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TopMainモラトリアムと青い春
遠くから、小さな悲鳴が聞こえた気がした。
一瞬空耳かと思ったが、考えれば考えるほどそうとは考えにくく、勘右衛門は踵を返して悲鳴の方角へと走った。聞こえた声は、思えば少し高かったような。それは声変わり前の少年のものではなく、恐らく女性の…。

「(…女性?)」

勘右衛門の中で一つの仮説が成り立ってしまい、現実味を帯びたそれに勘右衛門は慌てて周囲を見渡した。耳を澄ましながら、それらしきものを探していると、ぽっかりと地面に空いた穴が目に入る。
すぐさま駆け寄って中を覗き込むと、案の定暗い穴の中に見覚えのある姿がうずくまっていた。

「苗字さん!」
「え…、あ、尾浜くん!」

顔を上げた名前が勘右衛門を見てほっとしたように息をつく。

「大丈夫ですか…!怪我してません?」
「うん、大丈夫。ちょっと打ったくらいだよ」
「よかった。今、縄梯子持ってくるんでちょっと待っててくださいね!」

用具倉庫まで全速力で向かい縄梯子をかっさらって戻る。勘右衛門が声を掛けながら穴に縄梯子を垂らすと、名前の細い腕がそれを掴んだ。

「慣れないと怖いと思うんですけど、ゆっくりで大丈夫なので」
「わかった」

若干不安げな声が返ってきて、勘右衛門も思わずそわっとしてしまう。穴もさして深くはないので、大きな怪我こそしていないだろうが、足を捻ったりしているんじゃないだろうか。はらはらしながら縄梯子を登る名前を見守っていると、案の定足を掛けたときに名前の顔が僅かに歪んだ。

「ここまで来たらおれが引き上げますから」
「う、うん」

腕を伸ばしながらよろよろと上がってくる名前を待機していると、勘右衛門の手が届く範囲に入る。勘右衛門はぐっと体を伸ばして名前の体を支えると、一気に穴から引き上げた。

「っはぁー…!…あ、ありがとう尾浜くん…」
「災難でしたね、落とし穴にはまるなんて」
「本当に…、急に視界がひっくり返ったから、び…っくりした…」

深く息を吐いて、緊張の糸が解けた名前が脱力する。勘右衛門は他に怪我がないか目視で確認すると、軽く名前の肩の土を払ってから背を差し出した。

「乗ってください。保健室まで運ぶので」
「えっ!いや、だ、大丈夫だよ…!大した怪我もしてないし」
「うそ。足捻ってるでしょ」
「し、自然治癒でも…」
「その怪我放っておいたら後で保健委員にすっごく怒られますよ」
「…はい」

やがて観念したのか名前はそろりと勘右衛門の肩を掴んで背に体を預けた。しっかりと名前の体を抱えてから立ち上がって、急ぎ足で保健室へと向かう。後ろから猛烈な申し訳なさと居た堪れなさに包まれた空気が伝わってきたが、勘右衛門は素知らぬふりをした。


保健室の戸をあけると、独特な薬草の匂いが鼻をつく。戸の開く音に、ぱっと顔を上げた保健委員会のメンバーと目が合って、勘右衛門は「怪我人です」と自分の後ろに視線を流した。

「怪我人って…えっ、事務員の苗字さん!?」
「ど、どうされたんですか!」

数馬と左近が駆け寄ってくるので、二人に補助してもらいつつ足を庇う名前を背から降ろす。伊作も驚いていたが、名前の腫れた足を見て即座に「数馬、包帯を。左近は水を汲んできてくれ」と指示を出す。
伊作が患部を診ながら改めて「どうされたんですか?」と訊くと、名前は乾いた笑みを浮かべた。

「その…、仕事の最中だったんですけど、中庭を通ったら落とし穴?に落ちちゃって…」
「それは……なんというか、他人事ではありませんね…」
「え?」

目を伏せた伊作に名前が首を傾げる。名前は保健委員会が別名、不運委員会と呼ばれていることをまだ知らないようだ。今はそんなことを説明している場合でもないので、伊作は「なんでもありません」と苦笑いで誤魔化す。

「中庭に落とし穴、ということは…」
「まあ、犯人は一人しかいないですよねー」
「そうだね…、それに関してはぼくから話を通しておくよ」

伊作が勘右衛門を見上げてきっぱりと言い切る。伊作がそう言うということは、恐らく仙蔵に話が通るのだろう。クールに見えるが、他の六年生たちと同じく後輩の面倒見はかなりいい人だ。喜八郎の失態となれば血相変えて飛び出してくる姿が目に浮かんだ。勘右衛門が手を回さずとも、仙蔵ならばそこら辺の対応はしっかりやってくれるだろう。
伊作との話の中、勘右衛門が言う犯人のことがまるで誰か分かっていない名前がきょとんとした顔で勘右衛門を見上げた。

「犯人ってそんなに分かりきってるの…?」
「うん、まあ…。四年生の綾部喜八郎って知ってます?」
「えーっと…作法委員会の…?」
「そうそう。天才トラパー、なんて呼ばれてたりしてまして。またの名は穴掘り小僧」
「穴掘り小僧……」
「とにかく学園内の色んな所に落とし穴をはじめ、罠をしかけるんですよ。だから十中八九今回も喜八郎の仕業ってわけです」

なるほど、としみじみ名前が納得したように呟く。

「でも本来、落とし穴や罠は演習場の方に仕掛けるよう言われているので、今回の苗字さんに非はありませんよ」
「あ、そうなんだ…」

忍たま相手なら罠にはまる方が悪い、とも言えるが、名前は一般人だ。忍術学園に来てから日も浅い。罠の印も、罠自体への警戒もできなくて当然である。そう言われても名前は気にしそうだが。

「私たちも落とし穴にはたくさん落ちるので大丈夫ですよ!」
「何のフォローにもなってないからなそれ!」

自信満々に言い切る乱太郎と突っ込む左近に、若干肩を落としていた名前から笑みがこぼれる。こういう時、下級生の力は偉大だ。さらに伏木蔵に「葉っぱついてます〜」と髪についていた葉を取ってもらった名前の顔は、それもう柔らかく綻んだ。

微笑ましくその光景を見つめている間にも、てきぱきと伊作による治療は進められており、足の包帯をちょうど巻き終えたようだった。大げさに見えるほど固定された足を名前が動かそうとすると、伊作にぴしゃりと止められる。

「主なのは打ち身と捻挫ですね。しばらく絶対安静です」
「机仕事は…平気?」
「平気ですけど、あまり無理しちゃだめですよ。吉野先生にも言っておきますから」
「はい……」

怒られたわけではあるまいに、仕事に制限がかかったことがよっぽど気がかりなのが意気消沈しているのが見て取れる。悪化させないように気を付けるべき事と、包帯を変えに保健室に定期的に訪れる事、と名前に説明を終えた伊作が、勘右衛門へと視線を移す。

「勘右衛門、苗字さんを部屋まで送るのは任せて平気かい?」
「はい、大丈夫です」
「じゃあ苗字さん。くれぐれも、無茶はやめてくださいね。捻挫が癖になったりしたら大変なんですから」
「わ、分かりました」

さすが伊作と言うべきだろうか。若干無理をする傾向がある名前の性格を見抜いているようで、念を押すように名前に言い聞かせた。
手当を終えた名前を再びおぶって、下級生たちの「お大事にー!」という元気な掛け声を受けながら保健室を出る。十歩ほどだろうか、保健室からの声が遠ざかるところまで歩くと、さっそく背中から大きなため息が降ってきた。

「……その、ごめんね尾浜くん。また助けてもらっちゃって。不甲斐ない…」
「全然。むしろおれがあの近くを通っててよかったと思ってますよ」
「それは…本当に……」

うぅ、と情けなさでいっぱいになったような声が名前から漏れる。本当に気にするようなことなど何もないのに。むしろ何でこんなところに落とし穴なんてあるんだと怒り散らしてもいいくらいだ。
しかし、きっと後ろでは明日の仕事がどうのこうのと延々と考えているんだろうな、と苦笑する。

「伊作先輩、怒らせると怖いですよ」
「だよね…、気を付けます」

ちょっとくらいなら、みたいな気持ちもすっかりなさげな名前。厳しめに伊作が言い聞かせたのが、しっかり効いているようだ。
ふと、勘右衛門の視界の端に映る、がちがちに固定された名前の足。これは日常の生活の動作も中々困りそうだ。助けを呼べずに名前が一人で持て余す前にと、勘右衛門は先手を打った。

「何かと不便でしょうし、ちゃんと困ったら呼んでくださいね」
「…う、ん」
「その返事は信憑性ないなあ〜」
「うっ」

あからさまに曇った声音を突っ込めば、名前が小さく呻く。この前から見ていて思っていたことだが、名前は助けを求めるのが下手、というよりかは選択肢自体の中にないように思える。本当の本当にどうしようもないときだけなら、みたいな考え方は、少しいただけなかった。

「助けを求めるの、最終手段にしなくてよくないですか?もうちょっと早く助けてって言ったってバチはあたりませんよ」
「……うん…」
「今回も穴の中で声を上げてくれれば、おれだって見つけやすかったし」
「確かに…」

別に責めたつもりはなかったのだが、勘右衛門の言葉を飲み込んだ名前はまたぐるぐると考え込んでいるのか、沈黙が流れる。
無言のまま名前の部屋の前に辿り着き、背からゆっくりと名前を下ろす。改めて顔を突き合わせると名前は思ったより真剣な眼差しをしていた。

「…私が、無茶したり助けを呼ばないことで、回り回って迷惑になることもあるかもしれないもんね」
「…うん、それはそうかもしれないけど、苗字さん仕事の話してない?」
「えっ、あ、そういう意味じゃなかった?」
「いや、違くはないけどー…まあ、なんというか、おれは普通に苗字さんが困ってたら助けたいなって思うから、もっと頼ってくれませんかって話です」

ぱちぱちと目を瞬かせる名前に微笑むと、ややあってから思いがけず名前からも柔らかい笑みが返ってくる。今度は勘右衛門が面食らっていると、名前が緩やかにはにかんだ。

「ありがとう、尾浜くん。今回も、前回も、いや…前々回も?」

正直詳細にどれのことを指しているのかあまり分からなかったが、この際それはいい。先ほどまで事務員の苗字さんとして見ていたというのに、唐突にその空気を解かれて一人の女性にしか見えなくなってしまい、勘右衛門の視界に星が飛ぶ。

「おれは…、大したことはしてないよ」
「私にとっては大きかったから」

勘右衛門はいよいよ名前のことを直視できなくなってきた。珍しく言葉を濁らせている勘右衛門に、名前は空気を変えるように声音を明るくする。

「とりあえず、善法寺くんに怒られたくもないし、ちゃんと安静にしてます」
「うん、それがいい。おれ、保健室に松葉杖貰ってきますね」
「そ、そんなことまで…、重ね重ねだけど、ありがとう」
「いーえー」

二度目のお礼は軽く受け止められた。ひらりと手を振って、言葉通り保健室に松葉杖を受け取りに名前の部屋を立ち去る。
背を向けて、しばらく歩いたところで若干熱くなった頬を抑えて勘右衛門は「あー…」とひとりでに声を漏らす。正直この場でしゃがみこみたい気もしたが、それは自身に負けた気がするので何とか堪えた。
参ってる自分という状況に羞恥が襲って、余計な思考を飛ばすように無意識に三郎と八左ヱ門の顔を思い浮かべる勘右衛門だった。少しだけ、冷静になった。


モラトリアムと青い春 4話


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