研修員と私
眠い朝だった。
エルヴィンは重い瞼と必死に戦いながら、団長室で書類の整理をしていた。
昨夜は、クララの優しいキスと腕の中に抱いた感覚がなかなか消えず、あまりよく眠れなかった。
「おい、エルヴィン。」
横から黒髪の小柄な兵士が団長を呼び捨てにする。
兵士長のリヴァイだ。
朝からエルヴィンに呼び出され、書類の整理を手伝っていた。
「随分と眠そうだが、昨日は遅かったのか?」
「まぁ、そこそこな。
クララ・ベッカーの引き抜きはなくなり、代わりに調査兵団に調理人の研修員が数名来ることになった。
その手続きがそれなりに時間がかかった。」
エルヴィンは、リヴァイの方を向くことも無く、書類に目を通したまま端的に話した。
「ほぉ。王都からの要請を覆すとは、どんな話術を使ったんだ?」
リヴァイは興味深く聞いてくるが、エルヴィンはそれどころでなく眠かった。
「ベッカーが自ら、王都の要請を拒否し、逆に研修員を要請したまでだ。」
正直なところ、説明が面倒だった。
しかし、王都の要請を拒否するなど、ましてや逆に要望までも言い、しかもそれを叶えて来る者などそうそう居ないものだから、普段何事にも興味無さそうなリヴァイでさえも、目を丸くして驚き、詳しく教えて欲しそうな表情だった。
だが、エルヴィンの面倒そうな横顔を見て、リヴァイは聞くのを止めた。
またそのうち報告書が出るだろう。
それより、リヴァイには確認したい事があった。
「ところでエルヴィン、昨夜馬小屋に居たか?」
エルヴィンの眉がピクリと動く。
「ああ、馬で王都に行ったのだから、馬小屋に戻ってくるのは当たり前だろう。」
「・・・・・・」
リヴァイは、そうかというように黙り込んでいる。
しばらくの沈黙。
リヴァイから何か言ってくるのかと待っていたエルヴィンだが、何も話してこないことを察し、書類から目を離すことなく続けた。
「そうか、あの時の人影はお前か、リヴァイ。
覗き見とは悪趣味だな。」
クララと夢中でキスをしている時、僅かに人影があるような気がしていた。
特に見られたところで、適当にあしらえば良いと思っていたので余り気にしていなかったが、それはリヴァイだったのかと納得していた。
「別に覗き見するつもりだったわけじゃねぇよ。
俺も自分の馬に用があったのを思い出して、たまたま行ったらお前らがイチャイチャしてたってだけだ。
何であんなところで。
部屋に帰ってすればいいものを。」
リヴァイは、やれやれと溜め息をついている。
「あぁ、部屋に連れて帰ったことはないし、行ったこともない。
そもそも、そんな関係でもないしな。」
リヴァイは、先ほどの王都でのクララの話よりも大きく目を開き、はぁ?と訳がわからないと言わんばかりに驚いた。
「キスまでしておいてそんな関係でもないとか、お前ら正気か?
ケツの青いガキでもあるまいし。」
リヴァイの言うことは一理ある。
いい年した大人二人が、揃いも揃ってキスだけで満足しているとは、普通なら到底思えないだろう。
だがなんだろう。
自分たちには、昨日はそれがちょうどよい着地点だった。
キス以上のことを求めない事が、二人の距離を縮め、心を解し、柔らかい空気を作り出す・・・
それが暗黙の了解のような気がしていた。
だがそれは、当の本人たち以外は理解出来ないことだろう。
エルヴィンは、ようやく初めて書類から目を離し、リヴァイの方を見て笑った。
「確かにな。でもそれが事実だ。」
エルヴィンが諦めた様に笑って答えるのが気に入らず、リヴァイは吐き捨てる様に言う。
「それがお前の選択なのか?
随分と弱腰じゃねぇか。
まぁ俺には関係ねぇがな。」
「はは、リヴァイに心配されるとは思わなかったな。
だが私はそれでいい。」
そう言って、またエルヴィンは書類の整理に取り掛かり始めた。
それでいい?
クララとは本気ではないというのか?
いや、そんなはずはない。
昨日のあのクララを愛おしそうに見つめるエルヴィン。
あんなエルヴィンの顔なんか見たことがない。
愛する者とキスなんかしようものなら、俺なら押し倒さずにはいられないだろう。
そんな考えが巡りつつも、そうせずただ笑って“私はそれでいい”。
俺の事をバカにしてるのか?
リヴァイにとって、昨日のエルヴィンは初めて見るエルヴィンの人間らしいところのような気がしていた。
いつも何事にも冷静で、自分よりもずっと多くのことを考え、先の先まで見据えているエルヴィン。
そんなエルヴィンを尊敬しつつも、彼の本音や弱音を感じた事はなかったし、プライベートな情報も全くなかったので、いつもエルヴィンとの間には大きな距離を感じていた。
だから、昨日のエルヴィンの素の表情を垣間見たときは、大きく動揺した。
それと同時に、そんな表情も出来るのかと妙な安心感が芽生え、エルヴィンのプライベートを見守りたい気持ちが湧き出ていた。
でもなんだか釈然としない。
きっとこの明け透けた態度のせいだ。
どこまでこいつは自分を犠牲にしているのか・・・
リヴァイは何故かエルヴィンに対して苛立ちを感じずにはいられなかった。
バン!と団長室の扉が勢いよく開く音が響きわたる。
「ちょっと、エルヴィン!
どういうこと!?
クララが王都の要請を拒否して、しかも逆に調査兵団に研修員を要請したって、今ジェームズに聞いて兵士たちの間で話題持ちきりだよ!!」
ハンジが鼻息を荒くしながらやってきた。
「部屋に入るときはノックくらいしたまえ、ハンジ。」
エルヴィンは溜め息をつく。
それでもハンジは構わず、一体どういうことかと詰め寄ってくる。
寄りによってハンジか・・・
頼むから私に構わないでくれないか。
本当に眠くてたまらない。
エルヴィンは目頭を押さえながら言う。
「・・・わかった、わかったから、そこまで皆が気になるのなら、話を聞きたい者だけでいい、今夜夕飯の時に食堂に集まる様に伝えてくれ。
新しく食堂に調理人が来るから、その話をしよう。」
そして、もう限界だと言わんばかりに席を立つ。
「悪いが少し休ませてもらう。頭が痛い。」
そう言って自分の部屋へ帰って行った。
ハンジは何が起こったのか解らず、目をパチクリさせながらリヴァイの方を見るが、リヴァイもまた興味ないと言わんばかりに部屋を出て行った。
「ちょっと〜!今聞かせてよ〜!!」
ハンジの叫びが、虚しく団長室で響いていた。
「エルヴィン団長が夕飯の時にクララさんの話をするんだって!」
「なんでも、近々調理人の研修員が来るんだって!」
何故か夕飯前の食堂には人だかりが出来ていた。
これは一体どういうこと?
今日の仕事は既に終わったクララは、食堂の入口で騒めく人だかりに驚いていた。
というか、私の話をする?団長が?
もう訳が解らず目眩がしそうだ。
こっそりと食堂の入口で中の様子を伺っていたクララに、ふと誰かが声をかける。
「何をしているんだ?」
「・・・あ、エルヴィン団長」
何だか疲れた様な顔をしながら、エルヴィンが食堂にやってきた。
「っと、これは一体どういうことですか?
団長が私のことを話すって聞いたんですが、何を・・・」
「あぁ、ハンジが鼻息荒く、君が王都要請の件を拒否したことを話題にしていたよ。
何がどうなってこんなに話題になっているのか、私も知りたいよ。」
エルヴィンは溜め息をつく。
「君も来るか?
それとも、知らなかったフリをして部屋に戻るか?」
クララは迷った。
でも帰ったところでまた後日皆に聞かれるのは明白だし、元はと言えば、自分が派手に王都からの要請を拒否したのだから、それをエルヴィンだけに説明させるのも申し訳ない。
「・・・私も行きます。」
「そうか。」
エルヴィンはポツリとそれだけ言い、何を話せば良いのだろうと青ざめているクララを見つめ、フッと微笑んだ。
「それより、エルヴィン団長。
顔色が余り良くないみたいだけど・・・」
「あぁ、ただの寝不足だ。
昨日は誰かのせいで、よく寝付けなかったよ。」
悪戯に微笑むエルヴィンに、クララはキュンとなる。
昨日・・・
思わず顔が赤面する。
エルヴィンは、小さくクララのおデコをコツリとノックし、なんて顔してるんだと目を逸らしては
「行くぞ」
とだけ言い食堂の中に入って行った。
そんなエルヴィンの耳は、ほんのり赤くなってるような気がした。
ざわざわざわ・・・
エルヴィンが食堂に入ってくるなり、皆の声が小さくなり、何を話すのだろうと耳を澄ませていた。
そしてその後ろには、クララが申し訳なさそうに肩をすくめて歩いていた。
コホン。
エルヴィンは小さく咳払いすると食堂に集まる皆の前で話始めた。
「何がどうなって噂話になったのかは知らないが、先日調理人のクララ・ベッカーに王都召還の要請があった。
彼女のパンを王都で焼いて欲しいとのことだった。
昨日その協議があったが、ベッカーはここ調査兵団で働く事を希望したため、ここで焼いたパンを王都へ定期的に奉納することが決まった。
そのため、人手も必要だという事になり、来週からここに調理人の研修員が来る。
それだけの話だが、皆は何が聞きたいのだ?」
エルヴィンは小さい溜め息をついて話すので、兵士たちは質問もし辛く、仲間同士で互いに目配せをしていた。
沈黙を破ったのはハンジだった。
「はいは〜い!
クララが自分で交渉したってのは本当?」
「それは・・・」
エルヴィンは戸惑いながらクララの方を見ると、クララは頷いては自分が話しますと目配せをした。
「そうなの、ハンジ。
私がここに残りたいってワガママ言ったの。
良い機会だから少し話すわね。
私、ここの調査兵団の皆が大好きなの。
ご存知の通り、私には家族も親戚ももう誰もいないわ。
だけど、今はあなたたち皆が私にとっての家族だと思ってる。
だから、エルヴィン団長には随分とご心配とご面倒をかけちゃったのだけど、ここに残れるように手配してもらったの。
そんなわけだから、皆さん、これからもよろしくお願いします。」
クララは照れ臭そうに皆にお辞儀をした。
少しの沈黙の後、食堂には大きな拍手と兵士たちの喜ぶ声で溢れかえっていた。
クララは、エルヴィンに照れた顔で茶目っ気たっぷりに舌をペロッと出し、エヘヘと笑って見せた。
エルヴィンもまた、クララのおどけた顔を見て優しく微笑み返す。
不意にクララは兵士たちに呼び込まれ、一緒に夕飯を食べよう!と、騒めく人だかりに埋もれていった。
そんなクララは明るくて眩しかった。
エルヴィンは、一連の様子を嬉しそうに見つめていた。
見ている方が恥ずかしくなるくらい、愛おしさ全開のエルヴィンのたたずまいだったが、周りはクララのことに夢中でその様子には気付いていなかった。
数名を例外にして。
リヴァイはエルヴィンの本音を探り出そうと、必死にエルヴィンを観察していた。
料理長のジェームズもまた、初めて見るエルヴィンの柔らかい表情に驚きを隠せず、ただそれを静かに見守っていた。
それから一週間後、食堂では慌ただしく働くクララの姿があった。
「全く、騒がしいったらありゃしない。」
ジェームズがハンジに愚痴りながら、でもその顔は心なしか穏やかだ。
「な〜に言ってるんだよ、ジェームズ!
そんなに嬉しそうな顔してさ。
先日も“ベッカーが王都の要請を断ってきやがった、大した奴だ〜”なんて喜んでたのは誰さ〜。
おかげで大騒ぎになったんじゃないか〜。」
ニヤニヤしながらハンジはジェームズを茶化す。
「別に喜んでなんぞない。」
ジェームズは顔を真っ赤にしながら呟き、照れ隠しのためか調理場の奥の方へ消えていった。
ハンジもまた、嬉しそうにその様子を眺めては、ニコニコしながらクララを見守っていた。
ふとクララがハンジに気付き、こっちこっち!と手招きする。
昨日来た研修員二人と一緒だった。
「ハンジ、今大丈夫?
紹介するわね。
昨日からパン焼きの研修に来ているヴィリーとティアナよ。」
よろしくお願いしますと、二人の研修員がハンジに挨拶する。
スラッとした体型でイケメンの青年と、まだあどけなさが残る小柄な女の子だった。
「よろしくね。
私はここで分隊長をしているハンジ・ゾエだ。
何か力になれることがあれば、遠慮なく言ってくれ。
しかし、今回は随分と若い調理人なんだな。」
ハンジは驚いて言った。
「悪かったわね。
前回はおばさんだったものね。」
クララが膨れたフリをして言っては、ハンジと目が合いプッと笑いあう。
それを見ていた研修員の二人も、和やかな雰囲気に安堵しながら、四人は他愛もない会話を楽しんだ。
研修員の男の方のヴィリーは、なかなかのイケメンだった。
イケメンな上に優秀な彼は、きっと王都の調理場でも貴族の間でも大人気だったに違いない。
しかし、調査兵団でのパン焼きの研修の募集がかかった時、真っ先に手を挙げたのが彼だった。
彼もまた、子供の頃からのグリュックブレッドのファンだった。
もう今は幻となってしまった、あのふわふわのグリュックブレッドのパンの味が忘れられず、自分がそれを焼けるようになるかもと思うと、手を挙げずには居られなかった。
クララのパンは、自分が思っている以上に、人々の心に残っているパンだった。
女の子の方のティアナは、また別の理由で今回の研修を志願していた。
彼女の姉が、調査兵団に居ると聞いていたからだ。
実は、彼女の実家のあるウォール・マリアに巨人が進入した時、彼女の姉は訓練兵として、内地に居た。
家族みんなが次々と巨人に襲われる中、ティアナは一人命からがらウォール・ローゼに逃げ込んだ。
まだ幼かったティアナは、姉の存在を探す方法さえ分からず、町の食堂でただひたすら調理を勉強しながら、食べに来たお客さんから情報を集めていた。
そこで知った調査兵団に居るという情報。
真実はわからないけど、確かめないと。
その時、偶然見つけた憲兵団からのお達し。
調査兵団でのパン焼きの研修者募集の話だった。
これは運命だと思った。
ティアナはただ、姉に会いたい一心でそこに居た。
ヴィリーとティアナが調査兵団にやってきた初日、仕事が終わった後、ティアナはクララにここへ来た経緯を話した。
そして、尋ねる。
「クララさんは、何かご存知ないでしょうか。」
クララは目の前が真っ暗になった。
妹がウォール・マリアに居た・・・
似たような話を一年前に聞いていたからだ。
「ティアナ。お姉さんの名前は?」
クララは、恐る恐る確かめる。
すると、ティアナは躊躇わずに誇らし気に言う。
「私の姉の名は、ハンナです。」
やっぱり・・・
頭を鈍器で殴られたような鈍い頭痛がクララを襲う。
あぁ、ハンナ。
妹さんは生きていたわよ。
私のパンをお使いで買いに来ては、一緒につまみ食いしてたという妹。
家族や親戚、友人でさえも、助かった知り合いに会えなかったと言っていたわね。
けど、ここに一番愛おしい存在の妹が居るわ。
星になんて、なってなかった。
会わせてあげたかった。
クララはたまらず、ティアナを抱きしめる。
「あなたのお姉さんは、一年前、巨人との戦いで、人類の礎となったわ。
最期まで、貴方のことを想っていた。
会わせてあげられなくてごめんなさい。
でも、生きていてくれてありがとう。」
クララは、今は居ないハンナの代わりに、何度も何度もありがとうを言った。
ティアナもまた、抱きしめられるクララの腕に姉を感じ、静かに姉を想い泣いた。
そして、姉と一緒に食べたグリュックブレッドのパンを、きっといつか自分も焼けるようになるんだと、心に誓っていた。
花季 -hanagoyomi-