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TopMainモラトリアムと青い春
何が起こったのか、理解するまでにとんでもない時間を要した。
繋がれた手と、珍しく緊張した面持ちで私の返事を待つ尾浜くんに、否が応でも現実だと思い知らされ背中から冷や汗が噴き出る。

何か、言わなければ。そうは思うものの、本当に言葉のまま受け取ってしまっていいのだろうか、もしかしたら私の勘違いなんじゃなかろうか、なんて気持ちが裾を引く。それでもどうにかしないと、と頭が真っ白なまま、緊張で狭まった喉から何とか声を絞り出す。

「ど…どういう意味か、訊いてもいい…?」
「…おれがひとりの男として、苗字さんのこと好きってことだよ」
「そっ…か……」

それ以上の言葉は、驚くほど何も出てこなった。沈黙が喉元を深く沈めて、気まずさに思わず俯いてしまう。想いを告げてくれているというのに、こんな嫌な態度って他にないだろう。思考はとめどなく巡っているように思えて、驚きの渦がただあるだけで、何も考えられてはいなかった。

「ごめんね、苗字さん」

尾浜くんの謝罪につられて顔をあげると、申し訳なさそうに眉を下げた尾浜くんと目が合う。なんで、そんな顔。
繋いでいた手をゆるりと解いた尾浜くんは、私を安心させるように笑顔を浮かべる。

「うーんと、返事が欲しいとかじゃないんだ。苗字さんを困らせたくないし…」
「……」
「だけど、好きでいさせてほしいから。おれの想い、伝えたくて。…でも、これだけで充分困ってるよね、ごめんなさい」
「あ、謝らないで!」

先ほどまで声なんて出ないと思っていたのに、反射的に大きな声を出していた。だって、想いを伝えてくれるなんて、素敵なことなはずだ。私が上手く返せないばかりに、その気持ちを申し訳なく思うなんて悲しいこと、してほしくなかった。

「尾浜くんが、そんな風に思う必要ないから…だ、だからあの、私の方こそ上手く返せなくて、ごめんなさい…」

思っていることをそのまま伝えられればいいのに、混乱している頭では口がもたついて上手く言葉が出ない。伝えたいことはもっと違うのに、と歯がゆい思いで半泣きになっていると、尾浜くんは嬉しそうに目を細めた。

「ありがとう。でも、苗字さんを困らせたくないのは本当だよ。告白の返事くださーい!なんて言ったら、苗字さん三日三晩寝付けなさそうだし」
「うっ…」
「だから、本当に返事はいらないんだ。おれも振られたくないし。ただ…好きでいさせてください」

尾浜くんが丁寧に腰を折って頭を下げる。人の後頭部を見るのはこうも落ち着かないものか、と思うほど居心地が悪く、慌てて「頭上げて…!」と頼み込む。

「そ、そんな頭下げて頼まれることじゃないって言うか…。そもそも、許可制、なの…?」
「そりゃあ、迷惑になったら嫌だし」
「迷惑なんかじゃ…!」

尾浜くんが迷惑だなんて思うこと、あるはずがない。それだけは分かっていた。条件反射のように否定した私に、目を丸くした尾浜くんはどことなく嬉しそうで、気恥ずかしさが腹の底から襲ってくる。思わず俯いてしまったが、これだけはきちんと返事をしなければ。

「め…迷惑じゃないよ。本当に、それは絶対思わないから…」
「そっか、よかった」

安心したように、嬉しそうに笑う尾浜くんに、胸の内がぽかぽかと熱を持つ。尾浜くんにとって、とても大切な想いを向けられているのに、私がこんな曖昧でいていいのだろうか。迷いが表に出てしまっていたのか、尾浜くんが私の感情を掬い上げるように「あのね」と柔らかく口を開く。

「さっきも言ったけど、おれ、苗字さんのこと困らせたくないんだ」
「…うん……」
「ちゃんと、卒業と共にこの想いも置いてくつもり。…だから、安心して」

尾浜くんの口から卒業という単語を聞いて、はっとする。そうか、尾浜くんは、いつか忍者になる子なんだ。当たり前のことであるはずなのに、どこかその事実が自分の中からすっぽ抜けていたように思う。
安心して、と笑った尾浜くんは無理をしているようにも見えなかった。自分の恋心をとても俯瞰しているような。いや…諦めているのだろうか。

胸の奥でほんの僅か、寂しさのような何かが音をたてた気がしたが、私に口を出せる権利なんてあるはずもない。ぱっと明るい笑顔に切り替えて、学園への帰路を歩み始めた尾浜くん。その横顔を見ながら、曖昧な自分の気持ちに嫌気がさして仕方なかった。

***

尾浜くんからの告白から数日。

何をしていても告白のことが頭から離れてくれるわけもなく、私は日々憔悴していた。尾浜くんは私に見返りは求めていなかった。それならば、私としては何事もなかったかのようにいつも通りに振る舞うのが正解なのだろう。しかし、そんな鉄壁のメンタルを私が持ち合わせているはずもなく。

幸運なことに尾浜くんと話す機会はあれ以来まだなかった。次、尾浜くんとどのような顔で話せばいいのか、そんなことを考えているうちに一日が終わっている今日この頃。このままでは本当に次尾浜くんと関わったときに死にたくなる、絶対そうなるに決まっている。
ただならぬ危機感を抱いた私は、一人で問題解決できないと判断し、頼れるべき人を必死に考えた。必死に考えた末に、たまたま目の前を通ったすらりとした美しい人影を思わず呼び止めていた。


そうして、勢いのまま山本シナ先生に泣きついたのがつい先刻。私は今、シナ先生のお部屋で上等な菓子とお茶を振る舞われていた。

「わざわざお時間を作ってくださり、本当にありがとうございます…」
「気にしないでちょうだい。むしろ苗字さんとゆっくりお話しできるなんて嬉しいわ」

にこりと微笑んだシナ先生の美しさに、同性ながら惚れ惚れとしてしまう。年齢不詳…という情報が頭をよぎったが、この際どうでもいいことに思える。シナ先生は、シナ先生だから美しいのだ。

「それで相談、というのは何かしら。私が力になれることならばいいのだけれど」
「……その…、」

いざ相談するとなるとこれでもかというほど口が重たくなる。言ってしまえば、恋愛についての相談と受け取られても仕方がない内容だ。気恥ずかしさや、場にそぐわないんじゃないかという気持ちに煽られる。
湧き上がる不安にぐるぐると目を回していると、膝の上で力がこもっていた手に、シナ先生の白魚のような手が重なった。

「ゆっくりで大丈夫よ」
「あっ…す、すみません…」

シナ先生の声にはっと息を吸い込むと、幾分か気分が和らいだ。呼吸をするって大切なことだと、こんな時にまで思い知らされる。

「あの、ちょっと変なことをお訊きするんですが…」
「ええ、どうぞ」
「生徒さんから…告白されたことって、ありますか?」

シナ先生の長い睫毛がぱちぱちと上下に揺れる。ややあってから、シナ先生はゆったりとした動きで頬に手を当てた。

「そう、ねえ…。なかったわけではないわ」
「……」
「私も教師人生が長いから、そういったことはやっぱり何度かね」

そうなんだ、と、少しの驚きと安堵で、呆けた表情をしてしまう。やはり学園という閉鎖空間ともいえる場所で、シナ先生のような人がいてしまったら色んな感情を抱いてしまいそうだ。かくいう私も、もし生徒だとしたら、シナ先生に対して敬愛と恋愛が混ざってしまいそうな気がする。

「シナ先生はどうなさったんですか…?」
「その感情が忍者になるうえで邪魔になるなら捨てなさい、といつも言っているわ」
「…邪魔にならないならよい、と」

明らかにそんな含みを持たせた答えだったため、つい前のめり気味に訊いてしまう。シナ先生は私の問いに、少し眉尻を下げて笑った。

「…恋人になってくださいとは言われたことがないのよ」

想いを伝えてくれた尾浜くんの大人びた顔つきを思いだす。尾浜くんも、そうだった。

「本当に、よい子たちばかりなのよね」

そう言ったシナ先生の瞳は慈愛に溢れているように思えた。相手の立場を考えて、気持ちを押し付けることなく、それでも特別な想いを向けていると伝えてくれる生徒を、「教師」として大事に思わずにはいられないのだろう。

「一応訊かせていただくけれど…、誰かにされたのかしら」
「…まあ、その……はい…」

シナ先生に訊きたいことはたくさんあるはずなのだが、疑問と感情が頭の中でとっ散らかって、上手く質問ができそうにない。わざわざ時間をとってもらっているのに、と感情もうまくまとまらない状態で、不安の種をぼろぼろと零していく。

「返事はいらないって言われたんです、好きでいさせてほしいって。でも、どう受け止めたらいいかも分からなくて…」
「その想いを受け取るのは嫌なのかしら」
「嫌なんて…!ただ、何も返せないのに、とか…そもそも私が事務員で、相手が生徒さんなのに、とか…」
「あら、それは問題ないと思うけれど。あくまで苗字さんは事務員さんだもの。教師とはまた違うわ」

けろっと言い放ったシナ先生に思わず口が開きっぱなしになる。確かに、また教師とは立ち位置が違うとは思うが、言い切れるシナ先生の豪胆さが凄い。

「苗字さんは仕事に持ち込んだりもしないでしょう?」
「も、もちろんです。そんなこと絶対にしちゃいけないですから」
「じゃあ平気ね」

紅が引かれた艶やかな唇の弧を深くしたシナ先生の、有無を言わせないパワーに圧倒される。シナ先生の信頼を勝ち取れているのはこの上なく喜ばしいことではあるが、本当にいいのだろうか。
シナ先生は解決したと言わんばかりに、「前者の方は…、」と腕を組みながら次の答えへと移る。

「何も返せないのに、なんて思わなくていいのよ、きっと」

教師だからだろうか、美人だからだろうか。いや、答えとしてはシナ先生だからなのだろう。シナ先生の言葉は、喉元に全く引っかからずにすとんと腹落ちする。そして、不安に彷徨う心を確かに捕まえてくれる力があるのだ。

「そもそも、苗字さんは本当に何も返していないのかしら?私は、気持ちの種類が違うだけに見えるわ」
「種類…」
「同じ形で、同じ気持ちの大きさを、なんて無理があるじゃない。形も大きさも、返すものはそれぞれなのが、普通じゃないかしら」

尾浜くんの気持ちを受け取ったときに、苦しかったのだ。きっと期待通りの答えを返せていない申し訳なさでいっぱいで、そんな状態でしかいられない自分の不器用さも、嫌で。

「苗字さんは苗字さんなりに、その生徒さんのことを想っているのでしょう?恋愛感情じゃなくても」

尾浜くんは、私にとっても特別な男の子だ。仕事的にも、精神的にも、情けないことに短期間で何度も助けられた。とても話しやすくて、色々見抜かれてしまうけどそれも別にいやじゃなくて、年相応に男の子らしいところはかわいくて。
気を抜けば泣いてしまいそうだったから、ぐっと堪えて頷く。シナ先生はそんな私もお見通しのようで、優しく背を撫でてくれた。

「なら、いいのよ。それで」

大切だから、苦しかった。そんな想いも救ってもらえたようで、心の軽さに目頭が熱くなる。

「仮に、苗字さんの気持ちが変わったとしても、それもまたいいと思っているわ」
「変わる…?」
「向けられた感情に似たようなものになっても、という話よ」

それってつまり、私が尾浜くんのことを…。

「い、い、いいんですかそれ…!」
「いけないことはないわ」
「えええ…」

私が堅く考えすぎなだけなのだろうか、それともシナ先生が上級者すぎるのだろうか。…多分、後者だと思われる。
気づけば胸に渦巻いていた靄は消え去っていた。ようやく私も冷静に、尾浜くんと向き合える気がする。シナ先生に向き合って、私は改めて頭を下げた。

「ありがとうございます。シナ先生のお話のおかげで、とても心の整理がついたように思います」
「力になれたのならよかったわ」

お茶に口をつけたシナ先生がふうと一息ついて、ふんわりと愉しげな笑みを浮かべる。

「それにしても尾浜くんが…、意外ね」
「ですよね……ってあれ…私名前言いました…!?」
「あら、当たってたかしら?」
「!?」
「ふふ、女の勘よ」

別に勝負を挑む機会もないけれど、シナ先生には一生敵わないのだろうと思い知らされたお茶会だった。くのいちって、強くて、美しくて、こわい。


モラトリアムと青い春 7話


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