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TopMainモラトリアムと青い春
忙しい日々と言うのは余計なことを考えなくて済むから楽だった。朝起きて支度を整えながら一日のスケジュールを頭の中で組み立て、小松田さんに振る仕事を考え、おばちゃんのおいしい朝食を食べてから事務室に顔を出す。失敗しても些事で済ませられる程度の仕事を小松田さんに振って、自身も仕事に取り掛かる。

私の方が超が付くほどの新人なのだが、今では吉野先生にもらった仕事を私が小松田さんに振り分けるのが当たり前になっている。それを微塵も不満に思ってなさげな小松田さんは、屈託のない笑顔で承諾するのだ。大物である。
吉野先生は最近胃痛が和らいだらしい。仕事し始めの頃は胃痛が胃痛がと嘆いていた吉野先生におすすめの胃薬を紹介したこともあったが、今ではあまり出番がないそうな。
私も胃薬に最近世話になっていないことを告げると、あとは土井先生だけですねえ、なんて笑い話になった。「ひとえに、苗字さんのおかげです」と吉野先生は感極まったように目頭を押さえていた。

確かな充実感に満ちていた。自分の力で仕事をこなせて、周りの人にも恵まれて。ずっと私は力を試せる場所が、自身が成長していけるような場所が欲しかったのだと、充実感を手に入れて初めて気が付いた。

仕事がひと段落ついたところでふぅと一息つくと、吉野先生が見計らったように顔を上げる。

「苗字さん、きりの良いところでしたらお昼いただいてきてください」
「あ、はい。吉野先生は…」
「私ももう少しで片付きますから大丈夫ですよ」
「分かりました。じゃあ、いってきます」
「いってらっしゃい」

今日のランチはなんだろうと思いを馳せたら、それだけでお腹がすいてきた。事務室を出て足取り軽く食堂へ向かっていると、廊下に見慣れたような、久しいような背中を発見する。声をかけていいものかと躊躇っていると、私の気配に気が付いた叔父さんが振り向く。

「おお、名前。これから昼餉か」
「うん、そう。叔父さんも?」
「いや、私は今済ませてきたところだ」

思わず肩を落とした。一緒に昼食はどうやら無理のようだ。話したいことはたくさんあったが、学園内では叔父さんも仕事中だ。これ以上引き止めるのはあまりよろしくないと思い、切り上げようとした時、叔父さんがにかりと笑った。

「もう仕事には慣れたか」
「え!う…うん、大分慣れた、かも」
「そうかそうか」

叔父さんは満足そうに頷くと、わしゃわしゃと私の頭を大きな手で掻き撫でる。僅かに湧き上がる羞恥に、目線を下に落とす。ついこの間まで打ちひしがれていたことを知っている叔父さんに、今の姿を見られるのはどこか気恥ずかしかった。

「学園生活で困ったことはないか」
「大丈夫。皆さん優しいし」
「そういえば吉野先生が名前のことを褒めていたぞ。仕事も小松田くんのフォローもよくやってくれていると」
「あ…そ、そうなんだ…」

吉野先生は普段からよく褒めてくれるが、まさか叔父さんにまで話が及んでいたとは。そんな大層な人間でもないのに、手放しで褒められるというのは慣れない。仕事ができる吉野先生のことだから世辞ではないのだろう、余計にどう受け取ったらいいか分からなかった。

「連れ出して、正解だったみたいだな」
「え?」
「今の名前は活き活きとしている」

キリキリと痛む胃を抑えて蹲っていた日々は今でも昨日のように思い出せる。あの時、叔父さんが母上や父上を説得して家から連れ出してくれなければ、私はまたお見合いをして自己嫌悪を繰り返していただろう。活路を与えてくれた叔父さんには、改めて感謝の念しかない。

「これからどうするかは名前が決めるといい。段々と気持ちも落ち着いて視野も広がってくるだろう。今は目の前の仕事に励むことだ」
「はい。頑張ります」

まだ私の考える私の未来は不確かではっきりとしたものは何も思いついてはいないが、叔父さんの激励は私をこれ以上ないほどに安心させる。今は、叔父さんの言う通り仕事に励もう。認めて、求めてくれる人がいるのだから。

叔父さんと僅かだったが話ができてよかった。胸に占める安堵感を握りしめながら、食堂へと足を踏み入れる。今日のご飯はより美味しく感じそうな予感がした。

今日のメニューの前で一頻り悩んだ末にBランチに決めて、おばちゃんに注文をする。おばちゃんはみんなの好きな食べ物をある程度は把握しているようで、私も最近は覚えられてしまった。Bランチを頼むと「名前ちゃんは今日はBだと思ったわ」とにこにこされてしまった。おばちゃんは本当にすごい。

Bランチを受け取って適当な空席を探すと、群青色の制服に身を包んだ独特な髪型をしている青年、尾浜くんとばっちり目が合ってしまった。にこり、と微笑まれたかと思うと「よかったらここの席どうぞー」と尾浜くんの向かいの席を勧められてしまう。
比較的ピークの時間をずらして来ることが多い私は、一人で食べるのが殆どで、生徒と食事をするのは未だ慣れない。おずおずと歩みを進めて尾浜くんの席まで行くと、長い睫毛を瞬かせる美青年がこちらを不思議そうに見つめてくるものだから余計に気まずかった。

「ええっと、邪魔じゃないかな」
「まさか。苗字さんさえ嫌じゃなければ一緒に食べましょうよ」

嫌ではない。嫌ではないのだが、気まずい。元々話し上手ではないし、まだ顔も特徴も覚えきれていない生徒たちと会話を続けるのは中々に難しい。尾浜くんの隣に座る美青年の名前も思いだせない。火薬委員の五年生なことは分かるのだが。

「兵助も別に構わないよね。あ、知ってる?事務員の苗字さん」
「いや知ってはいるけど…いつの間に仲良くなったんだ?」
「先日ちょっとね」

そうだ兵助、久々知兵助くんだ。思いだせた。とりあえず名を呼ぶときに困ることはないと胸を撫でおろしていると、尾浜君に「ねー」と同意を求められて慌てて頷く。

「この前、尾浜くんに道案内してもらったの」
「ああ、そうだったんですか。…あ、おれ火薬委員会委員長代理、勘右衛門と同じ五年い組の久々知兵助です。よろしくお願いします」
「こ、こちらこそ!えっと、事務員の苗字名前です。よろしくね」

名前に限らず委員会やクラスまで名乗ってくれる忍たまたちの礼儀正しさに、何度助けられたことか。例に漏れず名乗ってくれた久々知くんのおかげで、名前を間違う案件は完全に回避できそうだ。

「ごめんね、突然お邪魔しちゃって」
「いえ。苗字さんとはお話しする機会がまだあまりなかったので嬉しいです」

久々知くんの絵に描いたような優等生の返しに、私は素直に嬉しくなってしまう。久々知くんは真面目で丁寧に話してくれる子のようだ。礼を失せずフレンドリーに話してくれる尾浜くんとはまた違ったタイプ。お互い笑顔を浮かべながら距離感を計っていると、見かねた尾浜くんが助け舟を出してくれる。

「挨拶それくらいにしないと冷めちゃいますよ」
「あ、そうだね。いただきます」

無意識に入っていた体の力を解いて、手を合わせてからようやく味噌汁に口をつける。温かい味噌汁が喉を滑り落ちていく感覚にほっと息をついていると、尾浜くんからの視線に気が付く。

「…何かいいことありました?」
「え?」
「苗字さん、ご機嫌に見える」

この前も思ったが尾浜くんは異様に察しがいい。人のことをよく見ている性質なのだろうとは思うが、それにしても心臓が変な音を立てるくらい鋭く見抜いてくる。

「ご、ご機嫌に見える?」
「うん見える」
「見えるのか?」
「見えるよ。兵助はニブすぎ」

尾浜くんが鋭すぎなだけだと思うが、もしかしたら忍者であればこれくらい察しが良くなければいけないのかもしれない。ご機嫌な自覚はなかったのだが、そう見えるのであれば理由は分かり切っている。先ほどの叔父さんとの会話を思いだすと、自然と心が浮足立った。

「実は…さっきね、仕事ぶりを褒めてもらえて。叔父さ…木下先生にも頑張れって言われたから嬉しくて」
「木下先生が…」
「やっぱり自分の姪っ子には甘いのかな」

やや呆気にとられている二人に、私の思う叔父さんの教師像と二人から見た木下先生のイメージが、かけ離れていることを察知する。残念ながらまだ授業をしているところは見たことがないのだ。

「でも苗字さんが仕事できるのは事実だしね」
「そうなのか?」
「小松田さんのミス、減ったと思わない?」
「…ああ、確かに」

それで気付ける久々知くんも、やはり細かいところまでよく見ている子なのだろう。自分よりも年下の二人に持ち上げられてしまっている状況に、落ち着かない気持ちになる。全力で否定するのも変な気がして、嫌味にならないような返答を脳内で組み立てた。

「はは、ありがとう。ちょっと恥ずかしいけど…でもやっぱり自分の能力を認められるって嬉しいよね」

そう言うと、二人はぱちぱちと目を瞬かせた。変なこと言っただろうか、と一瞬焦ったが特に思い当たる発言はない。二人の何かを察したような様子に首を傾げていると、ややあって久々知くんが口を開く。

「…今まではそうじゃなかったんですか?」
「ちょ、兵助」

さっき久々知くんのことをニブいとかつい先程誰かが言っていた気がするが、そんなこと全くないではないか。私が十四のときはここまで察しが良くなかった。
あまりにも図星過ぎる指摘に私がどう答えようか悩んでいると、尾浜くんが咎めるように久々知くんの名前を呼ぶ。久々知くんも勢いで聞いてしまっただけのようで、すぐに申し訳なさそうに眉を下げた。

「すみません、不躾でした」
「あ、ううん!大丈夫。…そう、なんだよね、あんまりそういう環境じゃなかったというか…まあ、その環境から抜け出そうと努力してなかった私が結局悪いんだけど…」

私の家の事情を全て話したところで興味はないだろうし、変に愚痴っぽくなってしまいそうで必死に言葉を選んだ。しかし物事を整理しながら口にしていると自分の情けなさが明るみなり、嫌が応でも落ち込んでいく声音。変に、気まずい空気を作ってしまった。

「……苗字さんって、自己肯定感低いよね」
「うっ…」

沈黙を破った尾浜くんの指摘はまたもや痛いところを的確に突いてくるもので、思わず呻く。あまり気づいてはいなかったが、他人から言われるとやけに納得してしまった。

「高い人の方がそんなにいないんじゃないか」
「滝夜叉丸とか」
「滝夜叉丸みたいのが何人もいるわけじゃない」
「でもおれもどっちかって言えば高い方だし」
「勘右衛門は自己評価を正しくしてるだけだろ」
「もー、兵助はすぐおれを甘やかす」

やけにきっぱりと言い切る久々知くんに、尾浜くんは困ったように笑った。しかし久々知くんは、自分の主張を取り下げるつもりはなさげな表情だ。自分よりお互いのことをよく分かっている関係を唐突に目の前で繰り広げられてしまって、微笑ましさに口元が緩む。

「ふふ、仲いいね」
「ええ?そうですか?まあ五年も一緒だしー…ってそうじゃなくて」
「うん?」

尾浜くんの丸い瞳が私を捉えた。

「自分に厳しいの、おれは偉いなって思うけど、厳しすぎるのも疲れちゃいますよ。甘やかせるところは甘やかしてかないと!」
「う、ん…そうだね、そうしてみる」

諭すような、宥めるような口調に心を解される。年下の男の子にメンタルケアまでされてしまった。しかし、不思議と尾浜くんの言葉はすとんと嫌味なく私に落ちてくる。
しみじみと尾浜くんの言葉に浸っていると、久々知くんが「あ、」と何かに気づいたような声を上げた。

「今日、実技のテストじゃなかったか?」
「あー!!そうだった!」

珍しく大きな声を出した尾浜くんは残り少ない昼食をかきこんで、久々知くんと共に席を立つ。

「じゃあおれたち行きますねー!昼食付き合ってくれてありがとうございました」
「ありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ。ありがとう」

お礼を言いたいのはむしろこちらだと言うのに、律儀に頭を下げる二人。食器を下げて食堂を出る間際、ひらひらと尾浜くんに手を振られたので振り返しておいた。姿が見えなくなってから「木下先生に殺される!」という声が微かに聞こえた気がしたが、気の所為だろうか。

今度、暇なときに邪魔にならない程度に叔父さんの授業は覗いてみることにしよう。今は、彼らが授業に間に合うことを祈った。


モラトリアムと青い春 3話


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