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名前さん、と名を呼ぶと、彼女は動かしていた箒を止めて顔を上げた。

「尾浜くん。こんにちは」
「こんにちはー」

普段から意識せずとも笑顔が貼りつく性分ではあったが、名前を目の前にすると自分でもびっくりするくらい自然と口元の筋肉が緩む。今日も今日とて名前と話ができた時点で幸運なので、上機嫌に勘右衛門は名前に駆け寄った。

「手伝ってもいいですか?」
「え?尾浜くん、委員会は?」
「今日はお菓子切らしちゃってて」
「…お茶飲み委員会ではないんだよね…?」
「あはは、名目上は」

勘右衛門のふてぶてしい発言に、名前は困ったように肩を竦める。それでも勘右衛門に信頼を置いてくれているのか、名前は特に勘右衛門を叱るわけでもなく「じゃあ」と勘右衛門に箒を手渡した。

「掃き掃除お願いします」
「はあい」
「私は何か拭くもの持ってくるね」

ぱたぱたと一度学園内に戻る名前を見送って、勘右衛門は至極真面目に門前を掃いていると、遠くに見えた人影に手を止める。不審人物がこんな堂々と来るとは思わないが、もしもの時のために目を凝らすと、見覚えのある姿に勘右衛門はあっと声を漏らした。

「利吉さん!」
「尾浜くん。こんにちは」
「こんにちは。山田先生に御用ですか?」
「ああ。洗濯物を届けにね」

いつものね、と勘右衛門は納得して利吉の手の中の風呂敷を一瞥する。特に勘右衛門がそれ以上引き止める様子を見せないので利吉は門を潜ろうとしたが、お決まりの台詞がないことにやがて首を傾げた。

「小松田くんは?」
「あ、えーっと、この時間は小松田さんじゃなくてですね」
「小松田くんじゃない…?」
「もうすぐ戻ると思うので待っててくれますか」

利吉は勘右衛門の言葉に素直に従って門前で足を止める。すると、ちょうどよく名前の足音が聞こえてきた。名前は取ってきたであろうボロ布を勘右衛門に見せるように掲げて戻ってきたが、すぐそばに知らない顔がいることに驚いて「わっ」と小さくを上げる。利吉も、突然現れた見慣れない女性に目を見開いた。

「利吉さん、この人は新人事務員の苗字名前さんです」
「新人なんて入っていたのか」
「あ、初めまして。ご紹介に預かりました苗字です」
「ご丁寧にどうも。私は山田利吉と言います。今はフリーで忍者をしています」
「山田…?」

さすがに覚えのある苗字にすぐ気づいたようで、勘右衛門は「山田先生の御子息です」と補足する。薄々察していたとは思うが、改めて事実として知ると驚きが大きいようで名前は「ええっ!?」と勘右衛門と利吉を交互に見た。若干その反応に慣れっこである利吉は愛想のよい笑みを浮かべて軽く頭を下げる。

「父がいつもお世話になっています」
「あ、いや、そんな。お世話になっているのはこちらの方ですから…」
「ちなみに、名前さんは木下先生の姪子さんです」
「木下先生の?なるほど、そういうことでしたか」

忍術学園との縁が元々ある人間だということが分かり、利吉も幾分か腹落ちしたようですっきりとした顔を見せる。そして改めて名前の姿を見渡した利吉が、ぽそりと「…似ていませんね」とこぼした。勘右衛門がそれに大きく頷くと、名前が気まずそうに頬を掻く。まあ、似てるだなんて言われたことないだろうなと勘右衛門は改めて木下先生を思い浮かべた。

「木下先生が素直に優しい姿見られるの、貴重ですよ」
「尾浜くん…」
「へえ、それはぜひとも見てみたいな」

利吉がくすりと笑ったその姿に、名前が数秒言葉を失った様子を勘右衛門は敏感に感じ取った。ぜったい今かっこいいって思ったな、いや思うよな普通。嫉妬というよりか、ほのかな落胆だった。
利吉さん相手じゃ敵わないよなあ、と勘右衛門は傷心ぎみに空を仰ぐ。この前の土井先生や、初恋の木下先生。勘右衛門が名前からのかっこいいを手に入れるには目標はこの人らなのかと考えると、ハードルの高さに涙がちょちょ切れる思いだった。

「小松田くんは別に辞めたわけではないんですよね?」
「はい、同僚として働かせてもらっています」
「同僚として…?それは…大丈夫なんですか」

小松田の被害をそれなりに被ったことがある利吉は、深刻そうな顔で名前を心配する。名前はすぐその意図を汲み取ったようで、苦い表情で「まあ、今のところ」と答えた。

「最近は大分操縦の仕方も分かってきたほうだと思うんです。それに、やっぱり私じゃ無断侵入者に気づくことはできませんし…」
「まあ、小松田くんはそれに関してはスペシャリストですからね…」
「だから、私は小松田さんの被害を最小限に押しとどめ、小松田さんができない仕事を補う。そうなれるように頑張っては、います」

名前の完璧ともいえる回答に、利吉は素直に感嘆の声を漏らす。そうなんです、名前さんはすごいんです、と関係ない勘右衛門が何故かこっそり鼻高々になった。

「小松田くんは随分と恵まれましたね。あなたみたいな人と一緒に働けて」
「ええそんな…、私なんてまだまだですよ」

謙遜する名前に、大分人柄を読み取れたのだろう。利吉は柔らかく名前に微笑いかけた。

「私は忍術学園の人間ではありませんが、何か力になれることがあったら気軽にご相談ください。仕事の依頼でも、もちろん構いません」
「あ、そういえば先ほどフリーの忍者と…」
「利吉さんはフリーの売れっ子プロ忍者なんですよ。おれたち忍たまの憧れの存在です」
「よしてくれ」

名前は目の前の利吉が実力者であることに感動したようで、素直に瞳をきらきらさせながら、へえと頷く。そんな様子も照れ臭いようで、利吉が勘弁してくれと顔の前で手を雑に振った。
かあ、とどこか遠くでカラスが鳴き、立ち話も長くなってきたことに気が付いた名前がハッと飛び上がる。

「すみません、入門表にサインですよね!少々お待ちください!」

そこからの行動は早く、瞬時に走り出した名前に利吉が「急がなくて大丈夫ですよー」と声をかける。また最初と同じ、利吉と勘右衛門、二人になったところで、利吉が珍しく俗っぽい表情をして勘右衛門を見つめた。

「素敵な人だね、彼女」
「へっ」
「気持ちは分かるなあ」

利吉は、意地悪なお兄さんの顔をしていた。勘右衛門は羞恥よりも先に畏怖の感触が背中にぞわぞわと走り、血の気が引いていくのを感じていた。何も言い返せずに勘右衛門が固まっていると、利吉はたまらないといったように吹き出して、勘右衛門の肩を軽く叩く。

「そんなに怖がらなくても。…とらないよ」

そう耳元で囁かれ、置き去りにされていた羞恥がせりあがってくる。目の奥まで熱くさせていると、遠くから名前の声が響いて、利吉がそちらに歩き出した音だけを聞いていた。地面に落とした視線は動かせず、利吉が遠ざかる気配を感じながら、勘右衛門はその場にへなへなとしゃがみ込んで、

「はっっず…、」

と、今世紀最大によわよわしい声を出したのだった。


モラトリアムと青い春 12話


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