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「もう仕事には慣れましたか?」

私から給与袋を両手で受け取った土井先生は、顔を上げてにっこりと微笑んだ。その優しい声音と表情に、素直に見惚れてしまって僅かに反応が遅れる。

「は、はい。皆さん良くしてくださるので、大分慣れてきたと思います」
「それはよかった。何かとここは特殊な学園ですから馴染めるかどうか心配でしたが…余計なお世話でしたね」

生徒扱いはされていないと思うのだが、やはり癖でそうなのか、どこか生徒に向けるような柔らかい言葉にくすぐったくなる。いや、正直土井先生の心配は杞憂ではないのだ。最初の頃は目の前で破裂するバレーボールに心底驚き、どこからともなく聞こえてくる轟音に青ざめ、夜中のギンギンという謎の声に飛び起きていた。
だが、慣れとは恐ろしいもので、個性豊かな生徒に触れていると段々とそれが日常と化してきた。慣れが発生する時点で、私もこの学園の適正はあるのかもしれないが。

「皆さんの助けあってこそですよ。一年は組の子にも、よく助けてもらってます」
「え?うちの子たちにですか?め、迷惑とかは…」
「全然」

私が笑顔で首を横に振ると、土井先生と、後ろで話を聞いていた山田先生がほっと息をつく。何かと問題の種になるらしい一年は組の担任、という気苦労が一瞬にして推し量れてしまい、お節介な同情心が湧いた。は組がよい子ばかりであるというのは違いないのだが、担任となると大変だろうなというのは容易に想像ができる。

「何かあったらすぐに私達に言ってください。あ、勿論は組関連以外のことでも」
「はい、ありがとうございます」

やたら気にかけてもらっている気がするのだが、勘違いだろうか。新人職員として気にかけてもらえるのは申し訳なさ半分、嬉しさ半分で微妙にどんな反応を取ったらいいか分からなくなる。土井先生のようなかっこいい人相手だとなおさらドギマギしてしまう気持ちが湧いて出た。
土井先生、これで独身なんだもんなあと吉野先生から聞いた情報を思いだす。物腰も柔らかくて、優しくて、格好良くて。初めて会った時はこんな素敵な男性が世の中にいたのかと軽いカルチャーショックを受けたほどだ。同時に、自分がいかに男性という生き物を狭い視野で見ていたか思い知らされた。

はあ、と桃色のため息をつきそうになったところで我に返り、慌てて土井先生と山田先生の挨拶を告げて退室する。ううん、かっこいいって時には罪なものなのだな。呼吸を整えてから事務室に戻ろうと踏み出すと、遠くから弾んだ声が響いた。

「名前さ〜ん!」
「あ、尾浜くん」

渡り廊下から満面の笑みで大きく手を振る尾浜くん。私を見かけると必ず挨拶してくれる尾浜くんなので今回もそうだと思ったのだが、ぱたぱたと駆け寄られて少し驚く。どうやら何か用事があるらしい。

「今お仕事忙しい?」
「ううん、ちょうどひと段落ついたところ」
「よかった。じゃあおれとお茶しません?学園長先生にお菓子貰ったんです」

そう言って尾浜くんは菓子をしまっているであろう懐を指さして無邪気に笑った。その幼さが残るかわいらしい表情に、つい笑みがこぼれる。大人っぽすぎる表情をすることもあれば、今みたいに年相応な表情を見せることもあって、振れ幅の大きさにどちらの表情を見ても毎度新鮮な気持ちが湧いてくる。

「じゃあお言葉に甘えてご一緒させてもらおうかな」
「やったー!日当たりのいいあっちに行きましょう」

上機嫌な尾浜くんに手を引かれるがままついていくと、心地よい風の吹く縁側まで案内されて腰を降ろす。座らされたということは、お茶の準備に動き回る尾浜くんを手伝おうとすると多分「座っててください!」と言われる。申し訳なさを募らせながら尾浜くんを視線で追っていると、少ししてから香り立つ熱々のお茶が運ばれてきた。
そして私の隣に腰を降ろした尾浜くんから懐紙に包まれた菓子を渡される。そっと開くと、小さな花が手のひらで咲いた。ふんわりと色付けがされた、桜の形を模した練りきりだった。

「かわいい……」
「ふふ。名前さん好きそうだな〜と思って」

尾浜くんのそれには好意が含まれていると分かるのに、押しつけがましさもいやらしさも感じなかった。今まで通りに、という私のわがままを受け入れて、心地の良い距離感を保ってくれている尾浜くんには本当に頭が上がらない。尾浜くんがそうしてくれるのだから、私も変に申し訳なさを感じたりせずに、ただ尾浜くんと楽しくおしゃべりする。それが私なりの誠意だった。

「そういえばさっきため息ついてませんでした?何かあったんです?」
「ん?…ああ、いや、大したことじゃないんだけど」
「うん」
「土井先生かっこいいよなあって…」
「げほっっ」

お茶を飲んでいた尾浜くんが盛大にむせるものだから慌てて懐紙を差し出す。だが、尾浜くんはそれを手で制して、何度か咳ばらいを繰り返してから薄っすらと涙の膜が張った瞳で私を見上げた。

「だ…大丈夫です…。突然の敵わないライバルにびっくりしただけですから…」
「あ、いや!あの、全然そういう感じじゃなくてね!」

勘違いを招くような失言をしていたことに気が付いて、何とか聞く耳を持ってもらおうとぶんぶんと手を振って否定する。尾浜くんはこほ、と咳き込みながらも先の言葉を促すように首を傾げた。

「勘違いかもしれないんだけど、やたら土井先生に気にかけてもらっているような気がして…。土井先生みたいなかっこいい人に心配されるとドギマギしちゃうよね、ってこと!」
「気にかけてもらってる?」
「学園には馴染めたかとか、仕事は大丈夫かとか、そういう」
「ああ…なるほど」

呼吸も落ち着いたらしい尾浜くんは話の内容に何か思い当たったのか、納得したように頷く。

「名前さんってあれだもんね、頼まれた仕事は断れなくて抱え込んじゃって、大丈夫だろうって周りから放置されるといつのまにか潰れちゃう感じの人だから、先生達が一番放っておけないタイプなんだと思うよ。目放しちゃいけないって思われてるのかも」

客観視された私という人間の不甲斐なさに崩れ落ちると、尾浜くんから「わ、悪い意味じゃなくて!」と優しいフォローが飛んでくる。一から十まで当たっているため、一切の反論の余地がない。

「そうか…そういう事だったんだ……」
「わー!!余計なこと言ったよねおれ!すみません!」
「いや、大丈夫…本当のことだもの……」

前々から尾浜くんに言われていたのはそういう部分なのだから、私がそういう人間だというのは紛れもない事実である。改善も少し見られているとは思うのだが、何もかも綺麗さっぱり変えるのはそう簡単なことではない。しかし、自覚できている時点で大きな一歩は踏み出せているはずだ。

「本当のことだし、私はそういう人間だけど…ちょっとずつ、よ、良くなってないかな?」
「…良くなってるよ」

尾浜くんはふんわりと笑った。学園に来てから私という人間を傍で見ている尾浜くんがそう言ってくれるならば、確かにそうなのだと思いたい。

「尾浜くんのおかげだね」
「えっ」
「尾浜くんが助けたい、って言ってくれたからだよ」

尾浜くんはまあるい瞳をぱちぱちと瞬かせたかと思うと、勢いよく私から顔を背けた。突然の拒否反応に驚いて顔を覗き込もうとすると「ちょっとまって、」と弱々しい声が、顔を覆った尾浜くんの手のひらからこぼれる。

「かっこ悪い顔してるから…今は見ないでください」
「…そう言われると、ちょっと気になる」
「……いじわるだ」

ないはずの悪戯心がくすぐられてその手首を柔く掴んで解きたい気持ちになったが、どこか舌足らずな文句を受けて更に意地悪をするほどの度胸はなく。覆いきれていない耳が僅かに赤いことになんだかこちらまで照れ臭くなっていると、幾分か顔の熱が治まったらしい尾浜くんに恨みがましい視線を送られる。

「ずるいなあ。ぺろっとそういうこと言っちゃうんだから」
「尾浜くんも言ってる気がするけど…」
「え〜響いてないじゃん〜」
「響いてるよ」

駄々をこねる子供のような尾浜くんに笑っていると、空の彼方から「いけいけどんどーん!」という快活な声が響いた気がして視線を上げる。一拍置いて尾浜くんが「やば、」と呟いたのを聞いたのが最後だった。

轟音が響いて後頭部にガツンと何かが当たる。当たるというより殴られるのほうが感覚的には近かった。目の前に星が飛んで、真っ白になって、私はそのまま意識を飛ばした。

慣れたはずだったんだけどなあ。まだまだ予想がつかないことが起きるのが、忍術学園という場所なのだろう。とりあえず、七松くんは人間の域を超えていると思うのだ。


モラトリアムと青い春 9話


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