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TopMainモラトリアムと青い春
衣擦れ音が響く体術の授業中。兵助と組み合いながら(といっても技の確認だから緊張感はない)勘右衛門は遠くで怒号を飛ばしている木下先生を眺めて、ある事を考えていた。

「ねえ兵助、ふと思ったんだけどさ」
「ん?」

勘右衛門の胸元を掴みながら足を引っかけようとしていた兵助が顔を上げる。相変わらず睫毛が長いなと意味もなく目元を見つめながら、勘右衛門は確かめたくないが、気になってしょうがないことを恐る恐る口にした。

「名前さんのことバレたらおれ、木下先生に殺されない…?」
「……もうバレてるんじゃないか?」
「怖いこと言うなよ〜〜」

正直勘右衛門もそう思っていたことを兵助から改めて口にされて、落胆と共に項垂れる。急に脱力して兵助の腕に身を任せると、バランスを崩しそうになった兵助が「わっ」と声を上げながら勘右衛門を支えた。

「でも別に、木下先生はわざわざ口出したりもしない気がするけど…」
「まあね…、でも万が一ってこともあるじゃん。先生にとってはかわいい姪っ子だよ?」
「うーん」

三郎なら知るか、と一蹴しそうな話題をちゃんと一緒に悩んでくれる兵助に、優しいよなあと改めて同室の人の好さを噛みしめる。もはや組み合いの体を成していない体勢のままうだうだと話をしていると、木下先生の近づいてくる気配を感じて慌てて体を起こした。
背中に冷や汗が伝うのを感じながら、沙汰が下りるのを待つ気持ちで様子を窺っていると、木下先生は勘右衛門らの近くに来て特に怒号を飛ばすわけでもなく静かに佇んだ。

「勘右衛門」
「はいっ」

唐突に名を呼ばれて、ぴしゃりと定規を差されたかのように背が伸びる。きびきびと木下先生の元に駆け寄ると、木下先生は「ふむ、」と顎をさすった。

「いや、授業にはちょっと関係ないんだがな」
「はい」
「名前のことを何かと手助けしているらしいな」
「は、はい…まあ、その、大したことはしていませんが…」

ちょうど話題に上げていたことを持ち出されて、勘右衛門の心臓は飛び出すんじゃないかというくらいに跳ねた。無意識に眼力の強さから逃れるように視線を空に彷徨わせていると、木下先生がふっと笑った。思いがけないそれに、勘右衛門は驚いて木下先生の顔に視線を戻す。

「私からも礼を言おう」
「えっ」
「何かと頼るのが下手な奴だろう、あいつは」

そう言った木下先生の表情の柔らかさに、勘右衛門は自分の目を疑った。あの鬼のような木下先生が、あたたかな笑みを浮かべている!衝撃的な事実に思わず振り返って兵助を大声で呼びたくなったが、ぐっとこらえた。

「これからも少し気にかけてやってくれると助かる」
「そ、れは勿論…」
「そう言うと思ったぞ」

呆然としながら返事をすると、木下先生はにやりと笑った。その笑みの意味するところを察して、勘右衛門は一瞬にして血の気が引く。おそらく己の顔は今真っ青だろう。だが、木下先生はそれ以上追及することなく踵を返して、他の生徒の指導に向かった。
震える足を叱咤して、勘右衛門は兵助の元へ戻る。木下先生に呼び出された勘右衛門が血の気のない顔で帰ってきたものだから、兵助は一層心配しながら「大丈夫か?」と問うた。

「ぜっったいバレてる…絶対バレてるって…」
「ああ…」
「でも怒られはしなかった…」
「そうだろうな」
「はあ〜〜、もうだめだ兵助。おれはだめだよ」
「怒られなかったんだから好きにしろってことだろう?」
「それでも知られてると分かった時点で生きた心地がしない!」

それはそう、と兵助は憐れむように頷いた。まあでも、公認、公認だと考えれば少しは気が楽なのかもしれない、と勘右衛門はなんとか自身を落ち着かせる。そうか、公認。親ではないが叔父だ。叔父公認という字面はそれほど悪いものでもない。
ふう、と息をついて何とか正気を取り戻した勘右衛門は、遠ざかっていく木下先生の背中を見つめて、以前名前が照れくさそうに打ち明けてくれたことを思い出していた。

「…名前さんさ、木下先生が初恋なんだって」
「へえ…」

勘右衛門が呟いた内容に、特に驚くわけでもない兵助のリアクション。それに、自分が聞いた時の反応が重なった勘右衛門はため息をついた。

「まあ、分かるって感じなんだけどさ…」

そう、分かるのだ。意外でも何でもない。名前のような人物の傍に、木下先生のような人がいたらそうなるだろう。教師として見せる顔とはまた違い、姪相手となればきっと出来た大人の手本のような、そういうポジションに据わっていたであろうことは容易に想像できた。実際に名前から聞いた話も概ねそんな感じであった。
初恋がね、と声を潜めて教えてくれた名前のくすぐったそうな姿に、勘右衛門は目的地が物凄く遠くなったような気分を抱いていた。好きになってもらえるのであれば好きになってもらいたいに決まっている。だが、手本が木下先生だなんて。色々な意味で前途多難だ。

「おれ、木下先生みたいになれるかな…」
「どうだろう、元の顔立ちが全然違うからな」
「顔の話じゃないよ兵助……」

急に発動された同室の天然に、勘右衛門はがっくしと肩を落とした。


モラトリアムと青い春 10話


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