナタに聞き分けの良い子になるよう、優しい瞳で強いる。
返事をせずにぼうっと見つめ返すヒナタの、細い双肩に手を置き、ネジはそっと、額と額をくっつける。

「だから……涙はそれまで、とっておいてくださいね。オレの前でなら、いつでも……可愛い泣き虫さんになって良いです」

その穏やかな声音とは裏腹、ヒナタの心は大きく波立っていた。
近付く別れの時を予感し、無性にネジに抱き付きたくなった。
然れど、肩に置かれたネジの手が、それ以上の接触を望んでいなかった。
“だからそれまで、どうか強くあって欲しい”と。
言葉の裏側に込められた、ネジの願いに、ヒナタはちゃんと気付いた。

固いネジの額宛てが、やんわりとヒナタの前髪を押さえる。
ヒナタが少しでも上を向けば、ネジの秀麗な顔が、目の前に望める。
少しひんやりとした、夜気をたっぷりと含んだ額の感触を、極力動かさぬよう、ヒナタはゆっくりとネジを見上げる。
瞼を下ろしているその顔を認める前、微かに唇と唇が触れ合った。
掠れるようにして一瞬触れたそれは、ヒナタが上を向けば、もう一度触れ合うことが出来た。
だが、悲しみを押し込めた悲痛な表情のネジを、ヒナタは二度と視界に入れることなく、ネジの方も、それをしなかった。
肩に置かれた手が、戒めのように、重く重く、沈んでくる。
ネジの込める力に、痛みすら感じて、思わず顔に出してしまった時、急に肩の圧迫感がなくなり、体を覆われる。
両側からぎゅうと、背骨が撓るほど、力強く抱き竦められ、ヒナタは自然と上体を反らし、空を見上げる格好になる。
何も言わずにヒナタを抱き締める、ネジの肩越しから、キラキラと瞬く星々が見えた。
裏山に登れば、もっと良く見えた筈、それでもヒナタには十分だった。
雪の話をしている時、ヒナタをすっぽりと包み込みながら、ネジもこの空を見上げていた。
七夕の夜に、会うことが出来て、二人で一緒に、夜空に掛かる天の川を眺められた。
それで、十分だった。

良く晴れた空に住まう、あちら側の二人も、きっと川を渡って、巡り会えただろう。
大概七夕の頃は、雨天が多いから、今年は嘸珍しいこととなった。

――良かったね。
ネジの背に手を添えて、肩口に顔を埋めながら、ヒナタはそう思い浮かべ、目を閉じる。
ネジがからかっていた頬に、誰にも気付かれず、静かに涙が伝っていた。

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