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TopMainトワレに揺れる
「加減ってもんを知らねェあの人は!」
「あはは……コテンパンでしたね…」

怒り任せに目の前のカレーにがっつくと、切れた口の中がぴりと痛む。それになお苛立って乱暴に体を動かせば、あらゆる箇所が悲鳴を上げた。目の前で苦笑しているコビーも、同じように生傷がちらほらと目立つ。全ての原因は勿論、名前にあった。
午前中、稽古という名の殆ど一方的な肉体的指導を受けたヘルメッポとコビーは、部下達にぎょっとされるほどの生傷を作って訓練室から出てくる羽目になった。久しぶりの手合わせで一矢報いたところも勿論あったが、それ以上に敵わずコテンパンされたというわけだ。ぐったりしているヘルメッポ達とは反比例に鼻歌を口ずさみながら出てきた名前に、部下達の見る目がガープに対してと同じようなものに変わったのが手に取るように分かった。

「なんだか、手合わせ中に昔がフラッシュバックしちゃいました」
「あ〜、わかるぜ。手も足も出なかった頃な」
「僕たちも、もっと精進しないとですね…」
「ったく…上を見たらキリがねェよなァ」

ヘルメッポにとっては目の前のコビーですらデカい壁だというのに、それより上は沢山いて。文句垂れても嫌だと喚いても、努力するしか道が無いのだと改めて思い知らされたようだった。全く、つくづくこの組織はバケモノしかいない。そのバケモノ連中と張り合って生きると決めてしまったのだから、自分も同じ穴の狢なのかもしれないが。

「午後から演練ですよね」
「んあ、そうだったな」
「こんなボロボロで部下の前に立つの初めてかもしれないです…」
「おれ達の身に何があったかなんて全員知ってるだろ」
「はは…、それもそうですね」

数年前までは名前に手も足も出なかった自分らが、いつの間にか部下を持ち、教える立場になっているというのも何だか感慨深いものだった。上はまだまだいるとしても、歩みは止めずに来れたという証だろうか。

「おれ達以外にも若いのを何人か訓練室に引きずり込んでるみたいだぞ、あの人」
「…名前さんから見込みがあると判断されたんですね、きっと」
「いい意味で捉えるとそうかもしれねェな。おれは運が悪かったとしか思わねェけど」
「ヘルメッポさん…」

思ってても言っちゃだめです、といった咎めを含んだ声音に、ふいと視線を逸らす。どうせ名前には聞かれてないのだ、そんな時くらい好き勝手に言わせてもらいたい。体中の生傷を思えば、ヘルメッポ的には当然のことだった。

***

演練も終えたヘルメッポは、コビーに断わりを言われてからタバコを吸いに甲板へと出た。水平線に沈んでいく炎のような太陽を見ながら、夕暮れの空気を吸い込む。ふう、と吐き出すと今日一日の疲れがどっと押し寄せるようだった。懐からタバコを取り出して一本摘まみ上げようとした時、わざとらしくカツンと響いた足音に顔を上げる。

「不良海兵だな」
「そうなると上の人たちは不良だらけってことになりますけど」
「知らなかったのか?」

くすりと笑った名前は何がしたいのか知らないが、ヘルメッポの隣に並んだ。確かに、優等生だと思う人は殆どいないに等しいが、それを不良で括るのはいかがなものか。名前だからこそ叩ける軽口に、ヘルメッポは肩を竦める。

「怪我、午後の演練に響かなかったか?」
「我慢しましたよ、部下の手前ね」
「おー、かっこいい上官じゃないか」
「どうも」

暗にボコボコにしてくれてどうも、という意味を含めた嫌味たらしい言い方をしてみせたのだが、名前はどこ吹く風だ。この人に響くなんて微塵も思っていなかったが、ここまでとなるといっそ清々しさすらある。名前が来たことにより吸うタイミングを見失ったタバコが、手の中で若干潰れてしまった気がした。この人は確か、吸う人じゃなかったような。
ふわりと吹いた生ぬるい風が、名前の髪を揺らす。いつの間にかこちらを見つめていた名前が、どこか嬉しそうに目を細めた。

「コビーも、メッポも。強くなったな」
「…あんた、お世辞なんて言えたんですね」
「バカ言え、ガープさんに育てられたんだぞ私は」

鼻で笑う名前に、言葉が詰まる。それはつまり、情けの言葉でも何でもないということだろうか。あんなに叩きのめしたくせに、と理由をつけて中々飲み込めない自分がいる。

「優しい先輩が褒めてやってるんだ、素直に受け取れ」
「はあ。優しいと思ったことは、一度もないすけど」

生意気な返答ばかりしていると、名前は不意に柔らかく微笑んだ。今までの状況と、向けられた表情のちぐはぐさに思わず息をのむ。

「かわいい後輩だな、全く」
「…は、」
「何年経っても驕ることなく、真っすぐに背中追いかけられちゃあ、参るじゃないか。少しくらい不出来なほうが先輩ぶれたってのに」
「……」
「お前らが自分で自分を甘やかさないから、私が褒めてあげてるんだ。…強くなったよ、二人とも」

今度はバカみたいにその言葉が染み込んだ。そしてその余韻はヘルメッポの体を熱くさせる。なんだってこの人はこういう時ばかり。奥歯を噛んで感情を押し殺そうとしたが、結局隙間から悲鳴のような吐息が漏れてヘルメッポは舌を打った。

「吸うんじゃなかったのか?」

黙りこくったヘルメッポの顔を覗き込みながら、名前が手元のタバコを指さす。行き場のない感情も、紫煙を吸えば紛れるんじゃないかと思い、ヘルメッポは名前がそそのかすままに一本取りだして咥える。
手早くジッポで火をつけて有害な空気を肺いっぱいに取り込むと、少しは気分が落ち着いた。が、ヘルメッポが紫煙を吐き出す様子を、横で幼子のようにじっと見ている名前に居心地の悪さがぶり返す。

「……なんすか」
「一本くれ」
「…吸う人でしたっけ?」
「人が吸ってるのを見てると吸いたくなる」

別にタバコの一本くらい訳ない。ん、とヘルメッポが差し出せば、名前が指先で受け取った。どうせ火もないだろう、と思って既にポケットに入れてしまったジッポを取り出そうとした瞬間、「借りるぞ」と名前の声。何を、と考えて結論を出す前に、ヘルメッポの眼前に名前の前髪が揺れた。
ジ…、と自分のタバコの火が名前のタバコの先に燃え移っていく様を、夢か何かのような気持ちで呆然と見つめる。タバコの匂いとは別に、名前の薄くあまい香りが鼻先に漂ってぐらりと視界が揺れた。
やがて名前のタバコが燻りだしたところで、何事もなかったかのようにぱっと名前が離れる。

「ありがと」

そう言うと、名前は軽やかに身を返して去っていく。その背中はさながら白昼夢のようで、あまりにも現実味がなく。ヘルメッポがもう一度瞬きする頃には、そこに姿はなかった。
咥えたタバコの先から、ぼとりと灰が落ちる。それと同時に、ヘルメッポは脱力したように壁に背を預けた。

「タチ悪……」

波の音すらしない穏やかな気候で、自身の掠れた情けない声がかつてないほど静かに響くものだから、ヘルメッポは余計に参ってしまうのだった。


トワレに揺れる 2話


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