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TopMainさよなら、さようなら
夢から覚める感覚は、水中から顔を出した時と似ている。

詰まっていた息を吐き出して、頬に伝う涙を雑に拭う。連日連夜、夢を見せられ続けていよいよ疲れてきた。ベッドに縫い付けられたかのように起きるのが怠い体をなんとか起こして、続けて学校を休むわけにも行かない私はのそのそと支度を始めた。

学校に着いてから、例によって起きていられる元気がなかった私は机に伏せていると、つむじをとんとん叩かれる。こんなふざけたことをするのは一人しかいない。顔を上げると案の定、サボがにこやかに私を見下ろしていた。

「おはよう。もう具合はいいのか?」
「…どうだろ、ねむい」
「それはいつもの事だろ」

サボは軽く笑ってから、隣の席の椅子を引く。この前のこと、やはり口頭でも謝った方がいいんだろう、と思いつつも中々喉の奥から言葉が出てこなくて。結局いつも通りの態度を見せれば、サボは知らぬ顔で軽口を叩いてくれた。本当にできた男だ、と感心すると同時に逆に心が軽くなって、私は体を起こす。

「…サボ、」
「ん?」
「ありがと」

謝罪は言ったってどうしようもない気がしたので、小さく感謝を述べる。するとサボが珍しく目を見開いてしばらく固まるものだから、私もまじまじとその反応を見てしまう。ややあってから私の言葉を飲み込んだらしいサボが、口元を緩めて綻ぶように笑った。

「別にお礼言われるようなことは何もしてねェけどな」
「それもそうかも」
「おい」

一人で家にいると色々と考えこんでしまうため、こうやって学校に来てサボや友達と話していたほうが余計なことを考えずに済む。学校に毎日足を運ぶのはしんどいが、何だかんだで健康的な心身を保つためには大事らしい、という事実を昨日でよく学んだ。
サボの声を聞きながら、その日常感に安心していると「そういえば、」とサボが思い出したように口を開く。

「家に来たんだって?」

悪いことはしてないはずだが、サボの口から聞かれると何故か悪いことをしていたような気がして、無駄に心臓が嫌な音を立てる。さっきまで穏やかな心持ちだったというのに、サボの一言でひっくり返されてしまった。しばらく硬直していたせいで変に間が空いてしまい、その空気感に私は慌てて返事をする。

「えーっと…昨日ずっと寝込んでるのも飽きてちゃって、その…」
「あのな、来るなら連絡しろよ」
「ご、ごめん、会えたらいいなーぐらいだったから」
「で、結局エースと遊んでたわけか」
「遊んでたっていうか…まあ、うん」

確かにあれは遊んでた。だが、人から言われると変な気恥ずかしさがあって、言葉を濁す。サボは呆れたようにため息ついた後、何故かじっと私を見つめた。

「で?」
「…ん?」
「エースと仲良くなれたか?」
「えっ…うん、そこそこ」

仲良く、はなれたんじゃないだろうか。だからと言ってこの短時間で親友並みに仲良し、という程でもないので当たり障りのない回答をする。サボは私の返答にふうんと表情が読めない相槌を打つと、わざとらしく肩を竦めた。

「驚いたぞ、急にエースがお前の話し始めるもんだから」
「私の話……」

自分のあずかり知らぬところで自分の話をされるのは、誰だって落ち着かない気持ちになる。何を話していたんだろう、と静かにそわそわしていると、見透かしたようにサボが言葉を付け足す。

「面白くていいやつだ、って言ってたぞ」
「そ…う、なんだ」

人伝いに自分の評価を聞くのは、こそばゆいものがある。顔に熱が集まってるのがよく分かって、誤魔化すために視線を逸らすと、サボが興味深げに顔を覗き込んでくる。

「…好きにでもなったか?」
「……はっ!?」

ただでさえ熱いのに、サボのとんでもない質問に発火したんじゃないかというくらい体が熱を持つ。多分、傍から見ても私の顔は真っ赤に染まってるだろう。そんな反応をしてしまっている事実が、更に私の心をじりじりと焦がして、その場から走り去ってしまいたい衝動に駆られる。

「か、からかわないでよ…」

どんな言葉を返すのが適切かぐるぐる考え込んだ結果、こぼれた言葉は拙すぎて自分でも呆れた。絶対突っ込まれると覚悟していたが、存外サボは揶揄するわけでもなくどこか乾いた声で「冗談だって」と笑う。

「ま、エースとお前が仲良くなってくれるのは嬉しいが、仲良くなりすぎるのも問題だな」
「…問題?どんな?」

すっと目を細めたサボの視線に、思わずたじろぐ。真剣な蒼の瞳に見つめられて、何か言い難い内容なのだろうかと固唾を飲んだ。しかしサボの瞳に射抜かれたのはほんの一瞬で、すぐに視線を逸らしたサボは少し不貞腐れたような顔をした。

「おれが妬く」
「……やきもち?」

重い内容が来るかと思い身構えていた私は予想外の答えに、きょとんとする。やきもち。なるほど。それならばこの不貞腐れたような表情も納得だ。じわじわと目の前のサボが可愛く思えてきて、私は堪えきれずに吹き出した。

「そんな、エースとったりなんてしないのに、ふふっ」

照れたりとか怒ったりとか、何となく私の脳内で描いていた反応のどれでもなく、サボは困ったように眉を下げて口角を上げた。それは笑ってる、というには少し未完成だった。
サボが何か小さく口を動かしたような気がしたが、朝のチャイムと先生が教室に入ってきた音でかき消されて聞こえなかった。

***

エースと出会ってから数日経った頃、エースとのメッセージのやりとりはそこそこに続いていて、昨日のテレビが面白かっただとか、弟のルフィの話とか、一旦会話が途切れてもまた別の話で盛り上がれてキリがなかった。
エースとやり取りしていると自然と携帯見ながら顔が緩んでいたり、返信のメッセージに一喜一憂したりと、心が忙しくなってむずむずする。こそばゆくて仕方なかったが、別に嫌な感じではなかった。

しかしこれだけ話していても中々遊ぶ約束は取り付けられず、というより言い出せず、次エースと会えるのはいつなんだろうと密かに思っていた。

そんなある日の帰り道、本屋に寄り道をするためにいつもと違う帰路を一人で歩いていると、前に見覚えのある背中が見えて、驚くと同時に心が浮き足立つ。見間違いじゃない事を何度も確認をして、ちらりと見えたその横顔にエースだと確信した。
声をかけて迷惑じゃないだろうかと考えてその場を意味もなくうろうろしたが、声をかけないと後で後悔すると分かっていたので、思い切って踏み出す。

「エース!」
「ん?…って、うお!名前じゃねェか!」

エースは私を見ると弾けるようにに笑った。その笑顔に、声をかける前までの緊張や焦燥感が解けていくのを感じる。やっぱり、声をかけてよかった。

「偶然だね、エースは帰ってる途中?」
「おう!名前も?」
「うん、ちょっと本屋に寄りたくて寄り道しながら帰ろうかと」

自然と並んで歩き出したエースに、胸が騒がしくなり始める。ただ隣を歩いているだけだったが、変に緊張した。
直接話したいことは思ったよりお互いにいっぱいあったようで、メッセージでやりとりした話の後にはこんなことがあって、など話題は尽きない。エースの話にお腹抱えて笑うたびにエースも心底嬉しそうにするので、笑いすぎで出たものではない涙が少し滲んだ。
なぜ少しだけ目頭が熱くなったのかはよく分からなかった。楽しすぎて気分が高揚したせいだろうか。それとも、

「あ、本屋ってここか?」
「うん、ちょっと寄ってもいい?」
「おう」

店内に入ってお目当ての漫画の新刊を手に取ると、隣にいたエースが覗き込んでくる。

「おれもそれ読んでる、面白いよな!」
「ほんと?私この作品好きなの!」
「うちは兄弟みんなで読んでるぞ」

ということはサボも読んでいるのか。それは初耳だ。今度話を振ってみよう、なんて考えていると新刊に巻かれた帯をエースが指さした。

「そうそう、今映画やってんだよな!」
「映画ね!見に行きたいんだけど、まだ見てないんだよね」
「おれも見に行きてェんだよな」

帯に書かれた映画の宣伝を見て二人で固まる。この会話の流れは、とお互いに思ったらしく、そろりと顔を見合わせた。相手から言い出すのを待つのもなんだか嫌だったが、お目当ての言葉は喉につかえて中々出てこない。
男子を遊びに誘うなんてしたことがなかったものだから、どういう表情でどういう声音で言ったらいいのかが全く検討がつかない。誘えない臆病さに自己嫌悪をし始めようとしたとき、エースがニッと笑った。

「一緒に見に行かねェ?」

私が数秒躊躇ったその言葉を、何ともなさげに笑顔で簡単に言えてしまうエースに、嬉しさやら尊敬やら恥ずかしさやら、色んな感情がまぜこぜになって、もうよく分からなかった。

***

待って、行かないで。

どれだけ手を伸ばしても、届かない焦り。ここで彼を見送ってしまったら、きっともう二度と。戻ってもう一度、私を抱きしめてよ。あなたを、手離したくない。

「まって…!」

声が出たことに違和感を感じて、瞼をゆっくりと開ける。

この夢見が悪くて頭がぼんやりする感覚にも慣れたものだ。今まではたまに見る程度だったものが、ここ最近は毎日だ。
前ほど夢に影響されることがなくなったとはいえ、こうも連続で見せられると精神の消耗が凄まじかった。そして今日がここ一番後味が悪いかもしれない。目が覚めてからも消えない焦燥感や喪失感が、やけにリアルだった。

「……おきなきゃ…」

そんなことをしている場合ではないのだ。今日はエースと映画なのだから。夢を振り払うように勢いよくベッドから飛び出て、昨日のうちに用意をしたお気に入りの服に袖を通す。顔を軽く洗って、不器用なりに精いっぱい髪の毛を整える。普段は使わないイヤリングも奥から引っ張り出してきてつけた。
鏡の前でくるりと回って確認をする。自分でもこの気合いの入れようにはちょっと引いたが、気分が浮かれてしまって、ついついあれもこれもと自分を飾り立ててしまうのだ、仕方がない。よし、と意気込んでリビングに下りると、休日をゆっくり過ごしている兄がソファーに腰掛けて読書をしていた。

「おはよ」
「ん、おはよう。……出掛けんのか?」

やけにおめかしをした私を見て、兄が少し驚きながら呟く。

「うん、映画見てくる」

別に普段から誰と遊ぶのかは言わないが、今回ばかりは意識的に言わなかった。だが、兄はそんな私の変な様子も全部見透かしたように「へェ」と相槌を打った。
何か明確なことを言われたわけではなかったが、兄のそれは変な含みを持っていてドキリとする。何より、読書をしていた兄が顔を上げている事がひどく心臓に悪い。普段なら視線は本のまま相槌を打つのに。

「いってくるね」
「待て名前、夕飯は?」
「あ、家で食べる」
「分かった。帰り時間は分かったら連絡しろよい」
「うん、」
「いってらっしゃい」

私は逃げるようにして家を出た。絶対気づかれている。何をとは言わないが、私が男子と出掛けるってバレてる。だからと言って変に突っ込んでくるような干渉的な兄ではないし、私が何かを言わない限りどうこうする訳では無いと思うが、身内にそれがバレバレだというのは普通に恥ずかしかった。

家を出る時点でなぜこんな半泣きにならなければならないのだろう。恥ずかしさで変に高揚したテンションのまま、私は待ち合わせ場所へと早歩きで向かった。

元々早く出たというのに、変に早歩きもしてしまったせいで約束の時間よりかなり早く着いてしまいそうだ。今日の格好といい、本当に張り切りすぎじゃないだろうか。自分に赤面しながら待ち合わせ場所につくと、そこにはエースの姿があって思わず跳ね上がった。
まさか私よりエースの方が早いとは。慌てて駆け寄ると、私を見つけたエースがこれまた全力の笑顔を見せるので、あまりの可愛さに胸の奥がきゅんとした。

「エース、は、早いね」
「あー…なんか早く着いちまった!」
「びっくりしたよ…」

お互いに顔を見合わせて笑ってから歩き出す。映画館は駅からそう遠くない。

「映画楽しみだな!」
「そうだね」

純粋にうきうきしてる様子のエースを、横目でちらりと見やる。エースの私服を見るのは初めてだ。特別着飾ってるわけでも、特別ダサいわけでもなくて、さっぱりした男子らしい格好だった。やはり制服とは違って、プライベートの時間を共有してる感覚に、やたら意識してしまう。

「そうそう、サボに名前と映画行くって言ったらすげェびっくりしてた」
「言ったの!?」
「言ったらまずかったか!?」

エースが私以上に驚いた反応をするものだから思わず言葉に詰まる。私は異性の二人で出かけるなんて揶揄の対象にしかならないと思い誰にも言っていないが、兄弟仲のいいエースはサボに言うことぐらい普通のことなのかもしれない。
二人で出かけるって言うの恥ずしくないの、と素直な感想が湧き上がったが、男女間を意識しているのがバレバレのようで本人には言いたくはなかった。

「ま、まずくはないよ、うん。でもそうだね…サボは驚くだろうね」
「おれたちが仲良くなったのつい最近だしな」
「うーん、それにサボ的には自分のクラスメイトと兄弟が仲良くなるのって、変な感じかも」
「確かに」

なんて話をしていたらあっという間に映画館についていた。
私は映画では飲み物しか買わない派だが、エースが当然のごとく瞳をキラキラさせていたので、ポップコーンを買った。劇場内に入って、席につくとちょうど予告が流れ始める。まだ照明も暗くなっていなかったので、流れる予告について時折エースと感想を言い合った。

照明が落ちて映画が始まってから自然と会話が途絶えて、スクリーンを見つめた。始まってから少しの間は隣が気になったり、直前までしてた会話について思い返したりして中々映画に集中できなかったが、映画が盛り上がり始めてからはいつの間にか没頭していた

***

映画が終わって、席を立ってエースと顔を見合わせる。劇場内では思いきり感想を言えずにお互いに我慢をして、外にでた瞬間エースがバッと勢いよく振り返る。

「面白かったな!」
「うん!言いたいことありすぎてもう若干忘れてる!」
「おれも!」
「とりあえずどっかでお昼食べよっか」
「だな。腹減った!」
「だろうと思った」

私の予想は当たっていたようで、お腹を空かせたエースのために近くのチェーン店に入った。あれもこれもと頼むエースにもはや慣れつつある。私はポップコーンと飲み物でそこそこお腹が満たされていたので、軽食を頼んだ。
オーダーしてから、洪水のように溢れ出る映画の感想。とはいえ、エースは大分頭のネジがゆるいため、大した感想は出てこず、私が述べた感想に対してエースが全力の同意をするという繰り返しだった。

「ああ〜面白かったな〜。見てよかった!」
「な!サボとルフィにも見ろって言わねェと!」
「そうだよ!絶対見てもらわないと」

白熱していると頼んだ品々が運ばれてきて、感想もそこそこに料理を食べ始める。私はまだ映画の熱が冷めきらなかったが、エースはすっかり目の前のご飯に夢中だった。前も思ったが、その食べっぷりは見ていて清々しい。

「エースは本当によく食べるね。食べるの好き?」
「おう、好きだ!」

何となくした質問であった、何気なく返された一言だった。だが、その一言は一瞬にして私の脳裏に別の風景をフラッシュバックさせた。

潮の香り。太陽が照りつけて熱を持つ肌と、響く声。

『好きだ』

誰が?誰を?
彼の声が、する。

「……名前?」

エースの声で霞がかっていた意識が晴れる。無意識に止めていた息をはぁっと短く吐くと、目の前のエースの顔がやけに鮮明に見えた。心配したエースにもう一度私の名前を呼ばれて、やっと深呼吸ができた私は強張っていた肩をゆっくりと下ろした。

「ぁ……ごめん、ちょっと、ぼーっとしてた」
「大丈夫か?具合悪ィのか?」
「ううん、平気、大丈夫」

これ以上心配させまいと笑顔を浮かべて、止まっていた手元を動かしご飯を口に運ぶ。だが味はご飯の味はあまりせず、ただ噛んでるだけの作業のようだった。

食事を済ませる頃には、気分も落ち着いていたので何事も無かったかのように振舞えた。店を出てから、その後の予定は決めていなかったが、様子が変だった私を見かねてか、エースが近くにあったゲームセンターを指して遊んで行こうと誘ってくれた。断る理由もない私は誘われるがまま、あまり足を踏み入れないゲームセンターへと入った。

ゲームセンターの中は様々なゲーム音で騒がしく、お互いの声を聞き取ろうとして少し近くで話すエースに鼓動が早くなる。

「何して遊ぶ?」
「んー、私はよくわからないから何でもいいよ。エースの好きなので!」

何でも、と答えてからはエースに引っ張られるがまま、レースしたりゾンビを倒したりクレーンゲームをしたり、とにかく遊び倒した。エースと一緒に盛り上がっている時間は、先程襲われた不安感を拭ってくれて、ほっとした。

閉鎖された空間では時間の流れをあまり意識せず、夢中になって遊んでいるといつの間にか夕方になっていた。
散々遊んで堪能しつくしてからゲームセンターを出ると、夕焼けで赤く染まった風景とゲームセンターの騒音に慣れた耳がいやに静寂を拾って、どことなく寂しい気分になる。

「そろそろ帰るか?」
「あ…うん、そうだね」

夕飯は家で食べると言った以上、もう帰らなければならない時間だ。私が頷くと、エースは先程白熱したゲームの話を振ってきながら家の方向へと歩みを進める。ここでさよならではなく、途中までは帰り道が一緒なのが唯一の救いだ。

「またリベンジしたいよなアレ!」
「うん、あそこで負けたの悔しかった」
「だよな〜、次やったら行ける気がすんだよ」

話題が尽きないことに逆に焦りを感じる。まだまだ話したいことはいっぱいあるのに、それを話すまでの距離が足りない。そんなことを思えば思うほど、あっという間にエースと別れるであろう道の分岐点が見えてきて、歩みを遅くしてしまう。
これもあれもと話そうとして脳内に積み上がった話題を全部捨ててしまうのはあまりにも惜しくて、結局分岐点についてもしばらくその場で話し込んでしまった。

「……そろそろ時間やばいよな」
「……そう、だね」

お互いがお互いを引き止めている状態で、いよいよ薄暗くなってきた辺りを見渡して観念し始める。今日はもう帰らなくては。

「ありがとね。楽しかった」
「おれの方こそ、付き合ってくれてありがとな」
「また遊ぼうね、連絡するよ」
「おう、今度はゲーセンリベンジだな」
「うん、リベンジしなきゃ気が済まない!」

沈黙が落ちたところで「じゃあまた今度な!」とエースが私に手を振りながら一歩踏み出す。そうして、背中を向けた時にまたあの感覚に襲われた。

潮の匂いが私を包み込んで、ここではない風景が広がる。

『悪い、』

泣きそうな彼の声、彼の誇りが彫られた背中、手を伸ばしても決して歩みは止めてくれなくて。

待って、行かないで。
お願い、行ってしまったら、きっと。

まって、まって、まって。

「行かないで…!」

気づいたらそう口にしていた。私の叫びが耳に届いたらしいエースが驚いた表情で振り返る。

「ど、どうした?」

もう既に少し遠くまで歩き出していたエースが走って戻ってきてくれる。私はといえば、まだ現実と夢の境目が良くわかっておらず、荒い息のまま戻ってきてくれたエースの顔を見あげた。

違う違う違う。
彼はエースじゃないのに。
エースはいなくなったりなんてしない。
違うのに!

心配そうにしてるエースに私は早口で「ごめん、大丈夫、また今度」と告げてその場を走り去った。

あの場にいたら、泣き出してしまいそうだった。家に帰った私はベッドで枕に顔を埋めて泣いた。しかし泣けば泣くほど彼の声が私の中に響いて頭がおかしくなりそうで、彼から与えられた幸福感、高揚感、喪失感、全てが綯交ぜになって息ができない。

「…………助けて、エース…」

そう呟いたのは、殆ど無意識だった。
やがて泣きつかれたのか、私はそのまま眠った。潮の香りと、波の音が、いつまで経っても離れてくれなかった。


さよなら、さようなら 3話


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