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TopMainモラトリアムと青い春
「上の空…って感じだね」

雷蔵の言葉にハッとした勘右衛門は、慌てて宙に浮かべていた視線を隣に向けた。

「ごめん、ちょっと」
「いや、構わないけど。珍しいなって」

そう言って大して気にも留めてない様子で雷蔵は小首を傾げた。図書室に並べるための本の買い出しに付き合うと申し出たのは勘右衛門からだ。それなのに隣でこんなにふわふわされてたら気にもなるだろう。勘右衛門は思ったより自分の脳内を占めている事柄に、何度目か分からないため息を心の中でついた。

勿論、勘右衛門の頭を悩ませているのは先日、予算会議に乗じて侵入してきた曲者が名前を襲った事件。その後に起きた名前との保健室での出来事だった。
先ず、驚きが大きかった。何かと名前が巻き込まれる場面に遭遇することが多いため、弱った部分を見るのはこれが初めてではなかったが、あそこまで素直に勘右衛門に身を任せてくれるほど心を許してくれているとは思っていなかった。勿論、ある程度の信頼関係は築けていたと自負しているが、まさかあんなに、あんなの、――勘弁してほしい。

「だめだ、おれ今日使い物にならないかも」
「悩み事?」

悩み事。そうなのだろうか。整理することのできない感情がひたすら胸中で暴れている。自分に折り合いをつけて、どうにかかっこいい体裁を取り繕いたいというのにそれすらできそうにない。それくらい、あの時の名前の態度は勘右衛門にダメージを与えていた。
しかし、他者の視線に晒されると、もしかして自分はかなり色ぼけたことで悩んでいるのではないかと頭が冷えて来る。いつかの文次郎からの忠告が頭の中をぐわんぐわんと揺らして眩暈がしてきた。

「(おれってもしかして忍者失格?)」

迷宮に陥っている思考はどこまでも気分を落ちさせる。勘右衛門は思わず自嘲的な笑みを零した。

「うん…そう。恋の、悩み?」

すると雷蔵はぱちりと目を瞬かせてから、薄く細める。

「聞こうか?」

雷蔵はこう見えて他者の相談についてはかなりフラットな視線で意見をくれることが多い。三郎なんかのほうがよっぽど感情的な意見を言う。だから、揶揄するわけでも野次馬精神が働いているわけでもない雷蔵の申し出は、勘右衛門の心を軽くさせた。

「あんまり頼りにならないかもだけど」

続けて冗談っぽく肩を竦めた雷蔵に、勘右衛門は小さく笑った。確かに雷蔵に色恋のイメージはあまり付きまとわない。しかし、色恋に限らず相談をするにはうってつけの相手だと勘右衛門は知っていた。
軽く先日の経緯を話し、勘右衛門の荒ぶる胸中を素直に吐露する。雷蔵はうん、と相槌を打ちながら静かに耳を傾けてくれた。

「死ぬほど嬉しいよ?あんなに心を寄せてくれてたのは。でもそれと同時に試されてるなって…」

勘右衛門の肩に頭を寄せてくれた名前を思い浮かべる。あの時首筋から香った柔らかい匂いも鮮明に思い出せるほど、それは大きな傷跡を残していた。

「…あのままうっかり抱きしめるところだった」
「…だめなんだ?」

だめに決まってる。勘右衛門は心の中で即答した。だって勘右衛門は一番最初に枷をつけてしまったのだ。

「見返りなんていらないと思ってた。おれが名前さんを好きで、名前さんはおれを好きじゃなくても、それでいいって。好きでいるだけで楽しいと思ってたから。なのに、今更見返りを求めるのは……ルール違反だろ」

手を伸ばして抱きしめてしまいたい、この腕に収めたいというのは見返りだ。名前に許可してもらいたいという、抱きしめることが許される立場になりたいという欲。それを求めてしまった。
何が好きでいるだけでいいだ。この気持ちを卒業までに綺麗に消化できる気でいた。そんな簡単に溶けてしまう恋心なら、彼女のことを好きになっていない。
見返りを求めない気持ちなんて正気か?ずいぶん前に三郎に言われたことが今になって刺さる。ああ、正気じゃなかった。自惚れていたよ。

「…しょうがないと思うけどなあ」
「……」
「人間って強欲な生き物だからね」
「そうざっくり言われるとおれはもう反論できないんだけど…」
「だってそうじゃない」

あはは、と雷蔵は何でもなさげに笑った。達観しすぎた意見に、自分の悩みがちっぽけにすら思えてくる。まあ、恋の悩みなんて、考え込んでも答えが出るものでもないので不毛ではある。勘右衛門は曲がっていた背筋を伸ばして、深く息をついた。

「…結局のところ、強欲な自分を受け入れて飼いならすしかないってことかな」
「勘右衛門って本当に理性的だよね」
「マジで言ってる?」

自分のことをそう思ったことは一度もなかった勘右衛門が半信半疑に聞き返したとき、慣れ親しんだ声を拾った二人は同時にぱっと視線を同じ方向へと向けた。

「あれ、小松田さん」
「と、名前さん……」

幸先がいいのか悪いのか、勘右衛門は神様の悪戯のような、何か示唆的なものを感じて顔が引きつった。勘右衛門と雷蔵の視線にあちら側も気づいたのか、「あれえ」なんて呑気な声が返ってくる。
ここで無視をするわけにもいかないので雷蔵と二人、駆け寄ると名前がにっこりと勘右衛門に笑顔を見せた。

「偶然だね」
「そう、ですね」

あまり上手く笑えている自信はない。平常心、と忍務ばりに自身を戒めて、勘右衛門は平静を装った。

「お二人でどこかに行かれてたんですか?」
「うん、和尚さまのところにちょっとお使いに行ってきた帰りなんだあ」

大方学園長からの依頼だろう。なるほど、と頷くと、小松田がこてんと首を傾げる。

「二人はお買い物?」
「はい、ちょっと本の買い出しに」
「へえ…それも図書委員会さんのお仕事なんだ」
「ぼくの場合、趣味も兼ねていますが」

名前の問いに雷蔵は少しはにかんだ。名前は最近よく図書室を利用しているようなので本好き同士通ずるところがあるのだろう。名前は可笑しそうに「なるほどね」と目尻を下げた。
名前達はこれから帰りの為、一緒に行動することはできなさそうと立話もそこそこに解散しようとした時、ドカッと小松田の体を誰かが揺らした。

「わっ」
「…っと、すまない……て、小松田くんじゃないか」
「出茂鹿之助さん!」

小松田がびっくりしたように声をあげて、勘右衛門と雷蔵も意外な人物との遭遇に目を瞬かせる。忍術学園の人間ではないが、もはやお馴染みの男である。ただ名前だけがどこの誰か分からずに、様子を窺っていた。

これは、と勘右衛門に嫌な予感が走る。忍術学園の事務員に採用されなかった男と、採用された名前がこの場にいる。両者の自己紹介はしないままこの場を収めたほうがいいだろうということは、少し考えれば分かることだった。しかし、勘右衛門が手を打つ前に、いつもの調子で小松田はにっこにこで口を開いた。

「あ、名前ちゃん。この人はね、出茂鹿之助さんだよ」
「出茂、さん…」
「そして、彼女が名前ちゃん。今ぼくと一緒に忍術学園の事務員として働いてくれてるんです」
「なにぃ!?」

あー、と勘右衛門と雷蔵は同時に頭を抱えた。地雷の中の地雷を思いっきり踏みぬいたので、もう手の施しようがない。わなわなと震える出茂は小松田と名前を交互に見比べ、睨みつけた。

「な、何故この私が不採用でこの女が採用されるんだ!」
「え…?」
「本当に忍術学園の採用基準は訳が分からん!小松田くんみたいなヘッポコや女を雇うなんて!」

急に知らない男から怒鳴りつけられて名前は訳も分からず混乱していたが、出茂の攻撃的な言葉にすっと顔から表情が失せた。勘右衛門は名前が怒ったところを今まで見たことがない。能面のような顔をする名前に、ひっと喉から引きつった声が飛び出そうになりながら恐る恐る名前を窺った。

「尾浜くん」
「はい!」
「この人は?」

端的な問いだが、訊かんとしていることは言わずとも分かったので勘右衛門は細い声で答える。

「その、出茂鹿之助は忍術学園の事務員を前々から志望していて、まあまあ仕事はできるんですけど、このように高慢で性格が悪く嫌味で人望が欠片もない人なので毎度不採用となっています」
「おい!目の前で悪口を言うな!!」

わあわあと騒ぎ立てる出茂とは正反対に、名前は静かに「ふうん」と出茂をじっと見つめた。

「出茂さん…でしたっけ?尾浜くんが言うには、不採用の理由はっきりしているようですけど」
「ぐっ…、しかし、私は小松田くんなんかより仕事ができる!私の方が適性があるはずだ」
「どうでしょう?少なくとも、私はあなたのような人と一緒に仕事はしたくありませんね」

こんなに冷たい言葉を誰かに向ける名前は想像もしていなかったので、勘右衛門は絶句していた。雷蔵も言葉が出ないようだった。名前の覇気に出茂もいくらか圧倒されているようで、よく回る口が震えるばかりで機能していない。

「だ、大体おまえは私より優秀なんだろうな!?どうせ女だからって贔屓されて真面目に仕事もしていないんだろう!」

出茂の言うことなど真実とは異なるのに、それでも名前が一瞬傷ついたような顔をしたのを勘右衛門は見逃さなかった。さすがに放ってはおけないと勘右衛門が一歩前に出ようとした時、

「名前ちゃんにひどいこと言わないでくださーい!!」

キン、と辺りに小松田の高い声が響き渡る。思わずその場にいた皆は全員こめかみに手を当てていたが、小松田はそんなこと構わず出茂に対して詰め寄る。

「ぼくは、出茂鹿之助さんの言う通りヘッポコでいつも迷惑かけてばかりですけど、名前ちゃんはすっごく優秀なんです!ぼくがミスをしたら倍働いて取り戻してくれて、吉野先生からも頼りにされてて、できないぼくにもいつも優しくしてくれて!」

おっとりと喋る小松田が矢継ぎ早にまくし立てる様子に、一同が目を見張る。さすがの出茂もこれには押されたようで、一歩後ずさったところを追い詰めるように小松田はむっと出茂を見上げた。

「だから…ぼくの大切な同僚をこれ以上馬鹿にするのは、許しませんからー!」

いつも出茂に何を言われても怒ることのない小松田が怒ったことに、この場にいる全員が驚いていた。能面のような顔をしていた名前も小松田の横で素直にびっくりしている。
そこまで言われてこれ以上この場にいる気は起きなかったのか、出茂はふんと鼻を鳴らして「私を雇わなかったこと、後悔するからな!」と安っぽい捨て台詞を吐いて去っていった。

出茂が去ったのを見送ると、ふんふんと息巻いていた小松田がしぼんだように肩を落として大きな瞳を潤ませた。

「ひどいです、名前ちゃんが仕事をサボったことなんて一度もないのに…!」
「小松田さん…」
「そりゃあ、名前ちゃんが一緒に仕事をするのは、仕事できないぼくより出茂鹿之助さんの方がいいかもしれないけど……」
「そんなこと、絶対にないです」

名前は強く言い切って、小松田の手を取り真っすぐに見つめた。

「あんな人より、いつも温和で優しくて笑っちゃうくらい人が良い小松田さんと仕事する方がいいです。…いや、小松田さんとがいいです」
「名前ちゃん…!」

小松田は堪えきれないと言ったように顔を伏せて、手の甲で垂れていた色々なものをぐしぐしと拭った。

「ごめんねえ、ぼくもっと頑張るからあ」
「はい、一緒に頑張りましょう」

小松田がべそべそと泣くので、名前は笑いながら懐紙を差し出す。すっかり出る幕を失った勘右衛門は雷蔵と共にしばし二人の同僚愛を眺めた。いつも小松田のやらかし具合には頭も胃も痛めている名前だが、結局のところ小松田が大好きなのだから小松田の人望たるや。ちょっと恐ろしいほどである。
泣いていた小松田が落ち着いたところで、勘右衛門と視線が合った名前は気まずそうに視線を逸らした。うん?と勘右衛門が首を傾げると、名前は苦い表情を浮かべる。

「なんか、ごめんね…年甲斐もなく喧嘩っぱやくて……」
「え?ああ…」
「幻滅した…よね」

確かに驚きはしたが、幻滅なんてこれっぽちも感じていなかった。あれは怒りをあらわにして当然の出来事だ。まあ、多少肝は冷えたが、それは黙っておこう。

「全然。そういう所も好きだな〜と思ったけど」
「ええ…それは嘘でしょう…」
「ほんとほんと。出茂鹿之助に啖呵切る名前さん、かっこよかったよ」
「うう、やめて恥ずかしい……」

先ほどまでの様子はどこへやら、顔を覆って悶える名前に勘右衛門はけらけらと笑った。新たな一面を知ることができて嬉しい、なんて思ってるくらいなのだから大概重症である。この獰猛な恋の獣を飼いならしていけないと考えると、ちょっと眩暈がするほど先が思いやられた。


モラトリアムと青い春 20話


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