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豊かに香る緑色の液体が空に舞って、なんだかここ最近リアクションが鈍くなってきた私は大した反応をすることもできずにそれを引っ被った。私が動くより早く横にいた吉野先生と、お茶をかけた張本人である小松田さんが急いで拭って冷やしてくれたので、私はただ漫然とその流れを享受する。
応急処置が済んだところですぐ保健室を勧められて、私は思わず生返事をこぼす。被ったのは腕だったし大したことはないのだが、行かないと吉野先生にも善法寺くんにも叱られるであろうことは分かっていたので、私は大人しく保健室へと足を運んだ。

「失礼します」

私が招いた怪我ではないのだが、どことなく申し訳ない気持ちになりながら保健室に入ると、善法寺くんの表情が驚きに変わる。訊かずとも、今度はどうしたのだ、と表情が語っていた。

「小松田さんがお茶ひっくり返して、その、軽い火傷を…」
「ええ!それは大変です!」

患部に当てていた濡れ手拭いを善法寺くんが「ぬるくなってるので変えましょう」と言って、下級生の子らに指示をする。手際のよい手当てをまじまじと眺めていると、新しく濡らした手拭いを当ててくれた乱太郎くんが眉を下げながら私を見上げた。

「なんだか苗字さん、保健室の利用回数が多いですね」
「ごめんね、迷惑かけて」
「そういうことじゃないです!」

もう!と乱太郎くんがかわいく怒るので、更に謝罪を重ねる。
忍たまの子らに比べて訓練があるわけでもないのに、何故ここまで怪我をする運命にあるのか私も分からない。私のどんくささが原因なのだろうか。もしかすると、私も保健委員会の子達のような不運体質なのかもしれない。…いや、そこまでではないな。
一人で導き出した結論を否定していると、善法寺くんが患部に塗り薬を広げながら苦笑いを浮かべた。

「常駐は、できればしないでくださいね」
「気を付けます…」
「いや、と言っても苗字さんの怪我は不可抗力なものばかりですけど…」

くるくると包帯が巻かれていくのと同時に、それを手伝っていた伏木蔵くんが「包帯は〜しっかり巻いてもきつすぎず〜」と小声で軽快な歌を口ずさみ始める。保健委員会のオリジナルソングだろうか。

「この薬はよく効くので痛みもすぐに治まるかと。それほど酷い火傷でもありませんし、よかったです」
「小松田さんの淹れたお茶がぬるかったおかげかな」
「はは…不幸中の幸い、ですね」

ごめえん、とわあわあ泣いていた小松田さんを思い浮かべて、諦めのような気持ちが占める。本当に憎めない人だ。これが計算でやっているものだとしたら、なんて考えることもあったが、万が一にもそれはないのだろう。ここまでくるともはや才能だ。

「もし跡でも残ったら小松田さんに責任取ってもらえばいいんですよ」

包帯を片付けていた左近くんが厳しめの口調でそう言うので、思わず乾いた笑みがこぼれる。

「それは…」
「遠慮願いたいよねえ」
「!?」

私が言い終わる前に背後の誰かに台詞を盗られて、この場にはいなかったはずの成人男性の声に飛び上がる。勢いよく振り返ると、黒装束から覗く体が包帯だらけの怪しさ満点の男が至近距離にいて、私は海老のように後ろに跳ねた。
思い切り後ずさったところで善法寺くんにぶつかってしまったが、驚いた私を宥めるように善法寺くんの手が肩に回る。それでも動揺が収まらず未だ鳴りやまない胸を押さえながら目の前の男を見つめると、「ちょっと粉もんさんだ〜!」と伏木蔵くんの無邪気な声が響いた。

「雑渡昆奈門だよ」

呆れながらそう名乗った男に、伏木蔵くんが嬉しそうに飛びつく。伏木蔵くんを受け止めて頭を撫でる一連の仕草は、見た目の怪しさからは結びつかないほど優しく、状況が飲み込めない私は何度も瞬きを繰り返した。

「あ、あなたは何者…」
「曲者」
「くせもの……は、駄目なんじゃないですか!?」

同意を求めるように善法寺くんを見ると、何故だか困った笑みを返される。これは、からかわれているのだろうか。本当はたまにしか顔を出さない忍術学園の教師とか、そういうオチなのだろうか。私が情報量の多さに目を回していると、雑渡と名乗った男がくつくつと笑った。

「雑渡さん、あまり苗字さんを混乱させないでください。ええと、苗字さん。この人はですね、雑渡昆奈門さんと言ってタソガレドキ城の忍者なんです」
「タソガレドキ城の方が何故ここに…?」
「遊びに」

男がけろっと何でもないように言うので、一瞬納得しかけたがそうはいかない。他のお城の忍者が遊びに来るなんて、聞いたことがない。しかし、伏木蔵くんが懐いている理由や、最高学年の善法寺くんが警戒態勢を取らないのも不思議で、男と善法寺くんを交互に見つめると、善法寺くんが呆れたように肩を竦めた。

「本当にただ遊びに来てるだけなんです。だからあんまり怯えなくても大丈夫ですよ。この通り、伏木蔵あたりはすっかり懐いちゃってて」
「はあ……」
「無断侵入者であることに変わりはないんですけどね」
「…え、入門表にサイン…」
「してないよ」
「…かなり凄腕のプロ忍なんです、雑渡さん」

小松田さんのセンサーに引っ掛からないということは、実力が確かなプロ忍という事実を裏付けするようで私は更に竦みあがる。
忍術学園の教師は、他所のプロ忍に引けを取らないほど強い実力の持ち主ばかりだと尾浜くんに聞いていたが、やはり今は先生なのでその立ち居振る舞いに恐怖心を持ったことは一度もない。
この前初めて会った利吉さんも、忍術学園の関係者という立場からか、怖い雰囲気というものは少しだってなかった。
だが、この雑渡さんという男は違う。見た目が怖いものも勿論あるが、風格が、私が今まで出会った忍者と名乗る人たちとは全く違った。

「君の警戒心は正しいけど、私はただ保健委員会の子たちが気に入っているだけだから。ここで何かをするつもりはないよ」

その言葉に、嘘はないように感じた。私はただの一般人だからプロの忍者の嘘なんて見抜けやしないのだが、それでも私の直感が、今の言葉に偽りはないと感じていた。先ほどから伏木蔵くんを抱っこする手つきだって、ずっと優しいのだ。
善人ではないけれど、悪人でもない。雑渡さんという人物が少し理解できたような気がして、私はようやく肩の力を抜いた。

「お仕事ついでに立ち寄ったんですか?」
「まあね。新人事務員さんがどんな人か気になってたし」

善法寺くんの質問に頷いて、雑渡さんは好奇が混ざった視線を向けてくる。

「それは…ご期待に沿えずすみません」
「いや?そんなことないけど。君、中々に優秀みたいだね」
「…誤った情報だと思いますよ」
「どう?うちで働いてみない?」
「えっ!?」

突然のスカウトに思わず大声をあげてしまう。まさか冗談とはいえそんなこと言われるとは思わなかった。私もあまり情勢に詳しい方ではないが、タソガレドキって確かそんなにいい噂は聞かないところだった気が。一瞬、考えるのも無駄な思考を回してしまったが、すぐこれは冗談だと冷静になる。
冗談を投げてきた相手が相手なだけに、どう反応すればいいか困っていると、善法寺くんが珍しく語気強めに「雑渡さん」と咎めた。

「ダメですよ、苗字さんを引き抜いたりしちゃ」
「そう?本人が良ければいいんじゃない?」
「だとしても、ここで止めないとぼくが後輩に怒られますから」
「ふうん…」

善法寺くんの指す後輩って誰のことだろう、と首を傾げたが、もしかして尾浜くんのことだろうか。それは、なんていうか、ちょっと気恥ずかしいような。確かにタソガレドキに転職します、なんて言ったら、尾浜くんは悲しんでくれるだろう。いや、もしかしたら私の決めたことならと笑顔で送り出してくれるのかもしれない。どちらにしても、見たいものではなかった。

「まあ、今日はお暇しようかな。これ以上怖がらせるのも可哀想だし」
「もう行っちゃうんですか〜?」
「うん、またね」

伏木蔵くんの頭を一撫ですると、雑渡さんは立ち上がって私を一瞥する。

「転職はいつでも歓迎だから」
「ありがたいお申し出ですけど、私、忍術学園が好きなので」
「そう、気が変わることを待ってるよ」

冗談のくせして最後までよく言うものだ。立ち去る雑渡さんの背中を不思議に思いながら見送っていると、善法寺くんが「少しくらいは本気ですよ」と言うので、ええっと声を上げる。言うだけはタダ精神なのだろうか。確かに、あの性格ならあり得るかもしれない。なんとも、肝の据わった人というかなんというか。

「私、忍者の世界なんて何も知らないんだなって思い知らされた気がする…」

味わったことのない緊張の余韻を噛みしめて呟く。忍術学園や身内の叔父さん以外の忍者は、これほど別世界の人間だと感じるものなのだなという驚きがあった。ここで働き始めて、忍者というものを多少知った気になってはいたが、所詮私の見せてもらっていた世界なんてほんの一部でしかないのだと。

「そのままでいいと思いますよ。知らないほうがいい事、沢山ありますから」

善法寺くんの言葉には、最高学年としての重みがあった。そして、六年生は生徒らの中で一番プロの忍者に近しい立場であることを改めて実感する。ここを卒業したら、雑渡さんのような実力者と渡り合っていかなければいけない世界。
尾浜くんだって、来年は六年生であっという間に卒業してしまうこと。そして、尾浜くんが身を埋めるのはそういう世界だということ。「卒業と共にこの想いも置いていくつもり」、あの時、すでに覚悟をしきっているように告げられた言葉が、現実味を帯びていくようで私は何とも言えない気持ちになった。


モラトリアムと青い春 15話


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