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TopMainモラトリアムと青い春
「ああ、いけない。そろそろ返却期限ですね」

吉野先生の口から出た期限という単語に、何か自分の不手際があったのではないかと反射で顔を上げる。そんな私に、吉野先生は「仕事のことではありませんよ」と私の様子もお見通しに訂正した。

「図書室の本の返却期限のことです」
「あ、なるほど」

そう言った吉野先生の手元からは「正しい上司の在り方」という本のタイトルが見えて、罪悪感に視線を逸らす。恐らく小松田さんに手を焼いてのことだとは思うが、私も吉野先生を困らせている場合は十分にある。今まで以上に頑張らなくては、と魚の小骨を飲み込んだ時のような気持ちになっていると、吉野先生が本の背表紙とトントンと叩いた。

「苗字さんは図書室を利用したことありますか?」
「…そういえば、まだありませんね」

場所の把握のためにちらっと覗いたことはあったものの、中に入って本を借りたことはなかった。もう忍術学園に来て数か月になるが、なんだかんだ仕事に熱中していて、よし寄ってみよう!という気分にもならなかったのだ。

「ふむ…では、一つ頼まれごとを引き受けてくれますか?」
「?、はい」
「この本を図書室に返却してきてほしいのです」

吉野先生はいつも笑っているような顔に見えるが、優しく微笑んでいるときはちゃんと分かる。にこり、と目尻を丸めて吉野先生は本を私に差し出した。仕事の体で頼んではいるものの、内容は息抜きみたいなものだ。私がより忍術学園に馴染めるようにと、ほぼ休憩のような時間を与えてくれた吉野先生の気遣いに感謝しながら、私は照れ臭く「分かりました」と受け取った。

手元の書類の整理はひと段落ついたところだったのでそれを吉野先生の提出してから立ち上がる。部屋を出ようとすると、ちょうど小松田さんと入れ違いになり、小松田さんがあれえ?と首を傾げた。

「どこかお出掛け?」
「ちょっと図書室に」
「場所だいじょうぶ?」
「大丈夫ですよ」

わざわざ声をかけてくれる小松田さんの優しさに小さく笑う。基本的にポンコツさが相手の理性を失わせるだけで、小松田さん自身は優しいのだ。だからこそ問題児であっても何だかんだ人徳が失われないのだろう。「いってらっしゃ〜い!」と和やかな見送りを後に、私は図書室へと向かった。

廊下を歩いていると、前を歩く小さな背中がどうやら同じ方向へ向かっていることに気が付く。気づいたのはこちらだけではなかったようで、紺色の尻尾を揺らしていた井桁模様が振り返った。

「あれ?苗字さんじゃないっすか」
「こんにちは、きり丸くん」
「ども」

ぺこっときり丸くんが頭を下げる。一年は組のみんなとは、仕事を始めた当初質問攻めにあったり、放課後かくれんぼをしていたところに巻き込まれたりと、他の一年生に比べると交流があった。そのおかげで大体みんながどんな子なのかも把握できている。目の前のきり丸くんの情報を色々と思いだしている中、そういえば、と委員会情報も頭の隅から引っ張り出した。

「これから委員会?」
「そうですよー。…あ、もしかして図書室向かってます?」
「うん。吉野先生の代わりに本を返却しに」
「代わりに?なるほど」

きり丸くんは私の手元の本を見て納得したように頷き、ととと、と前を歩いて、いつの間にかついた図書室の入口で私を見上げた。

「利用するの初めてっすよね。案内しますよ」
「え?あ、そう。よく分かったね」
「苗字さんの貸し出しカードは作った覚えがなかったんで」

さすがの記憶力だな、というのと、きり丸くんの自然な気遣いに感嘆の息がこぼれる。なんて出来た子…。きり丸くんはバイトに打ち込んでいると言っていたし、こういう細やかな気遣いもきっとそういうので培われたんだろうなというのは想像に易い。
私がおずおずと入室すると、よく見た顔(と私が勝手に思っている)が現れて、少々固まってしまった。理由は、どちらなのか迷ってしまったから。

「あ、きり丸。ちょっと本の修復手伝ってくれないか…って、あれ」

ええと、ここは図書室で、ということは彼は図書委員だから、

「ふ、不破くん、こんにちは」
「こんにちは。図書室ご利用ですか?」
「はい。吉野先生の代わりに本の返却を」
「ああ、そういうことでしたか」

不破くんはすんなりと飲み込んで、私から本を受け取った。…よかった、名前を間違うことがなくて。きり丸くんは本の返却を不破くんが行おうとするのを見ると、何かを取りに行って早足で戻ってくる。

「貸し出しカードついでに作ったらどうすか?」
「あ、お願いしようかな」
「じゃあ名前ここにお願いします」

きり丸くんが持ってきてくれたカードに名前を書き込むと、見計らったように不破くんが本棚を指さす。

「何か借りていかれますか?」
「せっかくだしそうしたいな。何借りよう」
「そうですね、お好きな系統とか…」

不自然に不破くんの言葉が途切れて、後ろに立った気配に気が付く。足音が全くしなかったので驚いて振り返ると、図書委員会委員長六年ろ組の中在家長次くんが、ぬ〜っと立っていて、目を見開く。

「な、中在家くん…こんにちは」
「こんにちは……」

挨拶をしてから不破くんに視線を戻すと、何故か不破くんと隣のきり丸くんが目をぱちくりとさせて私を見つめていた。…私何か変なことしただろうか。

「あの、なにか…」
「え、あ、いや!すみません。苗字さんのリアクションがちょっと薄くて逆にびっくりしたというか…」
「大抵の忍たまだったら悲鳴上げてますよ、今の」
「ああそういう……叔父さんの顔で見慣れている、のかも」

すると二人は、ああ〜とすっきりした顔で手を叩いた。いや、自分で言いだしたことだから一番失礼なのは私なんだけれども、そう素直に反応されると困るものがある。中在家くんは言われている内容がよく分かっていないのか、小首を傾げていた。

「本の案内でしたよね!えーっと、普段読まれる本はどんなものが多いですか?」
「結構色々読むけれど…、好きなのは兵法書とか」
「兵法書!?」

不破くんが驚いた様子で聞き返すので、少し声が大きかったらしいそれに中在家くんが口元に指をあてる。すみません、と軽く頭を下げた不破くんは平静を取り戻すように咳払いをして、私を奥の本棚へと案内した。

「すみません、意外だったので」
「いや、うん、そうだよね…飛び道具な答えでごめんね」
「いえいえ!楽しんで読めるってすごいですね」
「叔父さんが持ってくる本がそういうの多かったからかな…、でも昔から面白いって思って読んではいたなあ」
「ああ、木下先生のご影響ですか…納得です」

そういえば不破くんも五年生だから、叔父さんの指導は多く受けている立場なのかと気づく。浮かべた苦笑いの背景を察していると、不破くんが「ここら辺ですかね」と並んでいる本を見上げた。

「不破くんのおすすめってありますか?」
「おすすめですか…、あ。これとかは最近入って来たやつではありますね」
「へえ…読んだことない。それにしようかな」

私がそれを手に取ろうとして伸ばす前に、不破くんがひょいと取ってくれて微笑まれる。年下といっても男の子だな、と尾浜くんにも散々抱いている感情を改めて少し視線上にある不破くんの顔に思う。
尾浜くんを思い浮かべたことでふと、雷蔵がね〜と色々と聞かせてくれた内容を思いだす。そうか、なんだかいまいち実感できていなかったけれど、尾浜くんの友達なんだよなあ。無意識に長い間見つめてしまい、不破くんに浮かぶ困惑の汗に気づいたところでハッと我に返る。

「ご、ごめんね。なんか、不破くんのお話よく聞いてたから」
「え?…あ、勘右衛門ですか。それならぼくもです」
「えっ」
「苗字さんのお話はよく」

それを聞いて、一気に落ち着かない気持ちになる。尾浜くんのことだからそんな悪いことを話したりはしていないと思うが、それでも自分のあずかり知らぬところで話されているという事実は誰だってそわそわする。

「な…なんか変な感じだね」
「そうですね。でも、想像した通りの人でした」
「よ…かったのかな、それは…。あ、でも私、不破くんとは勝手に気が合いそうって思ってたんだ」
「気が合いそう?」
「私もよくランチセットどっちにするか悩むから」

悩んだ末に寝る、もしくは思い切り過ぎた決断をする子だと尾浜くんからは聞いており、実際にランチメニューが張り出されている前でうんうん悩んでいる様子も何度か見かけたことがあった。

「恥ずかしいですけど…確かに、それは気が合います」

はにかんだ不破くんに、思わず笑みがこぼれる。その毒気を抜く表情に、こんな子もいるんだなあという気分になってしまった。不破くんの雰囲気はさながら昼下がりの長閑な日差しのようだ。

「不破くんって…なんかすごく、話していると穏やかな気持ちになるというか…、優しいね」

思ったままを口にすると、照れくさそうにした不破くんが遠慮がちに笑う。

「それは…光栄です」
「光栄…?」
「忍者は人を騙せた方が得ですから」
「…………」
「す、すみません冗談です…!」

固まった私に不破くんがあわあわと手を振る。その反応が嘘だとは思わないけれど、数秒前にあんな発言をかまされた後ではすんなり飲み込めるわけがない。忍者のたまご、というものを再認識することになってしまった。迂闊な発言、反省。
図書室の奥で不破くんとそんな世間話を繰り広げた後、おすすめされた兵法書を手にきり丸くんと中在家くんのところに戻って貸し出しカードを記入していく。すると横でじいっと見つめていたきり丸くんが、私が借りようとしていた兵法書を見てぼそっと呟いた。

「読んでて面白いんすか、それ」
「う〜ん、私は結構好きだなあ。こういうのって人心掌握術みたいなものだから、自分の身の振り方にも役に立つというか」
「へえ……」
「お金儲けとかにもね、通ずる部分はあるんじゃないかな」

こう言っておけば間違いないだろうと思い付けた文言ではあったが、あまりにも一瞬できり丸くんの目が銭になってテンションが上がるので、間違ったことを言ったかもしれないと口元を押さえる。だが、後ろで中在家くんがうんうんと深く頷いてくれていたので、良しとしよう。

「じゃあ今度読んでみることにします」
「うん、ぜひ」

記入したカードをきり丸くんに差し出すと「はい、確かに」と受理される。すると、きり丸くんと不破くんと中在家くんが声を揃えて「本の返却は早いめに」と言うので、私は有無を言わせないその雰囲気にしかと頷くしかなかった。


モラトリアムと青い春 13話


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