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TopMainそれって愛でしょ
「……しばらく使わないから。これ、返す」

ダンッと大きな音を立てて机に押し付けた合鍵。立ち上がった私をクザンが「まずい」といった表情で見上げているのが、更に苛立ちを煽った。その場を立ち去ろうとして踵を返したとき、クザンが「あ、ピアス」と手元で弄んでいたピアスを私に差し出したが、それがトドメとなって私の怒りは爆発した。

「知らん!私のピアスじゃないしそれ!」

椅子をひっくり返しそうな粗雑さで店を飛び出す。なんだってこんなことになってしまったのか。怒りで熱くなる目頭をどうにか堪えて、私は早足で帰路を辿った。

***

一緒に住む?とクザンに持ちかけられて、既に半月くらいは経過していた。言われたときは、不覚にも眠気が吹き飛ぶくらいには嬉しかったし、息が止まるくらいドキッとした。それは事実だ。だが、いざ行動に移すとなると中々踏み切れないのは私の悪い習性だった。
母にだってまだ相談できていない。家を出るとなると、店のこともあるから相談なら早めにした方が良いというのに。そんな風に悶々と考え込んでいたらいつの間にか日にちが過ぎていた。このままだと私はきっと永遠に答えを保留してしまう。そうして危機感を抱いた私は、ようやっと決意したのだった。


既に二時間は経過している。今日は仕事が早く終わる予定だからと入れたデートの予定。指定のカフェで私は待ちぼうけをくらっていた。もう帰ってやろうかと思ったところで、血相を変えたクザンの登場に大きなため息が出る。初犯じゃないのが何とも腹立たしい。肩身狭そうに着席をしたクザンに、私は腕組みを崩さず厳しい表情で睨めつけた。

「別に、遅れたことを怒ってるわけじゃないの、分かってる?」
「ハイ……」
「前も言わなかったっけ、連絡さえあればいいって」
「言いました……」
「私はクザンと違って子電伝虫持ち歩いてるんだからさ」
「ハイ…」
「いや、クザンも持ち歩けって話なんだけど」
「おっしゃる通りで…」

とは言うものの、クザンの身に何があったかは本人のみぞ知るところである。言い訳をされても腹が立つので申し開きはさせないが、もしかしたら本当に緊急度の高い仕事が急に舞い降りててんやわんやだったのかもしれない。人命に関わることだったのかもしれない。海軍の仕事なんて私が一から十まで把握できるものでもないし、文句を言うのはこれぐらいにしておいてあげたほうが吉というものだ。そう結論付けて、自信を納得させた私はクザンを追い詰めるのをそこまでにした。

「以後、気を付けるように」
「肝に銘じます」

上司と部下のようなやりとりを終えて、私は心を落ち着けるためにアイスティーに口をつけた。さて、本題はここからである。クザンの遅刻というイベントで出鼻をくじかれてしまった感はあるが、これ以上先延ばしにはしたくない。
たわいもない雑談を続けながら切り出すタイミングを窺う。ああ、こういう事は本当に得意じゃない。嫌な心音を立てる胸をなんとか鎮めて、私は「あのさ、」と細く声を出した。

「この前の話…、なんだけど」
「この前?」
「……い…一緒に住む、ってやつ」
「…………」

不自然な、沈黙が流れた。最初は驚き故のものかと思ったが、緊張で落としていた視線を恐る恐るクザンに向ければ、何かが抜け落ちたような顔をしている。そしてその表情が意味するところを、私は残念なことに悟ってしまった。

「まさか忘れ、」
「あ〜いや!忘れてない!覚えてる!」

慌てたクザンの弁解が耳をすり抜けていく。ふつふつと、腹の底から怒りが煮だっていくのを感じた。そりゃあ、少し時間が空いたけれども。私が返事を先延ばしにしていたのが原因だけれども。だとしても、大事な話ではなかったのだろうか。…いや、忘れるくらいなのだから大事な話ではなかったのだろう。荒ぶる感情が一周回って冷水のように凪いでいく。

私が黙りこくったところでクザンの「忘れていたわけじゃなくてね、」という言い訳が並べ立てられる。いつもより冷静さを欠いていたのは自覚できていた。それでもクザンの言葉が何一つ受け入れられない今の状態で、これ以上話しても無駄だ。

どうにか空気を変えようとしたのか、クザンが「そういえば、」とポケットから何やら取り出して手のひらを広げて見せる。

「この前ピアス無くしたって言ってなかった?」

じろ、と見るだけクザンの手の上を見てみれば、見覚えのないピアスが転がっていて思わず「は?」という声が転がり出そうになる。それは一体どこの誰のピアスだ。答える気にもなれなかった私は、鞄からクザンの家の合鍵を取り出して机に叩きつけた。

そして、冒頭に至る。

どかどかと音を立てて帰宅すると、すぐに異変に気が付いた母が「なに、何かあったの」と問うてくるので、私はぶすっとした表情のまま「喧嘩した」と吐き捨てる。

「喧嘩?初喧嘩じゃない、おめでとう」
「…………」

私にとっては全くめでたくないのだが、母の達観した態度を見てると少し落ち着いてくるものがある。私は「寝てくる」とだけ言って、自室へとこもった。

別に、この怒りの持続時間が長くないことは分かっていた。それでもあの場に居続けるのはやっぱり我慢ならなくて。しばらくして、冷静になったクザンのところに行けばいい。そうは思うものの、あんな風に出て行った手前、もし、もし、もう面倒だと思われて、クザンが私を捨てる気でいたらどうしよう、なんて。
一人になって枕に顔を埋めると、思考がどんどんと悪い方向に傾いていく。それが耐えきれなくて、心労と共に押し寄せる眠気に抗うこともせず意識を手放した。



コンコンと響いたノックの音に目が覚める。無意識に浅い眠りだったのか、反射で勢いよく飛び起きた。ドアを開けて顔を覗かせた母は寝起きの私を見ると、玄関を指さして顎をやった。

「迎え、来てるけど」

迎え、と聞いて思い当たる人物は一人しかいない。窓の外を見やると星が浮かび始めるくらいには昏くなっていた。あれから随分と時間が経ったらしい。寝ぐせを直す暇も今はないため雑に手櫛で髪を整えてから、私は重い足取りで家の外へと出た。
やはり待ち受けていたのは、クザンで。到底目を合わせられそうになかった私はクザンの靴先を見ながら歩み寄る。

「……手繋いでもいい?」

控えめな申し出と、差し出された手。その手を払いのける気も湧かないくらいには、私の憤りは鎮火していた。言われるがままクザンの大きな手に自分の手を重ねると、そのまま包み込まれて軽くきゅっと握られる。かさついた感触と、あまり熱を持たない手にちょっとだけ泣きそうになってしまった。

クザンに手を引かれて連れていかれたのはクザンの家。特に文句もなくそのまま家に上がると、ソファーへと座らされて、クザンは座った私を見上げるように床へと腰を下ろした。ずっと俯いていることを逆手に取られてしまった。これでは否が応でも顔を合わせなければならない。
私がむっつりと黙り込んでなんとか視線を背けていると、私の両手を握ってクザンが至極申し訳なさそうに覗き込んでくる。私が観念してクザンの方を向くと、クザンは殊勝な顔つきをして見せた。

「ごめんな、名前ちゃん」
「……」
「今日の遅刻も、一緒に住む話をちょっとでも忘れてたことも、悪かった」
「……」
「あ、あとピアスの件もか」

そう言ってクザンが取り出したのは、確かに私が無くしていたピアスで。いつだかにクザンから贈られたガラス製のそれを、クザンはするりと私の手に握りこませた。
ここまでされて未だにぷりぷりとする方が無理というもので、私は情けないため息をついてから口を尖らせた。

「…もう、いい。…返事先延ばしにしてた、私も悪かったし……」
「この短期間で忘れるおれもどうかしてんだけどな…。ずっと考えてたことだったのよ。だから言った言わないが曖昧になっちまったというか〜……」
「…ずっと?」

私がか細く問うと、クザンは「そう」と頷く。

「前から言ってるけど、名前ちゃんが家にいてくれるとすげェ嬉しいつうか…、ま〜頑張って帰ってこようって気になるわけ」
「…うん」
「だから〜…なんだ…名前ちゃんが嫌じゃなければ一緒に暮らしたい、かなって」

珍しく照れているのか、それとも喧嘩の後では言い出しにくいのか、歯切れ悪くするクザンが面白い。思わず小さな笑いが鼻に抜けて、表情が緩む。

「…私は、きっと一緒に住んだら、待ってるって感覚が増すんだろうなって思う」
「……それは…、そうかもな」
「でもクザンと一緒になるなら、そんなのどうしたって待ち受けてることだとも思う。それ以上に…、私もクザンと同じくらい、一緒にいたいって思ってる…し、だから……」
「…一緒に暮らしてくれる?」

自身の気持ちに素直になって頷けば、そのまま抱きすくめられて身動きが取れなくなる。さっきまでびゅうびゅう吹いていた心の隙間風がいつのまにか無くなっていて、満ちていくぬくもりに柔らかな幸福を感じた。そして流れるように顔を近づけてきたクザンに私はストップをかけて、ん、と手を突き出した。

「返却して」
「返却?」
「鍵」

あ、と初めて思いだしたらしいクザンが合鍵を取り出して、私に渡す。最初は何に使うんだかいまいち分かりかねていた合鍵が、これからもっと当たり前の存在になるのかと思うと変な感じがした。

「悪用するね」
「いや、名前ちゃんの家にもなるんですけど…」
「そうだった」

私が冗談っぽく笑うとクザンもつられて笑った。正直、これからどうなるのかは想像もつかないが、まあ何とかなるのだろう。生活の変化は確かに待ち受けているというのに、それ以外は何も変わらない気がした。


それって愛でしょ 20話


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