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かつて、彼との空気感がこんなに重かったことがあっただろうか。まだ彼のあちこちに残る傷が視界に入るだけで、声を上げて泣きたい気持ちになる。

「連れてってくださいなんて迷惑ですよね」

必死に泣くのをこらえながら声を出すと、変に喉が痛かった。何を言われても受け入れなければと思いながらも、悪い想像をしては眩暈がする。彼の声が狂おしいほど聞きたいのに、この問いの答えは聞きたくなかった。
死んでしまいそうな気持ちで彼の言葉を待っていると、小さく息を吐きだす音が聞こえる。

「……ゆっくりデートもできねェし、常に安全ってわけでもねェ。…危険な旅になる」

最初はやんわり断られてるのかと思ったが、その言葉が持つ余韻は決して私を切り捨てるようなものではなかった。鈍重な動きで顔を上げると、彼と視線が絡む。彼から触れられた感覚が、もたらされた熱が、洪水のように駆け巡ってどうしようもない愛しさに変わっていく。

「それでも…、好きなんだからしょうがないじゃないですか…っ」

必死に嗚咽を飲み込んでいるというのに、涙は堪えきれずにぼろぼろと零れていった。過去に「案外泣き虫なところあるよね」と彼に言われたことを他人事のようにぼんやりと思い出す。私を待ち受けるのが彼といられない未来だというならば、このまま永遠に眠ってしまいたいと強く瞳をつむった。
こつり、と彼が一歩近づく気配がしても、動けずにいた私を包み込んだのは何度も味わった恋しいぬくもり。

「なら、逃避行といきますか」

たくましい腕に優しく抱きしめられて、大好きな声が鼓膜を揺らす。押し寄せる安堵と共に、この人の腕の中にまだいられるという事実が、私の感情の箍を壊した。せき止めていた呼吸をすると、情けない泣き声が私の口から溢れる。彼の胸に強く強くしがみつくと、応えるように彼はいつまでも私を離さずにいてくれた。私は、彼の熱が感じられるならば多分もう何を捨てたってかまわない。


あなたの声で息ができる


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