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それは深夜の厠帰り、ある部屋の灯りがついていたものだから思わずそうっと立ち寄ってみたのだ。ないと思うけれど消し忘れとかだったら、危ないし。その行為が巻き込まれの第一歩だとは考えもしなかった。

「誰だ」

どう声をかけようかと思案していると、先手を打つように戸を越えて硬い声音が飛んでくるので小心者の心臓が飛び上がる。慌てて「事務員の苗字です…」と名乗ると、数秒もせずに中から戸が開いた。

「苗字さん?」

顔を覗かせたのは、紅い瞳をきょとんと丸くさせた田村くんで、更に奥を見れば会計委員会の面々が勢揃いしていた。あ、ここ会計委員会のみんなが活動している部屋か、とその時に私は気づいた。夜も更けたこの時間では全く判別がつかなかったのである。
私に警戒心強めの声をかけたであろう本人、潮江くんも驚いた表情で「どうしたんです」と目を瞬かせた。

「ごめんね、こんなに遅くに灯りが付いてるから少し心配になって」
「ああ…ご心配おかけしてすみません。会計委員会は今立て込んでる時期でして」
「そうなんだ…深夜まで大変だね」

個人のトレーニングを深夜に行っている生徒は何度も見かけたことはあるが、委員会活動を夜更けまで行っているのを見るのは初めてだ。小さい一年生もいるのに大丈夫なんだろうか、と表情を見渡せば、全然大丈夫ではなさそうな顔つきをしていて、思わず心の中で(ブラックだ…)と呟く。
部屋に漂う重々しい空気に心配になってきて、私がお茶でも入れようかと踵を返そうとした時、団蔵くんが「あの!」と声をあげた。

「苗字さんは、あの小松田さんをフォローできるほどの事務員さんですよね…」
「え。う、うん…完璧ではないけれど…」
「じゃあ、そろばんは使えますか…?」

そう言った団蔵くんの顔は、十歳には思えないほど鬼気迫っていた。言わんとしていることは聞き返さずとも分かってしまい、更に団蔵くんに伴い希望と絶望が入り混ざった表情を他の面々からも一斉に向けられて、その迫力に言葉に詰まる。私が即答できずに慄いていると、すかさず潮江くんが怒号を飛ばした。

「バカタレ!苗字さんの業務に支障が出たらどうする!」
「でもこのままじゃいつまで経っても終わりません〜!」

うわあんと団蔵くんは悲鳴じみた声をあげた。それを聞いてまで断る残酷さは持ち合わせておらず、私は覚悟を決めて部屋の中に入り、後ろ手で戸を閉める。潮江くんや田村くんが、いいんですかと言わんばかりの緊張感漂う表情を向けてくる中、私はこくんと頷いた。

「申し訳ありません…!頼みます!」
「ありがとうございます苗字さん!」
「今度絶対お礼します!!」
「左門起きろ!希望が見えてきたぞ!」
「んあ?」

これでもかというほどの沸き立ち具合に、ちょっと誇らしい気分になりながら机につく。協力すると言ったのだから、きちんと戦力にならなければ。田村くんに差し出された帳簿を受け取って、私は腹を据えて頁を捲った。
周りに指示を仰ぎながら、私は必死にそろばんを弾いた。私がそろばんを扱えるようになったのは事務員になってからのことだったため、そこまで早い計算ができるわけではない。もっと私が扱いなれていれば、と歯噛みしながら、せめてもと狂いのない丁寧な計算を心がけた。

ぱちぱちと玉が弾かれる音と、集中した息遣いが漂う空気は嫌いじゃなかった。私が作業にのめり込みんでいると、しばらくもしないうちに潮江くんが席を立った。
「すぐ戻る」と言い残して部屋を出て行った潮江くん。どうやらあまりない事のようで、後輩たちはぱちくりと不思議そうにしていた。
言葉通りすぐ戻ってきた潮江くんの手には薄めの羽織。あ、と思った時には目の前に差し出されていた。

「この時期でも、夜は冷えますので」
「ありがとう…」

思えば私は夜着一枚だった。寒さもそうだが、見苦しかったかもしれないと思うと、脳裏の尾浜くんが「男所帯!」と怒ってくるのでこめかみを押さえる。気を付けます、本当に。すみません。
受け取った羽織を肩にかけて改めて作業を再開していると、最中気を使ってくれたのか田村くんが「そういえば、」と私に話を振った。

「苗字さんは予算会議、初めてですよね」
「予算会議…、会計委員会の主な仕事なんだよね、確か」
「そうです。これも予算会議の準備なんですよ」
「それで忙しいんだ…」

合点がいった。会計委員会が主だったイベントが間近となれば忙しくもなるわけだ。予算会議というくらいだから、この計上した帳簿を元に各委員長で机を囲んでの会議なのだろうか。結構物々しい雰囲気になりそうだな、と一人想像を膨らませる。

「当日、苗字さんお怪我されないように気を付けてくださいね」
「お怪我…?」
「どこに被害が及ぶか分かりませんから」

左吉くんが親切心で私に忠告してくれていることは分かるのだが、何に対して気を付ければよいのか、どんな被害があるのか、てんで結びつかなくて混乱が広がる。そんな私の様子を察したのか、田村くんが苦笑いを浮かべた。

「予算会議は各委員会があの手この手で予算案を通そうとしてくるので、毎回学園をあげた騒ぎになるんです。最終的には実力行使というか…、色んなものが宙を飛び交うというか…」
「…なるほど」

私もこの学園に来てそれなりに経つ。何となく想像はついたし、心構えもできた。当日は吉野先生の指示をしっかりと聞くことにしよう。

「じゃあ、会計委員会にとって予算会議は正念場なんだね」
「そういうことです。気合を入れて行かないと他の委員会に負けてしまいますので」
「だからってこんなに細かく計算しなくてよくないですか?負担がでかすぎますよ」

うんうん唸りながら帳簿と向き合っている団蔵くんが零した泣き言に、黙ってそろばんを弾いていた潮江くんが口を開く。

「団蔵、予算会議と書いて何と読む」
「…合戦です」
「そうだ。合戦に負けないためには何よりも下調べが重要だ。授業でも教わっただろう。下調べのために忍者がいると言っても過言ではないのだぞ」
「はい…」
「これはその下調べだ。我々会計委員会が各委員会に負けないための」

潮江くんに諭された団蔵くんは納得したのか、しょんぼりと黙り込む。予算会議と書いて合戦と読むんだ…、と会計委員会の独特さに意識が引っ張られながらも、私はかつて読み込んだ兵法の一節を思い出した。

「彼を知り己を知れば百戦殆うからず、だね」

そう口にすると、その場にいた全員が驚いたように私を見つめた。

「孫子を諳んじられるのですか?」
「あ、うん。その、趣味で…」

神崎くんの問いに、ぎこちなく頷く。私が用いたのが孫子の一節だとすぐに分かる辺り、さすが忍者のたまごだ。
私は、忍者のたまごでも、武士でもない。そんな私が兵法を口にすると怪訝な目で見られるのは常だった。いくら年下の子たちだからって、またひけらかす様に話してしまうなんて。自己嫌悪が頭の中いっぱいに占める。

「ごめんね、女の私が偉そうに」
「偉そう?孫子を諳んじることがですか?」
「…変に学を付けた女って、嫌な感じじゃない」

自嘲的な乾いた笑いを漏らしてしまった自覚はあった。どうしよう、余計に変な空気にしてしまった。うなじから後頭部にかけてさわさわと嫌な感触が走って、息が詰まる。慌てて取り繕おうと顔を上げると、神崎くんはちっとも私の言葉に応えた様子はなく、じいっと真っすぐな瞳で私を見上げていた。

「学を付けるのに男も女も関係あるのですか?」

幼く混じりけのない純な言葉は、私のもやついた思考を晴らすのには充分だった。目の覚めるような心地で呆気にとられていると、潮江くんが小さく笑う。

「そうだな。学問は性別で戸を立てたりはしない」
「はい、学は身を助けますから!」

本当に、忍術学園に来てからは驚くことばかりだ。こんないくつも下の子の一言で救われてしまうなんて。思い出してみれば、以前図書室で兵法書を借りたときにも、不破くんは私の趣向に驚いてはいたが嫌そうな顔なんて一つも見せていなかった。ここは、自分の「好き」や「得意」が否定されない場所なのだと、改めて思い知らされる。

「…ありがとう。神崎くんの言う通り、関係ないね」

窮屈そうにしていた私の心の根っこが、ほどけていくようで。緩むように笑うと、不穏だった空気も和らぐ感触がした。

「叔父さんがね、そういう本ばかり貸してくれていたから好きなの。兵法書とか軍記物」
「そうだったんですね!」

快活に頷いた神崎くんに、先ほどまで卑屈になっていた自分が馬鹿らしくなる。兵法の中ではどれを一番読み込みましたか、とか爛々とした目で投げかけられる質問に、手を止めない程度に答えていく。潮江くんも特にそれを咎めることなく、談笑する声とそろばんを弾く音がしばらく部屋に響いた。

全ての帳簿を計上し終えたのは日が昇ろうとしている時間帯だったが、疲労感はあっても清々しいものだった。
一年生の子たちにはべそべそに泣きながら感謝され、田村くんと潮江くんには深々と頭を下げられる。神崎くんからはよければまた兵法のお話してください!とかわいいお願いまでされてしまった。
私はふらふらになりながらもそれらを笑顔で受けてから、部屋に戻り気絶するように眠りこけた。明日は食堂のおばちゃんのお手伝いをすると約束をしていたから、きちんと朝起きれますようにと念じながら。


モラトリアムと青い春 17話


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