a/hanagokoro/novel/1/?index=1
TopMainモラトリアムと青い春
休日の昼下がり、小腹が空いたので食堂にでも向かおうかと廊下を歩いていた勘右衛門は、前方に見慣れた姿を発見したので声をかけようと片手を上げる。だが、次の瞬間その後ろ姿がぐらりと傾いたので、勘右衛門は慌てて手を伸ばしながら駆け寄った。

「名前さん!?」
「あ、尾浜くん…ごめんね、ちょっと眩暈が…」
「いや全然いいんですけど、って顔色悪!?」

こめかみに手をあてながらううんと唸る名前の顔色が尋常ではないほど悪いので、勘右衛門はたまらず声をあげた。もはや血が通ってないのかと思うほどだ。だが、いつものように名前は「大丈夫大丈夫」と勘右衛門を宥めようとするので、勘右衛門は名前の肩を掴む。

「大丈夫じゃない!です!」
「う……、でもこれから食堂のおばちゃんのお手伝いしなきゃいけなくて…」
「そんなのおれが行きますから!名前さんは寝てて!」

ぴしゃりと勘右衛門が言い切ると、思考が鈍っているらしい名前は緩慢な動きで目を伏せて逡巡する。そしてしばらくしてその方がいいと判断したのか、力なく項垂れて「お願いしていいかな…?」とか細く呟いた。

「もちろん。部屋まで送ります」
「ごめんね、今度何かお礼するね…」
「ほら、そこはごめんねじゃなくて」
「…ありがとう」

名前は力なく勘右衛門に微笑んだ。名前の体を軽く支えながら、何か病の類なら新野先生を呼ばなければと思っていたので軽く質問攻めをしたが、体調不良の原因はただの寝不足らしい。そんなにお仕事根詰めてたんですか、と訊けば変に言葉を濁したので、どうやら何か事情があるようだ。
この後おばちゃんの手伝いもあるので、詳しく訊く時間もなく勘右衛門はちゃんと寝るようにと名前に言い聞かせてから部屋に詰めて食堂へと赴いた。

勘右衛門がおばちゃんに事情を説明して、今日は自分が手伝う旨を伝えるとおばちゃんは人がよさそうに眉を下げた。

「まあ、心配ねえ。名前ちゃん無理しちゃう性格だものね」
「そうなんですよねー…」
「私も頼み事はほどほどにしないと」
「そういう時はぼくが手伝いますよ」

助かるわあ、とおばちゃんは朗らかに笑って勘右衛門の背を叩いた。今日は買い出しのお手伝いらしいので、身支度を整えてからおばちゃんと二人で学園を出る。元々、買い出しのお手伝いと言うのは名目上らしく、実際は女同士仲良くおしゃべりしてお茶することが多いのだとか。だが今日は勘右衛門が来たので、普通に男手がいないと持って帰るのが厳しそうな重量を買い付けるあたり、おばちゃんはちゃっかりしている。
これは下手な鍛錬よりよっぽど重労働と思いながら荷車を引いてやっとこさおばちゃんと学園へ戻ると、おばちゃんが火を焚き始める。今日は休日なのにな、と勘右衛門が首を傾げると、おばちゃんが「何か食べないとまた倒れちゃうからねえ」と言うので、名前のために料理を作ろうとしているのだと分かった。

「尾浜くん、名前ちゃんのところに持って行ってくれるかしら」
「はい!あ、これ切ればいいですか?」
「ええ、お願い」

おばちゃんと共に台所に立ち軽食を作り上げると、それをお盆に乗せて勘右衛門は名前の部屋へと向かった。勘右衛門も、おばちゃんが作ってくれたおにぎりを貰ったので腹も満たされてすっかりご機嫌である。
こぼさないように、廊下からよい子や小松田が飛び出してこないように気をつけながら歩いていると、予想していない人物に「尾浜、」と声をかけられて勘右衛門は一瞬お味噌汁を零しそうになった。

「し、潮江先輩」
「なんだその飯は」
「あ、これは名前さんので…」
「なに?」

ぴくりと文次郎が片眉を上げるので、勘右衛門は固まる。今のどこに地雷があったのだろう、とこめかみに冷や汗を伝わせていると、文次郎が歯切れ悪そうに口を開く。

「ちょうど苗字さんのことを訊こうとしていた。…もしかして寝込んでいるのか?」
「寝込む…はちょっと大げさですけど、寝不足だったみたいなのでおばちゃんのお手伝いはおれが代わったところです。お昼ご飯も食べてないと思うので、これはそのために」
「……そうか」

文次郎は考え込むようにむっつりと黙り込んだかと思うと、深いため息をついて頭を掻いた。

「悪い、苗字さんが寝不足なのはおれの責任だ。昨夜、会計委員会の仕事に付き合わせてしまってな…」
「あ〜…なるほど」
「本当ならば手伝いとやらもおれが代わるべきだった、すまん尾浜」
「いえ、そんな。大したことは」

やりたくてやったことなので別に気にしてはいないが、文次郎が珍しく本気で申し訳なさそうにしているので勘右衛門は少し驚く。落とし穴事件の時の仙蔵や、バレーボールをぶつけた小平太もそうだが、六年生も名前に対しては結構気を使っているらしい。居心地が悪そうに勘右衛門の手元を一瞥した文次郎に、勘右衛門はお盆を持ち上げながら文次郎を窺った。

「一緒に行きます?」
「…そうさせてもらう」

思案の後、頷いた文次郎は勘右衛門と並んで名前の部屋へと向かった。名前の部屋の外から声をかけると、どうやらもう起きていたようですぐにはっきりとした返事が戻ってくる。お盆を置いてから部屋の戸を開けると、勘右衛門の隣に並んでいた文次郎に名前が目を丸くした。

「尾浜から大体事情は聞きました。会計委員会の手伝いのせいで、すみません…」
「いや、全然、そんな!それよりあの後大丈夫だった、かな…?」
「はい、苗字さんのおかげで今期の予算会議も無事迎えられそうです」
「そっか、よかった」

あー、もうそんな時期、と横で話を聞いていた勘右衛門は季節の巡りを感じた。まあ、あまり学級委員長委員会には関係のない話ではあるのだが。

「この礼は必ず」
「や、そんな大したことはしてないから…!」

床に拳をついて深々と頭を下げる文次郎にどうしたらいいか分からない名前が、助けを求めるように勘右衛門に視線をよこす。それにちょっと面白くなりながらも、勘右衛門は「まあまあ!」と声をかけた。

「そんな腹を切るような気迫出されると名前さんも困っちゃいますから、羊羹とかで手打ちにしましょうよ」
「わあ、それ嬉しいなあ」

名前も勘右衛門の意見に乗じてにこやかに頷くと、文次郎は苦い顔で俯いた。甘いものをプレゼント、というのは文次郎の得意分野ではないのだろう。そんなことは勘右衛門も分かっていたが、名前をこき使ったことに対してのほんのちょっぴりの仕返しと、普段あまり見ることのできない文次郎の困った様子が見たかったのである。今ばかりは、いい性格してるなと言われても甘んじて受けよう。

「…仙蔵にいい店を訊いておきます」

絞り出された答えに勘右衛門は笑いをこらえながら必死に表情に出さないようにした。名前はそんなことは露知らず「待ってます」と笑顔で喜んでいた。

それ以上、名前の昼食を邪魔するわけにもいかないので、話もそこそこに退散しようとすると「尾浜くん」と呼び止められる。勘右衛門が振り返ると、名前はこちらを見上げながら柔らかく目を細めた。

「今日は本当にありがとうね、また助かっちゃった」
「い…え、倒れるまで名前さんを働かせるわけにはいかないですから」
「あはは、気を付けるね」

一瞬、心臓がいやに跳ねてしまって言葉に詰まったが、不自然じゃないくらいには繕えたはずだ。勘右衛門は小うるさくなる鼓動を抑えながら、せかせかと退散した。
戸を閉めて部屋の外に出ると、文次郎と二人きりというのが途端に気まずくなった。理由は、頭の片隅では理解している。ぎこちなく廊下を同じ方向に歩き出して数歩、文次郎が足を止めて振り返らずに意識だけをこちらに向けた。

「……自覚しているようだから、とやかく言うつもりはないが」
「…はい」
「律しろよ」
「…こ、心得てます」

ぴゃっと強張った肩を宥めながら勘右衛門が狭まった喉を叱咤して答えると、文次郎は静かに「ならいい」と言ってスタスタと歩いて行ってしまう。勘右衛門はその背を見つめながら、先ほどとは違う意味で心臓がばくばくと音を立てるので、深呼吸を繰り返した。
分かっている。別に文次郎は偉そうに後輩に説教垂れたいわけではないのだと。多分、純粋に両者を心配しての釘刺しなんだと。勘右衛門だって一番最初に自分を戒めているのだから、誰よりもそれは理解していた。

名前さんに迷惑をかけたいわけではない。だから、大丈夫。そう自分に言い聞かせながら肩の力を抜くと、ほんの少しだけ泣きたい気持ちになった。


モラトリアムと青い春 18話


prev │ main │ next