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TopMainそれって愛でしょ
コンコンとドアをノックする音が聞こえてきた瞬間、クザンは「仕事の呼び出しだったら無視しよう」と決意した。今日は何をする気にもならない。ノックした主を確認するのすら億劫なのだ。しかし、海兵ではない誰かがノックしていた場合、居留守を使うのも気が引けたため何とか気怠い体を起こした。
のそのそと玄関まで赴いて、身をかがめて覗き穴に目線を合わせる。そうして視界に入ってきたのは海兵でもお隣さんでもなく、クザンにとっては意外な人物だった。眠気と怠さで最底辺を這っていた気持ちが途端にふわりと浮いて、反射的に目の前の扉に手をかける。ドアを開けると、少し驚いた顔の名前とばちりと目が合って、思わず顔が綻んだ。

「いたんだ」
「いたんだって…いちゃダメだった?」
「いや、むしろ助かった」

淡々とした名前の反応を見ると、寂しくて会いに来たわけではなさそうだ。もちろん、分かってはいたが。もしそんなこと言われた日には、クザンはその場でひっくり返る自信があった。
名前が両手で抱えている紙袋をずい、とクザンに差し出す。何かを持ってきているな、とは思っていたがクザンへの贈り物だったらしい。「なにこれ」と呟きながら、手を伸ばして受け取る。ほのかに熱を持ったずっしりとした重みに、余計に何を渡されたのか分からなくなった。

「ドーナツ」
「ドーナツ?」
「お母さんが作りすぎたの。だから押し付けに来た」

紙袋の口を開いて中を確認すると、色とりどりのドーナツが見えた。開いた口からふわりと辺りを包んだ甘く香ばしい匂いに、忘れていた空腹が顔を覗かせる。今ならいくつか食べれそうな勢いではあるが、それにしても尋常じゃない量だ。

「多分家族のみんなもうドーナツ見たくないって思ってる」
「なんでまたそんなに」
「色んな種類作ってみたかったと本人は供述してる」
「母被告…」

悪びれていなさそうな名前母の顔が思い浮かんで可笑しくなる。どうやって消費したものかと手元のドーナツと向き合っていると、クザンが受け取るのか否かの返答を待っているような名前の様子に気が付く。きっと、ここで「ありがとう」と言って受け取ると、じゃあと名前はさっさと帰ってしまうだろう。引き止めたい素直な欲望が芽を出すので、我慢する必要性も感じなかったクザンは名前の顔を覗き込んだ。

「寄ってく?」
「えっ」
「今日仕事なの?」
「仕事じゃないけど……」

例によって、これは断らない反応だ。もごもごと煮え切らない反応を見せる名前の手をゆるやかに引く。名前が家の中に入ると、開いている必要が無くなったドアがやけに大きな音を立てて閉まった気がした。逃げ場を失った名前は、何とも言えない顔をしている。

「…コーヒー淹れてくれたりとか」
「…………別に、いいけど」
「じゃあお願い」
「……不味くても知らないから」

別にコーヒーくらい自宅なのだから通常なら自分で淹れるが、何かしら理由作りでもしないと名前のこの微妙な顔と緊張感は解消されないと踏んだ。クザンがキッチンに向かうと、名前も素直に従って黙ってついてくる。軽く俯きながらも視線だけは忙しない様子に、奥歯で笑みを噛み殺した。

殺風景なキッチンに招き入れると、名前の目が物珍し気にぱちぱちと瞬く。あまり生活感のないキッチンは、恐らく名前にとっては見慣れないものなのだろう。コーヒーの粉と淹れるための器具を一通り出して、クザンがケトルを火にかけると名前は横にくっついてその様子を見守っていた。

「名前ちゃん何飲む?」
「なんでもいい。コーヒー以外なら」
「紅茶がうちにねェのよな〜。…緑茶でもいい?」
「緑茶も好き」

茶葉と急須を出すと、名前が「もういい、後はやる」とクザンを追いやるので、クザンは大人しく席へと着いた。暇を持て余している間、貰ったドーナツをもう一度覗き込む。その量を改めて思い知ると、食べてもいないのにお腹の重みが増した気がした。

「全部食べたらおれもドーナツになりそう」
「ドーナツに?いいじゃん、その方がかわいいかも」
「ええ…」

まさかの返答に困惑しつつ、ドーナツを一つ紙袋から取り出す。この色はチョコだろうか。何でも口に入れればそう変わらないかと思い、観察もほどほどにしてかじった。
さくりとした表面に、優しい甘みと重量感。今更名前の母が作ったものに疑いはなかったが、やはり期待を裏切ることなく美味しかった。しかし、咀嚼しながら残りの量を見て思うのは、いけてもあと5つくらいだろうということ。

「あ、もう食べてる。美味しい?」
「うん、うまい」
「じゃあ全部食べられるね」

半笑いで無茶ぶりをするその様子を見ると、到底名前も一人で処理しきれるとは思っていないのだろう。クザンが微妙な唸り声を返すと、名前が「冗談」と笑いながら淹れ終えたコーヒーを運んできた。

「味は保証しない」
「そんなに?」
「前に家で淹れたらお母さんに泥水って言われたもん」
「泥水」

そんなにか、と少し不安にもなりながら口を付けたが、言うほどでもなかった。凄く美味しいというほどでもないが、特別不味くもない。

「う〜ん?うまいよ、普通に」
「ちょっとは成長したのかも」

自分用に淹れた緑茶に口を付けながら、クザンが食べているドーナツの残数をちらりと一瞥する名前。

「食べきれなかったら捨てて」
「いや〜、それは勿体ないでしょ」

失敗作ばかりなら捨てることも視野に入れたかもしれないが、別に失敗作ではないのだ。どれもこれも安定して美味しい。どうにかならないものか、と考えてみて、手っ取り早く無駄にならない方法が一つ思いつく。

「…配ってもいい?」
「海軍で?」
「そう」
「別にいいけど…」

海兵なんて腹を空かせているやつらの方が多い。甘いものが特別嫌いな者じゃなければ嬉々として受け取るだろう。いや、おつるの所に持っていくのが一番いいかもしれない。ドーナツも食べられれば何でもいい野郎よりかは、甘いものに目がない女性陣に食べられた方が幸せと言うものだ。
捌く当ても見つかったところで安心していると、席についてクザンがドーナツを食べている様を見ることに飽きた名前が、席を立ってふらふらと家の中を探検し始める。止める理由もないので、きょろきょろと辺りを見渡す名前をしばらく見守った。

「何か見つかった?」
「さあ。今のところはないんじゃない」
「…ええと、なにが?」
「不貞を暴く証拠?」
「ないってそんな……、うん、実際してないし」

ふうん、と疑っているわけでも、信じたわけでもなさそうな名前の淡白な返事に冷や汗が流れる。そんな証拠はない、それは事実だ。しかし、どこかの誰かさんの私物はもしかしたら家のあらゆる場所に残っているかもしれない。過去の産物であったとしても、出てきてほしいものではなかった。
ドーナツを食べるのもほどほどにしてクザンも席を立つと、名前は本棚をじっと観察していた。

「アルバムとかないの?」
「おれが綺麗に写真をファイリングするようなタイプだと思う?」
「思わない」

そもそも撮らないしね、写真。大して覚えていない過去の記憶を引っ張り出しながら呟く。特に面白い類の本はこの本棚にはないはずだ。航海術についての教本やら歴史書やら何かと小難しい本ばかり並んでいる。

「クザンもこういう本持ってるんだね」
「ま〜、一応ね。全部パラ読みしたくらいだけど」

そもそも自身で集めたものではないものが殆どだ。人から譲り受けたり押し付けられたり、この本棚に存在している経緯は様々だった。これらの知識が必要ない、とは言わないがどちらかと言えばクザンは経験と感覚で覚える派である。知識の補足として内容が頭の片隅にうっすらと残っている程度で、熟読したとは言えない。

やがて並ぶ字面を眺めるのにも飽きたのかふらっとソファーの方に移動する名前。腰を下ろしてソファーの背凭れめいっぱいに体を預ける名前の隣に、クザンも寄り添うように腰を下ろした。

「…クザンの家のわりには綺麗だよね」
「まあ、滅多に使わねェしなァ。それこそ寝るときぐらいしか」
「へえ」

体の芯が抜けていくように、名前が徐々にソファーの上でだらけはじめる。傾いてきた体はクザンに預ける形になり、クザンの右半身は名前の重みとほのかな体温が占めた。
疲れているのか、生粋の怠惰なのか分からないが、外では見られない具合に怠ける名前は素直にかわいい。クザンにここまで触れてくれるのも、外ではないからだろうか。クザンが髪を撫でても嫌がる素振りを特に見せず、名前はただ眠そうにあくびをした。

純粋に湧き上がってくるのは、こんな穏やかな心地になれるのであれば家もいいかもという気持ち。力を入れることもせずに放り出されている名前の手を取り、指先を絡めると名前が少し反応した。

「名前ちゃんがこうやって家にいててくれれば、帰ってきたくもなるけど」
「…………」

先ほどまで力が入っていなかった体が僅かに強張ったのが分かる。クザンの右半身がじわじわと温かくなってきてるのは、気のせいだろうか。別に急かす意図はなかったのだが、沈黙を愛でるように絡ませた指を撫でると、名前が勢いよく起き上がった。

「…た、食べ終わったの」
「え、」
「ドーナツ」
「あ、うん」

反射的に答えると、名前がこちらを見ずに立ち上がる。

「帰る」
「えっ」

本当に帰りそうな勢いでスタスタと玄関に向かうものだから、クザンは慌ててその腕を掴む。案の定、というか、振り返った名前の顔は真っ赤に染まっていた。

「ちょ、ちょっとだけ待って。渡したいものあるから」
「え?」

そう言うとさすがに強行突破して帰ろうとしていた名前の足が止まる。クザンは引き出しから“渡したいもの”を引っ張り出して、大人しく待ってくれていた名前に差し出した。

「……なにこれ」
「合鍵、うちの。あったら便利かなと思って」
「……」
「ドーナツのお礼ね」
「…じゃあお母さんに渡しておく」
「あー!いや、違う、ごめんね。名前ちゃんに渡したいから、渡す」

名前を引き止めようとした瞬間、突如として思いついたことではあるが、別に渡したかったのは本当だ。もし今日クザンがいなければ、名前はとんぼ返りしていただろうし。好きなタイミングで家に来てくれれば、クザンだって嬉しい。
名前を見ると、唇が変な形をしていた。これは何かしら感情を押し殺そうとしているときの顔だ。

「……悪用してやる」
「まあ、名前ちゃんになら、いいけど…」
「帰る!!」

耐えきれなくなったのか、耳まで赤くした名前は乱暴にドアを開けて出て行った。鍵はしっかりと握ったまま。嵐のように去っていった名前の余韻を感じていると、視界の端に映った名前の忘れ物にクザンから「あ、」と間抜けな声が出たのだった。


それって愛でしょ 15話


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