王都へ
それから、クララはエルヴィンを見かけては、常に目で追うようになっていた。
早朝の食堂の窓から僅かに見えるトレーニング姿。
朝のまだ眠そうな時に朝食を食べている姿。
忙しくしているのか、みんなより遅れて昼食にやってきては、食べながらも書類に目を通している姿。
廊下で部下と雑談会議をしている姿。
全部、クララには愛おしく感じていた。
そんなエルヴィンに声をかける勇気はなく、ただそっと遠くから見つめるだけの日々が続いていた。
それでも、クララには十分な幸福感があった。
見つめるだけの恋をするのは苦しい。
だけど、もう若くはないし、しかも未亡人の自分が前に進むのは、様々な葛藤もあってもっと苦しいだけだと、クララは知っていたからだ。
“このままでいいの”
そう思いながら、エルヴィンへの恋心を心の奥底で温めていた。
とある日の午後。
クララがお昼の片付けをしていると、ジェームズがクララに声をかける。
「おい。ちょっと付いて来い。」
はて?何の用だろう?
調理場以外でジェームズと話すことなんてなかったので、クララは不思議に思っていた。
ジェームズについて行くと、団長室の前で足を止める。
え?団長室?
クララは自分が何かしてしまったのだろうかと、最近の自分の事を必死に思い出そうとしていた。
昨日、新兵の一人がお腹が痛いと言っていたのは、実は自分のパンのせいだったとか?
最近ボーッとしているから、何か異物を混入してしまっていたとか?
いやいや、もっと自分の気付かないところで、大変なヘマをしてしまっていたのかもしれない・・・
クララは、用件の予想も付かずに一人青ざめていた。
コンコン・・・
ジェームズが、ノックしたドアを開けると言った。
「おい、エルヴィン。連れてきたぞ。」
「あぁ、ジェームズ。
忙しいところすまない。
ひとまず、そちらのソファにでも掛けてくれ。」
エルヴィンに促され、ジェームズとクララは、この間パンを持って来た時に座ったソファに腰掛けた。
エルヴィンはその時の斜め向かいのソファとは違い、クララ達の向かいの一人掛けのソファに浅く腰掛け、前のめりな体勢で話そうとしている。
“あぁ、仕事モードだ”
当然ながらも、こないだの雰囲気とは全く違うエルヴィンの様子にクララは察知する。
「担当直入に言う。
クララ・ベッカー、君に王都から要請が来ている。」
“えっ?今なんて?”
「君はここの調査兵団に配属される前、一度王都のレストランの調理人として誘いを受けていたのは覚えがあるか?」
「・・・はい。」
確かにそんな話があった。
あの時は本当にどうでも良くて、憲兵団や王政の人たちに言われるがままに、王都のレストランへ連れて行かれた事があった。
その時、無気力で無愛想でニコリともしない自分を、そこの料理長が“こんな愛想のないやつは必要ない”と言い、王都の調理人としては不適合だと判断されたはずだ。
なのに、なぜまた今頃?
「あちらの料理長が最近変わったらしくてな。
何処で聞いたのかは知らないが、君がここ調査兵団で評判の良いパンを焼いていると聞きつけたらしい。
また、以前ウォール・マリア時代に王都にもパンをお捧げしていた事があったのだろう?
それを覚えていた貴族たちが、また君のパンが食べたいと言っているそうでな。
調査兵団から引き抜きたいとのことだ。」
エルヴィンはクララへの要請内容を淡々と話した。
クララは頭が真っ白になっていた。
今の平穏な自分があるのは、ここの調査兵団の人たちのお陰だ。
口は悪くても何事もフォローしてくれるジェームズ。
自分を頼ってくれる新兵たち。
友達のように屈託無く接してくれるハンジ。
そして、エルヴィン。
あなたへ恋をしていると気付いてから、恋する気持ちは苦しいながらも、もう無意味だと思っていた私の人生に彩りを与えてくれた。
“ここを離れたくない”
素直にクララはそう思っていた。
「・・・それは、絶対的な要請なのですか?」
恐る恐る尋ねてみる。
「王都からの要請だからな。
なかなか断るのは難しいだろう。」
そうなんだ・・・
クララは言葉も出ずに、すっかり落ち込んでしまっていた。
「それでだ。
あちらの料理長が、一度君と面談したいそうだ。
急なんだが、明日朝食が済んだら、私と一緒に王都に出向いて欲しい。
今後の話になるだろうから、少し長くなると思う。」
エルヴィンは、ジェームズにも明日の段取りを話し、王都へ出掛ける準備を進めていた。
「まったく、王都ってのは自分勝手な奴らばかりだ!」
団長室を出て廊下を歩きながら、ジェームズは一人荒々しく怒りを表していた。
「大体、調査兵団の調理人は二人しかいないってのによ、そのうちの一人を引き抜くとか、正気の沙汰じゃねぇ。
またワシに一人で働けってことか!?」
あぁそうだった。
ジェームズはクララが来るまでは、ここの調理場を一人で守ってきた。
もちろん他から調理人がやってくることは定期的にあった。
だが、壁外調査の後の兵士の惨状を目の当たりにして、続かないものばかりだった。
クララだって、何度も兵士たちの命に接し、逃げたくなることもあった。
だから、続かなかった調理人を責める気持ちもなかった。
ジェームズだって同じだろう。
奇跡的にクララはここで長く働く調理人となったが、もしまた居なくなったら・・・
ジェームズは、また一人でここを守っていかなくてはならない。
しかも、もうそこそこの歳だ。
クララは、ジェームズの事が気掛かりでならなかった。
次の日の朝。
朝食の時間が終わり、片付けもままならないまま、クララはエルヴィンとの待ち合わせ場所に向かった。
場所は馬小屋。
クララが先に着くが、嫌な予感しかなかった。
「えっと・・・、馬車は見当たらないけど、もしかして乗馬?」
クララは一人呟き、青ざめた。
馬に乗れなかったからだ。
程なくして、エルヴィンは自分の馬に乗りながら、横には違う馬を引き連れてやってきた。
「エルヴィン団長、おはようございます。
・・・あの、もしかして、馬に乗って行くのですか?」
エルヴィンは不思議そうな顔をする。
「おはよう。待たせたかな?
あぁ、馬に乗って行くが、何か問題でも?」
「あの・・・、非常に申し上げにくいのですが、私、馬とは無縁の生活を送っていたので、馬に乗れないんです・・・」
顔から火が出そうなくらい恥ずかしかった。
子供の頃から乗馬の練習はさせられてはいたが、全く上手くいかず、大人になっても日々パンを焼くだけの生活だったので、馬に乗れなくても大して困っていなかった。
“こんなことなら、もっと練習しておくんだった”
クララは心底後悔していた。
「それは申し訳ない。
ここでは馬の乗れない人間はいないから、すっかり見落としていた。
私の配慮不足だ。」
エルヴィンは、どうしようかと困った顔をしていたが、それ以上に困った顔をしているクララを見て、ふっと小さな笑みがこぼれる。
調査兵団に居ると、一般的な人の生活に触れることは少ない。
異常な三年間の訓練を耐え抜いた者しか居ないからだ。
そう考えると、クララはごく普通の女性である。
あまり遭遇しない状況に、エルヴィンはなんだか気持ちが解されていた。
「乗れないものは仕方ない。
馬車を手配している暇もないから、少々乗り心地は悪いが、とりあえずは私の後ろに乗って行きなさい。」
エルヴィンは、心なしか楽しそうに話している。
「え・・・でも・・・」
クララは目を白黒させていた。
ただでさえエルヴィンと二人きりという状況にドギマギしているのに、馬の後ろに乗せてもらうなんてことになったら、どうなるだろうか。
そんなクララの心配をよそに、エルヴィンは早々ともう一頭の馬を馬小屋に繋ぐと、クララを自分の馬に乗るように抱き上げる。
「えっ!?ちょっと待って・・・」
「こら、暴れない。」
エルヴィンは、子供を抱きかかえるようにクララを馬に乗せると、自分もヒョイと前に乗る。
「落ちないようにしっかり掴まっておくように。」
そう言うと、エルヴィンはクララに無邪気に微笑み、馬を颯爽と走らせた。
王都への道のりはあっという間だった。
乗馬の出来ないクララには、普段なら馬のスピードは速くて怖いものだが、エルヴィンの背中に掴まり、風に乗って漂う彼の香りが、クララの心をくすぐり、心地の良い時間を作っていた。
それにしても、自分の高鳴る心臓の音がエルヴィンに聞こえてしまわないか心配で、エルヴィンの背中と自分との距離を一定間隔保とうとしていた。
「しっかり掴まらないと落ちてしまうぞ。」
クララが遠慮してぎこちなく服の端だけを掴んでいたので、エルヴィンは笑いながらクララの右手を自分のお腹の辺りへ回す。
クララは心臓が止まりそうだった。
もう何が何だかわからず、左手もエルヴィンのお腹へぎゅっと回すと、真っ赤に染まった顔を彼の背中へ埋めた。
暖かくて大きな背中。
いつも見つめているだけの背中が自分の腕の中にあることに、とてもドキドキする。
エルヴィンもまた、背中に感じるクララの体温を心地よく感じながら、馬を走らせていた。
自分を後ろからぎゅっと抱き締めるように捕まるクララに、言いようのない感情が込み上げていた。
そして、クララを前にすると、自分はただの“エルヴィン・スミス”で居られる事に、小さな喜びを感じていた。
普段シリアスな顔と作り笑顔が大半のエルヴィンが、クララと話すときは自然に頬が緩んでいることに自分でも気付いていた。
それでもやはり、兵士として人類に心臓を捧げ、調査兵団の団長として兵士たちの命を預かる限り、私情は無用なものだと高を括り、相変わらずクララへの感情には目を背けていた。
高鳴る胸の鼓動を感じながら・・・
王都へ着き、エルヴィンはクララを馬から降ろす。
「酔ったりしなかったか?」
いつもと違う環境で、気持ちが少しばかり解放してしまったのか、エルヴィンは少し近い距離でクララの顔を覗き込んでいた。
綺麗なブルーの瞳がクララを見つめる。
「大丈夫です。」
突然エルヴィンに顔を覗き込まれたので、クララは心臓が飛び出しそうなくらい驚いていたが、気丈に振る舞いながら顔を反らす。
今自分はどんな顔をしているだろう。
苦手な馬は大丈夫だった。
でも、腕の中に残るエルヴィンの感覚とエルヴィンの言動に、クララは身体中が火照っていた。
とにかく向き合っていられない・・・
そう思ったクララは、“行きましょう”とエルヴィンの背中を押す。
“これ以上二人きりの時間が続いたら、心臓がもたないわ・・・”
一方のエルヴィンは、クララに気押しされ苦笑いしていた。
クララの顔を覗き込んだら顔を反らされ、早く行こうと背中を押されていた。
“まいったな・・・”
否応が無しに、自分が舞い上がっている事に気付かされる。
二人の想いは交錯しながら、王都の扉を開いた。
王都での協議が始まってから、二時間が経っていた。
「ですが、料理長、我が調査兵団も彼女の働きに・・・」
「いや、君の主張は散々聞いた、スミス団長。
私はベッカー氏に直接尋ねている。」
エルヴィンの言葉を遮り、王都の料理長は強気で話していた。
「クララ・ベッカー。
そういうわけで、こちらとしては少しでも早く君に王都の調理人として働いてもらいたいと考えているが、いかがかな?
もちろん、ウォール・シーナでの生活は一生涯保証する。」
王都の料理長が、クララに直接交渉をもちかける。
交渉と言うよりは、ほぼ命令みたいなものだ。
王都からの要請をないがしろにすることは、反逆にも近い行動だからだ。
料理長もそれを分かっているため、強気な姿勢を崩さない。
付き添っていたエルヴィンも、クララを王都へ手放すつもりはさらさらなかったが、王都側の頑なな姿勢を前に、いつもの饒舌な断りも空を切ってしまっていた。
クララの異動は避けられなさそうな雰囲気だ。
だけどクララは、どうしても調査兵団での仕事を放棄出来なかった。
“私にはあの場所しかない”
ジェームズや兵団のみんな、星になった数々の兵士たちの顔が思い浮かぶ。
クララは、ひとつ大きく呼吸して意を決して話した。
「本当に有り難いお話なのですが、私は今回のお話を辞退したいと思います。」
王都の料理長は目を丸くして驚いた。
エルヴィンもまた、突然のクララの発言に正気かと言わんばかりに驚いている。
王都の要請を断るということは、どういうことか解った上で話しているのだろうか。
しかしクララは構わず、凛とした態度で話し続ける。
「私は、ウォール・マリアから流れてきた難民です。
ウォール・シーナのような神聖な場所には、とても馴染めません。
故郷から一番遠いところに離れてしまうことも、私の心が受け入れられないでしょう。
そして今の私は、調査兵団の兵士たちの生き様に救われ、生かされています。
だから、今後も調査兵団の調理人として働かせて頂きたいです。」
クララは自分の意思をはっきり話した後、こう続けた。
「でも、私のパンを覚えてくださっていて、求めてくださっている貴族の方々には、心から感謝しています。
今、私のパン屋はもう存在しませんが、こうやってお話を頂ける。
それだけで、とても光栄なことです。」
そして、少しためらった後、力強く言う。
「なので、私からも提案させてください。
私はここで働くことは出来ませんが、皆さんが求めてくださる私のパン、是非沢山の人に伝えたいです。
沢山の人に食べて貰いたい。
それは率直な私の願いです。
私の生き甲斐でもあります。
だから、これは私の希望ですが、私がここで働くのではなく、私のパンを一緒に焼いてくださる仲間を、王都から調査兵団にお招きしたいです。
そして、その方たちがいずれ王都で私のパンを焼いてくださるようでは、いけないでしょうか?
沢山の方に“グリュックブレッド”のパンを焼いてもらいたいです。」
その小さな会議室で聞いていた、全ての人が目を丸くしてクララの話を聞いていた。
王都の料理長やエルヴィンだけでなく、会話の記録係や護衛のものまで、クララの提案に息を飲んだ。
王都からの要請を拒否するだけでなく、逆に自分の元に王都から研修員を要請したいと言っているのだ。
団長のエルヴィンでさえも、調査兵団に料理人を増やすのは至難の技だ。
ただでさえ調査兵団は税金泥棒と罵られているのに、そんなクララの提案を誰が飲んでくれよう。
しかし、そう言うクララの眼には、力強さが秘められていた。
店の名前も、久しぶりに口にしたような気がした。
いつもなら、名前を口にするだけで、言いようの無い悲しさが込み上げてくるからだ。
だけど、今日は大丈夫。
むしろ、伝えたい。
家族と家を失ってからのこの二年間で、クララはとても強くなっていた。
エルヴィンは、クララの熱弁に聞き入り、力強いその横顔を見つめていた。
と同時に、彼女が夫と築き上げてきたであろうパンへの情熱を直に感じ取り、途方もない距離を感じていた。
自分とクララは、歩いている世界が全く違うのだと。
胸の奥がズキンと痛む音がした。
「・・・ごめんなさい、私のワガママです。」
クララの呟きに、エルヴィンはハッとする。
しばしの間、意識がここになかった。
クララの視線の先を見ると、王都の料理長が頭を抱えて悩んでいた。
まさか、クララが王都の調理人としての道を拒むとは思っていなかったのだろう。
しばらく考えた後に、料理長は言った。
「そこまで固い決意で言われると、中々辛いものがあるな。」
料理長は参ったと言わんばかりに、溜め息混じりの苦笑いを浮かべる。
「本来ならば、今回の要請を断るとなれば、それなりの処罰が下されるのだが・・・
君の言う通り、君のパンを求める貴族の方々は多くいる。
なので、ひとまずは君の希望を聞くことにしよう。
ただし、条件がある。
最低月に一度は、昔のように朝焼いたものを王都に捧げるように。
それのための人員も要るだろうから、こちらから数名調査兵団に送る。
君は、そのものにもパンの焼き方を教えてやって欲しい。
そうすれば、君の願いも叶うだろう。」
料理長の話を聞き、クララの瞳はみるみるうちに輝きを増していた。
「ありがとうございます!」
その瞳は少し潤んでいるようにも見えた。
そのクララのひたむきさに、エルヴィンの中にクララへの愛おしさが密かに押し寄せていた。
「以前から調査兵団には変わり者ばかりいるもんだと思っていたが・・・」
料理長はエルヴィンを見て小さく笑う。
「まさか、調理人まで変わり者だとはな。」
「それは光栄なお言葉だ。」
エルヴィンもまた小さく笑いながら言った。
そして、クララと目が合うと、彼女もまたエルヴィンを見て小さく微笑んだ。
王都での協議が終わり、クララとエルヴィンは帰路についていた。
本来の要請内容を変更し、王都主導のもと調査兵団に調理人を派遣されることになったので、書類手続きが長引いてしまい、すっかり遅くなってしまっていた。
だが、クララもエルヴィンも、思わぬ良い結果に疲れも吹き飛び、帰路の足取りは軽いものだった。
王都で軽く食事をとった後、馬車は手配せず、エルヴィンが馬を引きながら、夜道を二人寄り添って歩いていた。
「まさか、君があんなに情熱的に語り出すとはな。」
エルヴィンは昼間の協議を思い出しながら、笑いながらクララに話しかける。
「私も、正直驚いています。
冷静になった今考えれば、とんでもないこと言いましたよね、私。」
屈託ない笑顔で続ける。
「でも良かった。
ひとまずは調査兵団の調理人、クビにならなくて。」
「クビとは心外だな。
私は君を辞めさせようなんて思ったことはないがな。」
悪戯っぽく笑いながら、エルヴィンは言う。
「しかし、良かったよ。
君が王都へ召喚されるとなれば、兵団の皆に何と言い訳しようかと本気で悩んでいたからな。
君のパンが美味しいからと言うのはもちろんだが、君はもはや兵士たちの掛け替えの無い仲間だ。
失うのは大きな損失になるところだったよ。」
そして真顔になり、クララに向き合う。
「ありがとう。
調査兵団を選んでくれて。」
そう言って、愛おしい目でクララを見つめた。
クララは恥ずかしくなって、照れながらエルヴィンの背中を押す。
そんなに見つめないで。
顔がほんのりピンクに染まるのを、月夜に照らされて気付かれそう。
「もう遅いから帰りましょう。
明日もまた早くからパンを焼かなくちゃ。
ジェームズさん今日一人だったし、きっと不機嫌だわ。」
「そうだな。掴まりたまえ。」
そう言って馬に飛び乗り、クララも後ろに乗るよう腕を引っ張る。
クララは、調査兵団に残れることに安堵しながら、エルヴィンの大きな背中にゆっくりと自分の身を預けた。
このまま、あなたの背中について行かせてください。
そう心の中で呟いて。
二人が調査兵団の宿舎に帰ってきた頃は、もう夜がすっかり更けてしまって、森の中から虫の声が聞こえる以外は、何の音もしない闇夜だった。
馬小屋に着くと、エルヴィンは愛馬を指定の場所へ連れて行き、お疲れ様とポンポンと撫でる。
その仕草が子供をなだめるようで、クララの瞳にはエルヴィンが可愛らしく映っていた。
エルヴィンと目が合うと、優しく微笑み、今日はありがとうと言う。
さっきまで馬の後ろに乗るという口実で、彼の背中に抱きついていたクララ。
とても温かくて、落ち着いて、でもドキドキして。
まだ感覚が残っている身体が愛おしい。
そして、名残惜しい。
明日になれば、また見つめるだけの日々が戻ってくるだろう。
少しボーッと上の空だった。
「今、何を考えている?」
エルヴィンはクララに近づいては言う。
なんだか心の内を見透かされているよう。
でも今は恥ずかしさとかそんなのはなく、只々目の前の存在が愛おしい。
美しく輝く夜空の星は罪だ。
普段必死に抑えている気持ちを解放させてしまいそう。
クララは無意識のうちに手を伸ばし、エルヴィンの胸の中へそっと飛び込んでいく。
“好き・・・”
心の中で呟きながら。
エルヴィンもまた、突然自分の胸の中に飛び込んできたクララに驚きながらも、すっぽりと収まるその華奢な身体を抱きしめ返す。
胸の奥がきゅんと締め付けられる。
“今少しの間、エルヴィン・スミス個人で居てもいいだろうか・・・”
お互いの理性と様々な壁を挟んで、子供の様に素直に純粋に求め合うことが出来ない二人は、切なさを押し殺しながら、ただそのまま抱き合っていた。
トクントクン・・・
お互いの心臓の音が重なり合う。
心地良いその音に耳を澄ませ、二人はお互いの温もりを感じていた。
ふとクララは視線を感じてエルヴィンを見上げると、優しい眼差しのエルヴィンと目が合う。
そして、少しためらいながら、どちらからともなくチュッと軽い口付けを交わした。
ふふっと二人の頬がほころぶ。
言葉にならないけど、二人は目で会話する。
ねえ、もう一度していい?
ああ、いいよ。
チュッ
では俺からも。
チュッ、チュッ
あ、二回したわね。そしたら私も。
チュッ、チュッ・・・
無言なのにそんなじゃれ合う会話が聞こえてくるようで、クスクスと照れ笑いしながら、小鳥の様に軽いキスを何度も何度も口付けあった。
でも決してその先に進むこともなく・・・
何度口付け合っただろうか。
エルヴィンがようやく言葉を発する。
「そろそろ帰るか。」
「そうですね。」
名残惜しそうに二人はまたギュッと抱き合う。
きっと明日からはまた、団長と調理人。
楽しい時間をありがとう。
そうお礼を言うように、またチュッと軽く口付けを交わした。
「おやすみ。」
「ええ、おやすみなさい。」
二人は後ろ髪が引かれる思いで、それぞれの部屋へ戻って行った。
花季 -hanagoyomi-