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TopMainそれって愛でしょ
もはや当たり前、とさえ思えてきたその姿に、私はまた最近ドギマギしていた。
原因は、と言われると端的に表すことができない。本当になんとなくだが、距離感が変わったような気がするのだ。そのせいで、心臓に悪い日々が続いている。

「う〜〜ん…、なんか最近本気よね」
「…なんのこと?」
「大将さん。名前に本気だなって」
「はあ!?」

母の言葉にバカみたいに動揺してしまって、磨いていたシルバーを危うく落としそうになる。大道芸のように手元でシルバーを跳ねさせた後、ギリギリでキャッチをした私の心臓は死ぬんじゃないかと言うくらいに大きな音をたてていた。

「な、なにいって、」
「あ、大将さんがお呼び。ほら早く行きなさい」

反論の余地を許さずコーヒーポッドを押し付けられ、私はホールへと放り出される。母にずかずかと心を荒らされ一息ついてすらいないこんな状態で、クザンさんの前に行きたくはなかったが、仕事を放置するわけにもいかず軋む音がしそうな足取りでテーブルに近づいた。

「お代わりおねが…、ってどしたの名前ちゃん」
「……なんもない」
「えェ…、なんもないって顔じゃねェけど…」

困惑してるクザンさんを前に上手い言い訳が全く見当たらず、むすっとした顔のままコーヒーを注ぐ。どうにか普段通りの会話をしなければ、と話題を探すためにテーブルの上に視線を巡らすと、食べかけのくるみのパウンドケーキが目に入る。今日のおすすめのスイーツだ。

「…美味しい?」
「これ?うまいよ。お母さんが作ったのにまずいわけがないじゃない」
「ん、伝えとく」
「そうして」

相変わらず母のこと持ち上げるよなあとぼんやり思いながらパウンドケーキを見つめていると、クザンさんが不思議そうに首を傾げる。

「名前ちゃん食べてねェの?」
「くるみそんな好きじゃない」
「ふ〜〜ん」

別に大した情報でも何でもないはずなのに、やけに興味深そうに頷くクザンさん。そんな変なこと言っただろうか。
くるみ自体は別に嫌いではなかったが、私はどうもスイーツの中に紛れ込んでいると、食感が邪魔で好きではなかった。もしかしてクザンさんはくるみ大好きなのかもしれない、と何やら思案しているクザンさんの顔を見つめていると、急にばちりと視線が合う。

「名前ちゃんは何好きなの?」
「食べ物?」
「そう」

好きなもの、と言われるとこれといって思い浮かばないのは私だけだろうか。私の中の分類は美味しいか美味しくないか、の二つだけだ。その中で一番と言われるとどれをピックアップしていいのやら。少し考えた末、範囲を広く答えればいいかという結論に至る。

「お肉」
「ざっくりいくじゃないの…。お肉好きなんだ?」
「うん。人のお金で美味しいお肉食べたい」
「正直〜」

素直に願望を述べると、クザンさんが小さく笑う。自分の発言がウケたことに気分を良くしてると、不意にクザンさんが私をまっすぐ見つめてきて、その空気感にざわりと肌が粟立つ。嫌な予感、というよりかは心臓に悪い出来事が起きる前兆のような気がしたのだ。

「じゃあ行く?」
「え、」
「お肉美味しいお店」

誘われているのだと理解するのに感覚的には数十秒かかった。驚いたらいいのか照れたらいいのか、それすら判断がつかず呆然と立ち尽くしてしまう。最大限に頭を回転させた結果、出た言葉は随分とかわいくないもので。

「そ…そんな暇ないでしょ」
「名前ちゃんのために時間作るなら楽勝よ?」

別に断ろうとしていたわけではないが、断れない流れになっていってることを肌で感じる。じわじわと背中に汗が滲むのは、緊張のせいか。そもそも現在進行形で起きているこれは現実なのかだろうか。

「……ほんとに言ってる?」
「ほんとだし本気。…やだ?」

いやじゃない、と心の中で答えた瞬間、ぶわあぁっと体の温度が上昇して全身から汗が噴き出す。顔も今頃になって赤く染まっていることだろう。先ほどから緊張を飲み込んでいる喉が痛くて、上手く声に出すことができなった私の口から漏れたのは「や、…じゃない……」と蚊の鳴くような呟きだった。
クザンさんは満足そうにゆるりと口角を上げると、店の中を見渡す。

「あー、ここ店閉じるの何時だっけ」
「6時、だけど…」
「6時ね。仕事終わらせて、7時に迎えに来るわ」
「えっ」
「今日は無理だから〜…、明日。平気?」
「う、ん…」
「じゃあ決まり」

次々と決まっていく事項が、他人事のように耳をすり抜けていく。何度その事実を飲み込もうとしても、空気ばかりが喉を落ちていくようで実感が全くできない。

ぐるぐると混乱している間に、クザンさんはとっくにケーキもコーヒーも平らげていたようで、いつもの料金を渡してくる。思考が働かないままそれを受け取って、普段通りクザンさんの見送りをしようとするものの、何を言ったらいいか全くわからなかった。
私が受け取ったお金を握りしめながらクザンさんのベストの縫い目を見つめていると、クザンさんの大きな手が私の頭を撫でる。

「じゃあ明日ね」

クザンさんの手の熱と触れる指先の感覚に捉われて、重みで下がった頭を上げることができない。何か、言わなきゃ、と止めていた呼吸を再開したときには、からんころんと店のベルが鳴ってもうクザンさんは店を出た後だった。

ぱたん、と目の前で閉じるドアを見つめながら惚けていると「すいませーん」と私を呼ぶ声に、反射的に営業スマイルを浮かべて振り返る。お客さんの注文を聞いて奥に引っ込んだところで、先ほどのクザンさんの声が脳内にこだました。

「なにしてんの」
「ぅわ!!」

いつまで経っても現実味を帯びない約束を持て余していると、棒立ちしている私を怪訝そうに見ている母。明日は出かけてくると言わなければ、でもクザンさんに誘われたと言っていいのか、いや隠すことはできない。
母を前にして今までの経験を掘り起こしながら瞬時に色んなことを考えたが、母には素直に話すのが一番良いと知っていた。しかし、口が縫い付けられたように塞がって、中々言い出すことができない。

「う…え、っと……」
「なに。なんかあったの」
「あ、あした…出かけてくる…」
「誰と?どこに?」
「く……クザン、さんと…夜ご飯食べに……」

ナッペをしていた母の手が止まる。何を言われるのか予想もできなくて、母の手元にある生クリームに包まれた真っ白なケーキを見つめながら、私も頭の中真っ白で母の返答を待つ。さすがの母も驚いたようで、ややあってから「そう…」と答える声。

「…下着の上下そろえていきなさいよ」
「気が早い!!」

落とされた爆弾発言についバカでかい声で反論してしまい、ホールの方が静まり返った気配を感じた。母は私にぴしゃりと「うるさい」とだけ言って、何事もなかったかのように作業に戻る。
私はと言えば、まったく冷静さを取り戻せず、その日は半泣きのまま終業時間まで仕事をするのだった。ちなみに、考え事をしながら皿洗いをしたらお皿を二枚も割って、母の雷が落ちた。


それって愛でしょ 8話


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