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TopMainモラトリアムと青い春
「わ〜〜!!」という、嫌な予感しか起きない声が聞こえて勘右衛門は足を止めた。あの声は、どう考えても一年は組の誰かしら、というかお決まりの三人の声で。となると、導かれる結論は厄介ごとが起きているということだった。
数秒間、駆け付けるか否か悩んだが、よし、無視をして長屋に戻ろう、と決断したところで「ごめんなさ〜〜い!!」という声が続けざまに聞こえる。謝罪が聞こえてきたということは誰かに迷惑がかけられたということ。これがもし忍術学園の関係者以外、部外者だった場合。それは先輩として、上級生として放っておけるものではないので勘右衛門はこめかみを押さえながら騒ぎの方向へと足を運んだ。

勘右衛門が駆けつけると、手桶と柄杓を持った乱太郎、きり丸、しんべヱが名前の前でばたばたと落ち着きのない動きをしていた。まさか騒ぎの渦中に名前がいると思っていなかった勘右衛門は数秒フリーズしたが、落ち着いて視界情報を整理すると、名前の全身がぐっしょりと濡れていて勘右衛門は飛び上がった。

「名前さん!?大丈夫ですか!?」
「あ、尾浜くん。うん…まあ、大丈夫だよ」

あはは、と苦笑いを浮かべた名前に、勘右衛門は懐から取り出した手拭いを渡す。一年生の三人は勘右衛門が来たことによって若干落ち着きを取り戻したのか、勘右衛門の足に引っ付いて半泣きの謝罪を繰り返した。これでは話にならないので、小さな体を引きはがして勘右衛門は三人に視線を合わせる。

「あ〜!わかったから、いったい何があったんだ?」
「ぼくたち、先生に頼まれて打ち水をしてて…」
「それでうっかり苗字さんに水を…」
「思いっきりかけてしまって…」
「…事情は分かった。それで、乱太郎。このままじゃ名前さんどうなると思う?」

濡れ鼠になっている名前を指さして、勘右衛門が答えを促すように乱太郎に問いかけると、乱太郎がはっとして顔を上げる。

「こ、このままでは風邪を引かれてしまいます!手拭いと替えのお着物持ってきます!」
「あ、待て乱太郎!おれも行く!」
「ぼくも〜!!」

手桶と柄杓を投げ出して三人は一目散に駆けていく。その小さな背中を見送ってから、勘右衛門は改めて名前へと向き合った。

「災難でしたね…、あの三人に巻き込まれるとは」
「はは、でも暑かったしちょうどよかったよ」
「よくないですよ!」

勘右衛門が差し出した手拭いで濡れた顔を拭いた名前は呑気に笑う。確かに今日は先生があの三人に打ち水を頼むくらいには暑かったが、だからといって濡れた体をそのままにしていいものではない。しかし、勘右衛門の反論は名前に軽く受け流され、まあまあと何故か逆に宥められてしまった。

「本当に大したことないから」
「のわりには全身びしょ濡れすぎじゃありません…?」
「三人一斉に水掛けられたからなあ」

そう言って結っていた髪を解いて軽く絞る名前に、勘右衛門は自然と目線が彷徨う。濡れた髪を下ろした名前の姿は青少年ならばどきりとするものがあって、それが想い人ならば尚更。普段身なりをきっちりする名前の少し崩れた姿はより刺激が強く、勘右衛門は強い日差しも相まって軽く眩暈がした。

「替えのお着物持ってきてくれるって言ってたけど、ちょっと歩いてれば乾いちゃいそうな気もするね」
「そんな、七松先輩みたいなこと言わないでください」

今日はお休みのため事務員の服ではなく普通に小袖を着ている名前が、髪同様に裾をたくし上げて水気を絞るので、勘右衛門はいよいよ「わ〜!?」と思い切り声を上げた。何に叫ばれたのか全く分からない様子の名前はぱちくりと目を瞬いて、驚いた表情で勘右衛門を見上げる。

「さすがにおれの前ではやめてください!おれも、男ですので!」

心の底から叫んでさらけ出された足を指さすと、名前がようやく何のことを言われているのか気がついたようでぱっと掴んでいた裾を離す。

「ご、ごめんなさい。嫌なもの見せちゃったよね…」
「そうじゃなくて!その、くの一教室もあるとはいえど、ここは基本的に男所帯ですし、もっと危機感を…!」
「あ、ああ。はい…ごめんなさい」

気まずそうにする名前は、勘右衛門の言葉を納得した風には見えず。どうにも上辺だけ承知されたような気がして仕方ない。

「本当に分かってますか?」
「わ…分かってます」
「年下だからとか関係ないですからね?」
「う……、はい」

勘右衛門が念を押すと、忠告が身に染みてきたのか名前が苦々しく頷く。その反応にやっと伝えたい意図が伝わったと感じて、勘右衛門は長く息をついた。

「とにかく、早く着替えま…」
「せんぱ〜〜い!苗字さ〜ん!」

タイミングよく聞こえてきた声に振り返って、勘右衛門は手拭いの山で見えなくなっている後輩たちに表情が緩む。そんなに持ってきてどうするつもりなのだろうか。

「お待たせしました!山本シナ先生から替えのお着物もお借りしてきたので、どうぞ!」
「わざわざありがとう、乱太郎くん、きり丸くん、しんべヱくん」
「いやいや…元はと言えばおれたちのせいですから。すみません」

これで一件落着、勘右衛門のやることも特にはないので踵を返そうとした時だった。
ゴロゴロ…と、不穏な音がして、一瞬のうちに空に暗雲が立ち込める。先ほどまでさんさんと照らしていた太陽が見る影もなくなったところで、ザーっと桶をひっくり返したかのような豪雨が降り注いだ。
さすがのこれには一同言葉を失い、数秒動けずに雨に打たれ続ける。乱太郎たちが持ってきた手拭いは、ひとつ残らずびしょ濡れになっていた。

「これ…は、」
「…そういえばさっき、あっちの方で潮江先輩と食満先輩が喧嘩をしていました…」
「ああ、じゃあ何かの拍子で二人の意見が合ったんだな…」

乱太郎が呟いた情報に確信を得た勘右衛門は額に手をあてる。二人の会話内容に名前がどういうこと?と首を傾げるので、きり丸が濡れた前髪を払いながらうんざりした様子で口を開く。

「潮江先輩と食満先輩は普段とっても仲が悪いので、たまに意見が合ったりすると珍しすぎて雨が降るんです」
「珍しすぎて雨……」

たった数秒で全員ずぶ濡れになってしまったので屋根の下に避難する気も起きず佇んでいると、また物凄い勢いで灰色の雲が空から捌けていく。ピカーっと何事もなかったかのように、先ほどまでの初夏の日差しが辺りを照らすので、しんべヱが「あ、喧嘩した」と呟いた。

「…雨乞いしたいときは二人を仲良くさせればいいってこと?」
「まあ、そうなります…」

あの二人を雨乞いとして使おうとする人は金輪際現れないとは思うが。さて、どうしたものかと勘右衛門が顔を上げると、目の合った名前が小さく吹き出した。

「っふ…あはは!もう全員ずぶ濡れだね」
「手拭いもぜ〜んぶ濡れちゃいました」
「それもこれも潮江先輩たちのせいっすよ」

ここまで全て無に帰すと面白くなってくる部分があるのか、名前が楽し気に笑うので勘右衛門もつられて笑みを浮かべる。やっぱり最終的に巻き込まれてしまうのか、と思わないでもなかったが、この無邪気な笑顔が見られたのであれば巻き込まれた甲斐があったというものだ。
名前につられて全員で笑っていると、通りかかった伊作に「風邪ひいちゃうから全員風呂!」と言われ、その日は早めの風呂を済ませることになったのだった。


モラトリアムと青い春 16話


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