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TopMain恋情ブレンド
珍しくクザンさんが仕事をサボらずに真面目に進めて、予定より早めに終わりそうだなと息をついた夕暮れ。労いの意を込めてコーヒーを淹れなおしてクザンさんに差し出すと、書類に集中していたクザンさんの視線がぱっと私に向く。

「ん、ありがと名前ちゃん」
「いえ、お疲れさまです。今日は定時に帰れそうですね」

時計と残りの書類を一瞥したクザンさんは、大きな体を伸ばしてから深く息を吐きだす。凝ったであろう首を鳴らしながら、疲労をにじませた声がクザンさんから漏れた。

「いや〜、今日は頑張ったわおれ」
「はい、すごく頑張りました」
「お、珍しく名前ちゃんが褒めてくれるじゃないの」
「ちゃんと仕事をこなしてるんだから、そりゃあ褒めますよ」

休憩モードに入ったのか、力を抜いて背凭れに体重を預けたクザンさんがコーヒーをすすりながら私に体を向ける。

「じゃあ頑張ったついでに一つ提案」
「提案?」
「散歩行かねェ?」
「散歩、ですか」

クザンさんが一人で散歩に行くことはよくあるが、私を誘うのは珍しかった。時間を持て余すくらい調子よく進めてくれたクザンさんの提案を、断る理由もなかった私は素直に頷く。

「いいですよ」
「んじゃ行こうか」

そうと決まれば、というようにクザンさんが素早く席を立つので、私は慌てて掛けていた自分のコートを引っ掴んで執務室を出る。どこを散歩するのかまったく分からなかったが、聞いてもあまり意味はない気がして特に問うようなことはしなかった。

とりとめのない会話をしながら歩いていると、クザンさんが足を進めた先は訓練によく使われる中庭だった。外に出ると、夕方の涼やかな風が耳の後ろを吹き抜けていく。一日室内で仕事をした後に外に出ると、こうも開放感に満ちるのは何故なのだろう。

「風気持ちいですね」
「そうねェ。ちょっと座るか」

中庭の端に設置されているベンチにクザンさんとそろって腰を掛ける。中庭では訓練を終えた海兵たちが、後片付けをしている姿がちらほら見えた。
中庭全体が夕陽に赤く照らし出され、段々と冷気をはらんでいく空気に今日という日が終わりに近づいているのを肌で感じながら、先ほど途中まで話していた雑談の内容が思い出せずに首をひねる。

「何のお話していましたっけ」
「ガープさんとこの新人の話」
「ああ、そうだった。コビー君とヘルメッポ君っていうんですけどね、この前ガープさんのところに行った時にちょうど傍にいて少しお話したんですよ」
「うん」
「二人が海兵になった経緯とか、ガープさんに拾われた時の話とか、中々聞きごたえがあって面白くて」

表情をころころ変えながら話してくれた二人の青年を思い出してくすくす笑ってると、クザンさんの相槌が止んでこちらをじっと見つめていることに気が付く。何か思うところがあったのだろうかと私も見つめ返すと、クザンさんがおもむろに口を開いた。

「…名前ちゃんはさァ、なんで海軍の事務になったの?」
「え?給料がいいからです」

即答すると、クザンさんが吹き出す。くつくつと一頻り笑うと、私に同意するように頷いた。

「うんうん、そうね、確かに事務の給料はそこそこいいよね」
「女だと中々安定して給料が良いところってなくて。あとは父も同じ仕事だったので、給料いいなら私もなろうかなーと」
「へェ、お父さんそうだったんだ」
「父はもう退職してますけどね」

海軍の事務だった父を持つ私はマリンフォードで生まれ育った。大人になってから、今更マリンフォードの外に出る気にもならず、だからといって何か打ち込める夢も仕事もなかった私は、父と同じ道を歩むことにした。
立派な志があって海軍に入ったわけでもない私は、少しあの青年二人が眩しかった。

「がっかりしましたか?」
「なんで?」
「海軍に入った理由がこんなので」
「海軍に入る理由なんて千差万別でしょ。非戦闘員なら尚更。おれなんてだらけきった正義を掲げてる男だしねェ」

クザンさんはそう言うが、私にとってクザンさんが掲げる正義は確かに正義だった。私はそんなクザンさんを支えたいからこそ、ここにいる。

事務をやり始めた当初はただ毎日仕事をこなして意義なんて感じもしなかったが、クザンさんの傍で仕事をするようになって、この人を支えたいという気持ちが明確に芽生えた。私にとって、クザンさんの存在こそが私が仕事をする意義だ。
そんな本音を口にできるわけもない私は「それもそうですね」と思ってもいない言葉を返す。

「事務って、怖くない仕事だと思ってたんです。前線に立つ海兵と違って、本部にいられて、危険もなくて、痛い思いもしなくてよくて」
「うん」
「…でも、ちょっと違ってたみたいです。今は、本部で事務仕事をしてるだけでも、怖いです」
「…どうして?」
「……クザンさんが怪我して帰ってきたらどうしようって思うから、」

小さく呟くと、クザンさんが目を丸くして私を見つめる。

「いつも危険な場所に赴いて、戦いの最前線に身を置いて、クザンさん、帰ってきても全然そんな感じさせないから時々忘れそうになるけど、やっぱりそう考えるとすごく心配で、怖くて。怪我して帰ってきたり、もしものことがあったらどうしようって」

前々から私の胸にくすぶっていた不安をひとつ口にすれば、ぼろぼろとそれは私の口から零れた。

クザンさんの秘書になってから、クザンさんが遠征や任務に赴くたびに押しつぶされそうな不安と恐怖に襲われる。クザンさんは強いから大丈夫と何度言い聞かせても、もしもの不安は尽きない。
いつも通り帰ってきて、何事もなかったかのようにだらけるクザンさんを見ては、泣きそうなくらい安堵していた。

「待ってるのも怖いんだって、初めて知りました」

クザンさんと出会ってから、抱くようになった感情。ただの事務の仕事を続けていたら、きっとこんな思いをすることもなかった。私のために無傷で帰ってきてくれ、なんておこがましいことを言うつもりはなかったが、心配して待っている存在があることを知って欲しかった。

「どうか、これからも……ちゃんと無事に帰ってきてください」

黙って聞いていたクザンさんがふっと柔らかく笑って私の頭を撫でる。いつもの揶揄るような声のトーンではなく、低く優しい声でクザンさんは私に囁いた。

「…名前ちゃんがコーヒー淹れて待っててくれるんなら、おれ頑張って帰ってくるわ」

その言葉だけで、不安が嘘みたいに霧散していく。クザンさんがそう言ってくれるなら、きっと無事に帰ってきてくれるのだろう、と思えてしまうのがなんだか不思議だ。頭を撫でてくれるクザンさんの温かな手に穏やかな心地になったが、一つ気になることがあった。

「……私の淹れたコーヒーって不味くありません?」
「…自覚あったの?」

もうすっかり夕陽が落ちて薄暗くなった中庭で、やはり美味しいコーヒーを淹れる練習をしなければ、と決意した私だった。

***

一人でいる執務室は静寂がやけに際立つ。自分がペンを走らせる音と紙をめくる音しか聞こえない空間は、何度味わっても落ち着かなかった。
はやく、はやくと祈るような気持ちで仕事を進めていると、机の上の電伝虫がプルプルと鳴き出す。待ち望みすぎたせいでやっときた着信に一瞬固まったが、ハッとして慌てて受話器をとる。

「はい、こちらクザンの執務室です」
『ん、おつかれ名前ちゃん』
「クザンさん…お疲れ様です」

聞こえてきた声に、私はほっと安堵の息を吐いた。

『今終わって帰還中〜』
「分かりました、今回もご苦労様です」
『いやァ、ほんとご苦労だった。というか、絶対おれいらなかったと思うんだよねェ」
「はいはい、愚痴は帰ってからいくらでも聞きますから」

クザンさんの声音を聞いていれば何事もなかったことくらい分かったが、それでも不安は晴れきらなくておずおずと名前を呼ぶ。

「…クザンさん」
『ん?』
「お怪我は、ないですよね」

少し震えた声音で問うと、向こう側でクザンさんが柔らかく笑う。

『大丈夫よ、どこも怪我なんてしてねェから』
「…よかったです。お帰り、お待ちしてます」

安心した私は早速通話を切ろうとしたが、クザンさんの慌てたような声が私を引き留める。

『あ〜今日はそっち着くの遅くなるし、待たなくていいから。先帰っててちょうだい』
「分かりました、じゃあ残ってる仕事があるので作業しながらちょっとだけ待ってます。もし、待ちきれなくなったら帰りますね」
『……分かった』

どこか腑に落ちていない返事だったが、私は大して気にも留めず「気をつけて帰ってきてください」と言ってから通話を切った。本当のこと言えば、残ってる仕事なんてなかったが、ああでも言わないとクザンさんは待つのを許してくれないだろう。
さて何をして待とう、と辺りを見渡してから、私はやる必要もない部屋の掃除をし始めるのだった。

部屋の掃除も明日明後日の分の仕事もほとんどやり終えて、どうしたものかと思い始めた頃、時刻はとっくに夕方を過ぎて月が高く上がっていた。
そんなに早く帰ってくるわけがない、と分かっていたはいたものの、手持ち無沙汰で淹れたコーヒーもすっかり冷え切っている。それでも帰る気にはなれなくて、部屋の前を足音が通り過ぎるたびに落胆を繰り返していた。

するとカツカツと随分と早歩きな足音が廊下に響いてきて、誰が何をそんなに急いでいるのだろう、と首を傾げる。やがてその足音は部屋の前で止まり、執務室のドアが勢いよく開かれるものだから私はソファの上でびくりと跳ね上がった。

「やっぱり…、急いで帰ってきた正解だったわ」
「く、クザンさん……おかえり、なさい…」
「はいただいま。…って、そうじゃないでしょ」

クザンさんは私の頭を痛くもない力加減でぺちりと叩くと、珍しく顔を顰めて私を厳しく見つめる。

「先帰ってなさいって言ったでしょうが」
「すみません…どうしても、待ってたくて……」

クザンさんは深いため息をつくと、部屋の明かりをつけてから私の目の前にしゃがんで目線を合わせてくる。

「まったく…、明かりぐらいつけなさいって」
「あ、つけるの忘れてました…」
「どんだけよ…」

気分が暗かったせいか、辺りが暗くてもまあいいか程度でぼんやりとしていたせいで明かりをつけるという概念すらすっぽ抜けていた。ここまでくると怒るというより呆れていたクザンさんだったが「…まァ、いいわ」と呟いて、机の上に積みあがった私が無駄に終えた仕事の束を見やる。

「名前ちゃんやらなきゃいけない仕事は別にもうないんでしょ?暗いし送ってくから」
「え、いいです」
「なに?」
「うっ…、えと、よろしくお願いします…」

いつもとまるで立場が逆転して、私はクザンさんの威圧に言い返せずしょんぼりと頷いた。すると帰り支度をしていたクザンさんが、テーブルに置かれたコーヒーに気づいたらしく、マグカップへと手を伸ばす。

「く、クザンさん、それもう冷えちゃってますよ」
「別にいい」

私の制止も聞かずにクザンさんはそれを飲み干すと、マグカップを置いてから私の頭をぽんぽんと撫でた。

「待っててくれてありがとな」

その一言に、ようやくクザンさんが帰ってきたんだという実感が湧いてきて、私は思わず目の前のクザンさんの腰に抱き着いた。

「うおっっ、名前ちゃん!?」
「……よかった…無事に帰ってきてくれて…っ」

ぎゅうとしがみつく腕に力を込めれば感じられるクザンさんの体温に、鼻の奥がつんとして目頭がじりじりと焦げるように熱を持つ。ここで泣くのはさすがに、と頭の片隅で思ったが、クザンさんの匂いに包まれては、滲む涙を止めることが出来なかった。しがみついて離そうとしない私を見かねたクザンさんの手が私の背中に回る。

「…ただいま、名前ちゃん」

あやす様に私の背を撫でながら、体を丸めたクザンさんが私の耳元でそっと呟く。私のおかえりなさい、という声はクザンさんの服に埋もれて自分でもよく聞こえなかった。


恋情ブレンド 4話


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