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TopMainモラトリアムと青い春
目の前に飛び交う様々なもの。バレーボールやら虫やら悲鳴やら怒号やら。想像していたよりも規模の大きい騒動を、私は開いた口が塞がらずに眺めていた。
予算会議。それは私にとって未知の忍術学園イベントであった。概要を聞いたときから異様さに驚いてはいたが、実際目の当たりにするとその凄さに圧倒された。これは確かに合戦だ。
張り切ってみんなの相手をしている会計委員会を見ながら、これは手伝った甲斐があったなあとぼんやり思っていると尾浜くんが下級生を引き連れて目の前を通る。

「あっ名前さん、こんなところにいたら危ないですよ」
「尾浜くん」
「ここじゃ色んなものが飛んできますから、もう少し離れておいた方がいいです」
「忠告ありがとう」

そう言う尾浜くんは後輩を引き連れつつも、のんびりとした様子で騒ぎを見つめているので私は首を傾げる。

「尾浜くん達は行かないの?」
「んー、学級委員長委員会は顧問が学園長先生なので、予算が別枠っていうか〜特別っていうか」
「へえ、そうなんだ」

それは知らなかった。確かに学園長先生が顧問なら学園長先生のポケットマネーなどで補ったりしているのかもしれない。と思ったところで尾浜くんが意地悪な笑みを浮かべていることに気が付いたので、そう単純な話でもないようだ。
これは悪だくみが働いているなあ、と思ったが、別に口を出すつもりもないので黙っていると、いつの間にか傍にいた(恐らく)鉢屋くんが尾浜くんを小突いた。

「勘右衛門、行くぞ」
「ん、分かった」

あの合戦の中に赴くのか、他に何か所用があるのか。鉢屋くんに呼ばれた尾浜くんは後輩を引き連れて、駆け出していく。行きがけ、尾浜くんが振り向いて私に手を振った。

「名前さんも気を付けてくださいね!」

手を振り返してから、尾浜くんの言葉に今日の私の仕事を改めて思い出す。気を付けてください、というのは何も予算会議で飛び交うあれやこれやだけではないらしいのだ。

本日、予算会議が行われる前に吉野先生から言い渡された業務は「警戒にあたること」だった。てっきり私は予算会議での被害のことだと思っていたのだが、どうやらそれだけではないらしい。吉野先生によると、予算会議ぐらいの大騒ぎになると学園全体が忙しなくなるので、それに乗じて曲者が侵入してくることは少なくないのだとか。
私なんかは警戒業務に当たるものの、戦うことのできない非力な一般人である為、吉野先生からは怪しい人を見かけたら即報告すること、と心配そうによく言い含められた。私もそれについてはちょっぴり不安ではあるのだが、まあ滅多なことでは遭遇することもないだろう。なんて、そう思っていたのだが。

尾浜くんに言われてから、警戒業務を引き続き行うため少し騒ぎから離れたところを歩いている時だった。急に腕を力強く掴まれ身動きがとれなくなり、引きずるようにして近くの納屋に連れ込まれる。生徒の子らにこんな乱暴にされたことはないので、誰か知らない人が私を拘束している、そう理解するのに時間はかからなかった。
暗闇の中、ひやりとしたものが首筋に当てられて血の気が引いていく。冷たい切っ先に、何か刃物を向けられているのだと分かった。

「学園長の庵はどこにある」

殺気立った声が頭のすぐ後ろで響く。やっぱり曲者に捕まったのだと相手を確信すると、嘘みたいに体が動かなくなった。恐怖で頭がぐらぐらと揺れて何も考えられそうにない。すると、怯えて口も開けない私に苛立った曲者が、首筋に強く刃物を当てながら低く怒鳴った。

「学園長の庵はどこだ!」
「……し…しりません…」

言ってはいけない、言ってはいけない。それだけしか考えられなくて、上手くかわしてどうこうしよう等とは、とてもじゃないが思いつかなかった。私がこれ以上は喋らないと頑なに口を結んだところで、チッと舌打ちが響く。
次の瞬間、殺されるのかもと瞼の裏に走馬灯が走りそうになったところで、轟音が響いて納屋の壁に風穴が空いた。

「小平太〜〜!!どこをぶち壊してやがる!!…って、」
「あ、曲者」

食満くんの怒号の後、七松くんの淡白な声が響く。大きな穴から皆の視線が降り注いだ曲者は、私を突き飛ばして凄い速さで納屋から飛び出て行った。

「逃がすな!」

食満くんの声に続いてバタバタと皆が追いかけていく足音。突き飛ばされた私はその場にへたり込みながら未だに状況に追いつけず、納屋に風穴を作ったバレーボールがてん、てん、と地面を転がる様を呆然と眺めていた。
すると顔色を変えながら立花くんや善法寺くんが駆け寄ってきて、私を助け起こしてくれる。

「大丈夫でしたか苗字さん!」
「だ…大丈夫…」
「怪我は!?」
「…ない、かな……」

自身の状態ですら把握するのが難しく、頭が真っ白のまま二人の質問に答えていく。善法寺くんがぺたぺたと私の体をチェックしながら、首筋を撫でて「少し切れてますね」と苦々しく呟いた。突き飛ばされた時、手や膝も擦りむいていたがそれすらもよく分からないくらいには混乱していた。

「とにかく保健室に行きましょう。失礼します」

立花くんは私に断りを入れてから、私のことを軽々と横抱きにして持ち上げた。混乱で埋め尽くされていた思考が、抱きかかえられたことによってかなり引き戻されて私は立花くんを慌てて見上げる。

「あ、歩けるから平気!」
「いえ、今はお任せください」

ぴしゃりと言い切られてしまえば、反論するだけのキャパシティも今は持ち合わせておらず、その後は大人しく運ばれるだけになった。

保健室に着いて軽傷ではあったが手当てを終えた私に、新野先生は柔らかく微笑みながらお茶を差し出してくれた。何かが喉を通る気分ではなかったので断ろうとしたのだが「一口でいいから飲んでみてください」と言われたので、おずおずと口を付ける。
温かいお茶が喉を滑り落ちると、先ほどの恐怖で凍り付いていた心が溶けだしていくようで、目の奥がじわじわと熱くなっていく。ずっと腕に残っていた掴まれた感触もゆっくりと消えていくので、私はようやく訪れた安堵の気持ちに耐えきれず涙を落としてしまった。

「怖かったですね、よく頑張りました」

こんな歳になって泣くなんてみっともない。思考の端でそんなことを思ったが、涙は一向に止められなくて新野先生に背中を擦られながらしくしくと泣いてしまう。早く気分が落ち着いてほしいと願うものの、そう簡単に落ち着けられるものでもなかった。
すると、静かな保健室にドタバタと忍者らしからぬ忙しない足音が響いて、勢いよく戸が開けられる。

「名前さん!!」

聞き親しんだ声に顔を上げると、尾浜くんが血相を変えて立っていた。

「だ、だ、大丈夫、では、ないよね!?怪我は!?」
「ちょっと擦りむいたくらいですから大丈夫ですよ」

泣きじゃくる私に変わって新野先生が答えると、尾浜くんは私の前にへなへなと座り込んだ。そして私の怪我が大したものではないことを見ると「よかった〜…」と長く息をつく。

「いや!よくはない!ごめん、おれが近くにいればよかったのに…!」

悔しそうに顔を歪めて意気消沈してしまう尾浜くんに、いつの間にかとめどなく流れていた私の涙が止まっていた。どうやら私、尾浜くんの顔を見て落ち着いてしまったらしい。そんな自分に少し笑いそうになったが、今は目の前の尾浜くんをもっと近くに感じたくて手を伸ばした。

「え、」

尾浜くんの手をぎゅっと握ると、弾かれたように顔を上げた尾浜くんが呆けた表情を浮かべる。

「ほんとうに、すごく怖かったんだけど……尾浜くんの顔見たら、安心しちゃった」
「そっ……か…」

手を握るだけじゃ足りなくて、まだ胸の端がざわざわとするので、目の前にあった尾浜くんの肩に頭を預ける。尾浜くんはいつも何か甘いものを食べているイメージがあったから甘味の匂いでもしそうだと思っていたのが、予想に反してほんのり汗と火薬の匂いが香った。
それを胸いっぱいに吸って深呼吸を繰り返していると、私の手を微かに握り返した尾浜くんがぽつりと呟いた。

「本当に何もなくてよかった…」

そうして叔父さんが保健室に来るまで、私たちは周りも忘れて手を繋いでいたのだった。叔父さんが来た瞬間、びっくりした猫のように飛び跳ねて私の横に姿勢を正した尾浜くんに笑ってしまったのはしょうがないだろう。


モラトリアムと青い春 19話


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