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TopMain沈黙の愛
買い出しに行ってこようと思います、と告げると文次郎さまは数秒呆けた顔をした。どこに、何を買いに、と尋ねられたので「ええと、町に、食材を…。味噌が切れそうなので」と返すと、これみよがしに大きなため息をついて額に手を当てる文次郎さま。

「おれが家にいる時くらいは荷物持ちに使え」
「でも、そんな…」

大した量を買うわけでもないし、すぐそこだし、と言い訳はいくつも浮かんだが、それ以上の反論は許されない空気で口を噤む。そして、何も言わず身支度を始めた文次郎さまに慌てて自分も支度に取り掛かると、微妙に流れる気まずい空気を破るように文次郎さまが視線をよこす。

「妻を一人歩きさせたくないというのは、夫として変なことか?」

腹を立てているわけでもいないその問いかけは、申し訳なさが喉元に引っかかっていた私を納得させるには十分だった。たとえ城下といえども、心の底から安心できる治安かと言われればそうではない。そういう水面下に潜む怖さは、忍者である文次郎さまが何よりも分かっていることを分かっていた。私がかぶりを振ると、文次郎さまは応えるように息をついて背を向けた。

「文次郎さま…その、ありがとうございます」
「……日が落ちる前に行くぞ」

はい、と私が頷くと、文次郎さまの照れたような気配がした。顔を見ていないから勘でしかないのだけれど。

手早く支度を済ませ、文次郎さまと外へ出るとなんだか不思議な気持ちに包まれた。明るい時間に、文次郎さまと外に出るのは初めてに近いような。こうして並んで歩くと、ああこの人と夫婦なのだなという気持ちが押し寄せて、視界の端に映る自分より高い位置にある肩に、変に照れ臭くなった。
町へ出ると相変わらずの活気に包まれ、買い物をし始めれば顔なじみの店主たちに気さくに声をかけられる。皆、私と文次郎さまを並んで見るのは初めてのことだったので特にいつもよりちょっかいをかけられた。

「あんたもこんなに気立てのいい嫁さん貰って幸せだなあ!」

味噌屋の主人に絡まれている文次郎さまを、どうにかして助けたかったが支払いを放り出すわけにもいかず。はらはらしながら横目で様子を窺っていると、文次郎さまは主人の言葉に少し困ったように笑った。

「ええ、本当に。果報者です」
「お、のろけるねえ」
「これ以上は勘弁してください」

文次郎さまの声音は明らかに余所行きであるし、この場を上手く流すためだけの言葉だろう、いくらそう言い聞かせてもじわじわと押し寄せる羞恥には歯止めが効かず、目の前の女将に赤い顔を笑われてしまった。穴があったら入りたい。主人から解放された文次郎さまに無様な顔を見られないように取り繕いながら、私達は店を出た。
それからも買い出しは続いたが、全ての荷物を当たり前のように文次郎さまが持つものだから、思わず何か一つだけでもと申し出ると「バカタレ、それじゃあおれが何のために着いてきたのか分からん」と言い切られてしまった。ここまでくると申し訳なさというよりかは、文次郎さま本当に力持ちだな…という素直な感嘆が漏れた。

日が高くなり、買い出しもひと段落がついたところで昼餉にしようとうどん屋へ入る。注文して暫し待っている間、ごきっと首を鳴らした文次郎さまが「しかし、」と思いだしたように口を開いた。

「本当に顔馴染みが多いんだな。随分と話しかけられる」
「ああ…、その、かなり遊び惚けている娘でしたので…」
「ほう?意外だな」
「家の中よりかは外に楽しみを見つける人間だったんです」

屋敷にこもっている淑やかな娘ではないことに呆れただろうか、と一瞬心配になったが、悪戯っ子のような顔をして話を聞いている文次郎さまを見て杞憂だったとすぐに分かった。

「だが、それもこれも無駄な時間ではなかったようだな」
「そうでしょうか」
「ああ。現におれが普通に買うよりかは安かったぞ」

と、今日買った品々を指さした文次郎さまに、なんだか可笑しくなってしまう。最初は堅物そうに見えた文次郎さまもやはり忍者なのだなと思い知らされたようで。視野を広く持ち、いつでも利を見極めるその考え方は、同じく忍者である父を彷彿とさせた。父も、私がよく外に出ることに関して咎めるようなことはなかったなと懐かしくなる。
そうして文次郎さまとの何気ない雑談に花を咲かせていると、頼んでいたうどんが運ばれてくる。話を中断して食を楽しみ、あっという間に完食しそうになっていると、何やら外から聞こえてくる喧騒に箸を止める。店内の他の者も気になっていたようで、ほぼ全員が外に視線を向けていた。

「諍いか何かでしょうか…」

揉め合うような声が聞こえてくるため、誰か知り合いが巻き込まれていないかと心配になってくる。今朝、文次郎さまと話した治安の悪さを思いだしていると、既に食べ終えていた文次郎さまが席を立った。

「見てくる。おまえはここで待っていろ」

文次郎さまはそう私に端的に告げて、店を出て行く。どうやら私の不安もお見通しだったらしい。本当に、文次郎さまには敵わない。文次郎さまのことだから下手に巻き込まれるようなことはないと思うが、それでも少し不安で箸を置いたまま待っていると、しばらくして文次郎さまが何でもないように戻ってきた。怪我がない様子にほっと息をついて出迎えると、文次郎さまが席に着きながら「くだらん喧嘩だった」と吐き捨てるように言った。

「巻き込まれた方とかは…」
「いない。男二人が酒屋の前で喧嘩していたんだがな、店の邪魔だと酒屋の女将が鬼のような形相して出て行ったらすぐに収まったぞ」
「まあ…」

確かにあそこの女将は恐い。女将に怒鳴られて収集が付く程度の喧嘩でよかったが、ちょっと滑稽でもある。私が呆気に取られていると、文次郎さまが私の器をちらと見て「冷めるぞ」と言うので、はっとして私は止めていた箸を手に取った。

昼餉を済ませてうどん屋を出た私達は、残り少ない買い出しを手早く終わらせた。日が落ちる前に済ませられてよかった。一人では無理だっただろうなと思いつつ、日が落ちて寒くなる前に私と文次郎さまは家路を辿った。
家に着いて一息つく前に買った物を片付け、それを終えてからようやく腰を下ろした。あんなに大荷物を持っていたのに文次郎さまに疲れた様子が全くないものだから、やはり鍛え方が違うのだなとひっそり感動する。それでも冷たい風に当たっていたままの体はよくないと、お茶を淹れて文次郎さまに差し出す。文次郎さまは湯呑を受け取ってお茶をすすると、どこか気まずい沈黙を落とした。

「渋かったですか?」
「いや、……美味い」

そうですか、とそれ以上は何も言えず私も湯呑に口をつける。やっぱり疲れたんだろうか。それとも別に私が何かしただろうか、と天井に目線を彷徨わせていると、文次郎さまが懐に手を差し入れた。ゆっくりと取り出されたのは、綺麗な櫛で。

「おれはこういったものはよくわからん、が、まあ…おまえに合うのならこれだと思った」
「…………」
「気に入らなかったら使わなくてもいい」
「き…気に入らないなんて、そんな……」

出た声は震えた。涙が落ちてしまうのはもう分かっていたから、櫛を涙で濡らさないように胸元にぎゅっと握りしめる。実を言うと、櫛の装飾を細かに見える前に視界がぼやけたから、どんな櫛かはあまり分からなかった。

「言っておくが誰かに言われたからじゃないぞ。おれが、贈りたいと思ったんだ」
「はい……、はい…ありがとうございます…」

ここで涙を拭われようものならもっと泣いてしまうと悟られていたのだろうか。いや、ただ困っていただけかもしれない。文次郎さまは、はらはらと泣く私と黙って同じ空間にいた。
湯呑から湯気が立たなくなったころに、私が「大切にします」とこぼすと、文次郎さまは「そうか」と静かに答えた。このひとが、好きだと、苦しくなるくらい思った暮合いだった。


沈黙の愛 2話


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