料理長




848年。

新年が明けて、年末年始をそれぞれの思うように過ごして帰ってきた数百人の兵士たちで、調査兵団の兵舎はいつものように活気で溢れていた。

食堂の調理場もまた、料理長のジェームズとクララ、研修員のヴィリーとティアナが、去年と同じく忙しい毎日を送っていた。





年が明けて一週間ほど経った頃の早朝。

皆が作業する横で、クララは調理場の片隅に残ってあったチーズを見つけては、こっそりパンの試作品を作っていた。

そして出来上がっては、ヴィリーとティアナに言う。


「今日は仕上げを二人に任せてもいいかしら?
後は焼いて器具を片付けるだけだわ。」


そう言って調理場を二人に任せると、試作品のパンを籠に詰め、クララは慌ただしく外へ出て行った。





クララは、まだ薄明るくなったばかりの訓練場に足を運んでは、人を探していた。

エルヴィンはいないかと。

年越しのあの日、外の空気を吸いに行ってから、エルヴィンは何となくよそよそしい感じがした。

目が合ったらいつもなら微笑み返してくれるのに、その後目を逸らされている気がする。

何かしただろうか・・・

クララは不安で仕方なかった。

でも話してみないことには理由も解らないし、意を決して確認してみることにした。

それに、もうすぐ壁外調査の予定も入ってるし、この先何が起こるかも解らない。

そう考えると、クララは無償にエルヴィンに会いたくなっていた。






訓練場の森の奥の方で、音が聞こえる。

そちらの方へ目をやると、可憐に立体機動装置の訓練をしているエルヴィンの姿が見えた。

胸の奥がキュンと熱くなる。

まだクララに気付かないエルヴィンは、真剣な面持ちで巨人に見立てた模型に斬りかかっている。

クララは、間近でエルヴィンが訓練する姿を見るのは初めてだった。

いつもは、比較的すぐにクララの存在に気付き、手を止めて駆け寄ってきてくれる。

だが今日は無心になっているのか、クララの存在に気付くことなく、ひたすら立体起動装置のガスを吹かせていた。

そんなエルヴィンに、クララはしばらく見惚れていた。





ようやく、エルヴィンはクララが訓練場の端で自分を見つめていることに気付くと、額に汗をじんわりにじませながら駆け寄ってくる。


「何か用だったか?」


「おはようございます、エルヴィン団長。」


にこやかに挨拶するクララが、エルヴィンには眩しかった。


「あぁ、おはよう。」


「ねぇ、今お時間よろしい?
パンの毒味に付き合ってくれないかしら?」


クララは茶目っ気たっぷりにエルヴィンを誘い出す。


「ああ、構わないよ。」


先日のキスマークを思い出し複雑な気持ちになりながらも、エルヴィンはクララの誘いに喜びを感じられずにはいられなかった。






二人は並んで中庭のいつものベンチに腰掛ける。


「こっちは、生地にチーズを練り込んであるパンで、こっちは角切りにしたチーズをゴロゴロ入れるだけにしてみたパン。
どっちがお好みかしら?」


クララは、さっき焼いたばかりのチーズのパンを広げ、エルヴィンに勧める。

二つのパンを食べ比べてみるが、どちらも本当に美味しい。

クララの焼くパンは、本当にいつも感動がある。


「どちらも美味くて、決めようがないな。」


エルヴィンは優しくクララに微笑む。


「それじゃあ、毒味係失敗ですよ。
ちゃんと教えて。」


真剣なフリをするクララだが、エルヴィンの横に居るだけで、言いようもない満足感で満たされていた。

やっぱり目を合わせてくれないと思ってたのは気のせいだったのかな・・・

そう思いつつ。


「うーむ、それじゃあ…」


エルヴィンが話そうとしたとき、手に持っていたパンを誤って落としそうになり、とっさに拾おうとした二人は手が触れ合った。

胸の奥でトクンと熱い鼓動がした。

二人は気まずそうに頬を紅く染めて、目を逸らしていた。





そして、エルヴィンの中に残る、クララの首元のキスマークのことがチラチラと顔を覗かせては、エルヴィンに戸惑いを起こさせる。

もし本当にクララに他の相手が居るのなら、自分はこんなところには居てはいけない・・・

あれから、ずっとそう考えていた。






エルヴィンは意を決して言う。


「君はこんなところに来ていても大丈夫なのか?
他にこのパンを食べさせたい相手がいるんじゃないのか?」


「えっ?どういうこと?」


クララは意味がわからないと言わんばかりに、目をパチクリさせている。


「その・・・」


どう言って良いのか解らず、エルヴィンは無意識のうちにクララの右の首元をじっと見つめていた。

エルヴィンの言おうとしていることを察知したのか、クララは自分の右の首元に手を当てぷっと吹き出す。


「どこ見てるのよ・・・えっち。」


「・・・あ、いや、その・・・すまない。」


エルヴィンは自分のあからさまな態度にハッと我に返り、顔を赤くして目を逸らす。


「それで、そんなによそよそしかったのね。
マフラーで隠してたつもりなのに、いつ気付かれたんだろう。」


クララは楽しそうに話しているが、それはこないだの首元の痣はキスマークであると証言しているものと同じだったので、エルヴィンの落胆さはさらに深くなっていた。


「・・・じゃあ
エルヴィン団長は、相手は誰だって思ってるの?」


「それが解らないからモヤモヤしている・・・」


最悪の気分だ。

そう思っていると、ふくれっ面なクララに思いっきりデコピンされる。


「・・・そう。この酔っ払い。」


「え?」


何がなんだか解らず、額をさすりながら、エルヴィンは目を白黒させる。


「あなたが、年末に酔っ払って付けたんでしょ。
私、心臓止まるかと思ったんだから。」


そう言っては、クララは一つ大きな溜め息を吐き、照れながら目を逸らしてパンを一口頬張った。






エルヴィンは、顔を真っ赤にしながら中庭にクララと腰掛けていた。

聞けば、年末の王都の忘年会からの帰宅後、水を飲みに来たついでにクララに抱きつき、そのまま首元にキスマークを付け、さらには唇にキスをして押し倒したとの事だった。

寝ぼけていたし、ミケとリヴァイがすぐに部屋に連れ戻してくれたので、それ以上のことはなかったようだが、考えれば考えるほど、無意識のうちに取った自分の行動に動揺を隠せないでいた。

と同時に、ここ数日のモヤモヤの原因がまさかの自分だったことに、果てしない安堵感で包まれていた。

横のクララをチラリと見ると、食べていたパンをちぎっては、近くにやって来た小鳥たちににこやかに与えている。





“ケツの青いガキでもあるまいし”


ふとエルヴィンの頭の中に、以前リヴァイが呟いた言葉が思い浮かぶ。


“あぁ、本当に俺はケツの青いガキと一緒かもしれんな・・・”


そう思いながら、それでも、もう三十そこそこの歳の男が、何を奥手ぶっているのだろうと思うと、なんだか情けなくなっていた。


“あぁ、好きだ。本当はこの手で無茶苦茶に抱いてしまいたい”


ずっと抑えている感情が、胸の奥からどんどん湧き出てくる。

どうしたらいいだろう。

自分の感情を出してしまえば、君はどうする?

受け入れる?

それとも拒否する?

あぁそうか、俺は調査兵団の団長だ。

もし君が俺を受け入れたところで、いつも俺は死と隣り合わせだ。

君に、俺の運命までも背負わせることは出来ない。





色々な感情が胸の奥でひしめきながら、それでもやっぱり自分の欲望には打ち勝てず、無意識のうちにクララに口付けていた。






エルヴィンのキスは、今までのそれよりも熱を帯びたキスだった。

唇は閉じているものの、力強くキスされ、エルヴィンの息遣いを感じる。

クララの身体の奥底から、熱いものが込み上げてくる。


「・・・っん」


息苦しくなって、吐息が漏れる。

どうしよう。

このまま抱かれたい。

クララは、自分の中で淫らな欲求が顔を出していることに驚きながら、目を閉じてエルヴィンのキスを受け入れ、全身でエルヴィンを感じていた。





エルヴィンもまた、クララの甘く切ない小さな吐息に、言いようのない痺れと興奮が押し寄せていた。

目をそっと開いてみると、クララは目を閉じ艶かしい表情で自分のキスを全身で受け入れている。

たまらない。

キスをやめ、きつくきつくクララを抱きしめる。

耳元にクララの熱い吐息がかかって、背中がゾクゾクする。





もう限界かと思ったとき、遠くの方からざわざわと人の声が聞こえてきたので、二人はパッと離れる。

クララと目が合うと、今にも泣きそうな顔で切なそうに自分を見つめている。


「そんな顔で見つめられては、私も耐えられそうにない・・・」


なんとか保っている理性を振り絞って、ぼそりと呟いた。






“もっとあなたを求めたい”


クララも耐えられず、エルヴィンにそう伝えようかと思ったとき、遠くから自分を呼ぶ声が聞こえる。


「クララ!!
クララ・ベッカー!!
居たら返事してくれー!!」


ハンジの声だ。

今はそっとしておいて欲しい・・・

そう切に思ったが、その声はとても緊迫しているようだった。

何事かと思い、ベンチから立ち上がり声のする方へ背伸びする。


「あ!いた!!クララ!!」


ハンジがこちらに気付いて慌ててやってくる。

そして息を切らしながら急いで言う。


「クララ、大変なんだ!
・・・料理長が、ジェームズが、倒れた!」


「えっ!?」


ドクンと心臓が大きく揺らぐ。

一体何が・・・


「とにかく、急いで食堂に!」


ハンジに促され、気付けばクララは調理場の方へ足を走らせていた。










調理場へ着くと、医務員と兵士数名がジェームズを支えて医務室へ運ぼうとしているところで、ヴィリーとティアナはどうしようと周りであたふたしていた。


「何が起こったの!?」


クララは青ざめた顔でヴィリーとティアナに聞く。


「クララさんがここを離れた後、ジェームズさんが水を飲みにやって来て、しばらく椅子に座っていたのですが、急に倒れてしまって・・・」


ティアナは今にも泣きそうだ。

一体、ジェームズの身に何が起こったのだろうか。

ひとまず医務室に運ぶとのことなので、調理場はヴィリーとティアナに任せ、クララはジェームズに付き添っていった。






医務室では、慌ただしく医務員たちがジェームズの症状を確認していた。

ジェームズの意識はなく、顔面蒼白で息使いも浅く早い。


「血圧が異常に低い。
原因はまだはっきり解りませんが、おそらく心臓の障害かと。
もしかしたら、今日が山場かもしれません。」


医務員は深刻な顔で言った。

クララは真っ青な顔で、近くにあった椅子に座り込んでしまった。

そして、それ以上の話が耳に入ってこなかった。

それを察知したのか、一緒についてきていたエルヴィンが、医務員に詳しく話を聞いている。


昨日は元気に見えたのに・・・

どうして?

頭の中が真っ白だ。





「クララ」

エルヴィンの自分を呼ぶ声が聞こえて、上を見上げる。

愛しい人。

でも今のクララにはそんなことはどうでも良かった。

目の前で、ジェームズの命が消えようとしている。

呆然とするクララに、エルヴィンは優しく説明する。


「クララ、よく聞いてくれ。
ジェームズは以前から心臓の調子が悪く、医務室で時折検査をしていたそうだ。
私も今聞いたんだが、ここ最近は特に年末あたりから調子が悪く、息切れが絶えなかったらしい。
このまま意識が戻らなかったら、かなり危ない状態だそうだ。
私は一度団長室に戻るから、君がジェームズについていてやって欲しい。
いいだろうか?」





そんな・・・

心臓が悪かっただなんて、私ちっとも知らなかった。

息切れ?

そんな素振りも見せてなかった。

いつも遅くまで仕事して・・・

そんな事なら、言ってくれてたら私が代わりに調理場に立ったのに。





エルヴィンを見上げるクララの瞳からは、静かに涙が流れていた。

エルヴィンはたまらなくなって、クララの涙を両手で拭い、その頭を抱きしめる。

そして、すぐ戻るからと一言言っては、医務室を慌ただしく出て行った。






それから数時間で、ジェームズの症状は見る見るうちに悪化し、意識が戻ることもなく静かに息を引き取った。

あっという間の出来事に、クララを始め、調査兵団の宿舎にいる人々全てが、闇夜に包まれたように沈んだ空気に包まれていた。

しかし悲しんでいる暇はなく、次の日にはまるで事務手続きをするかのようにジェームズの葬儀が行われ、そしてジェームズの身体は灰になり、あっという間に星になってしまった。





クララの心の中は、ポッカリと穴が空いたようだった。





どうしてこうも簡単に人は星になってしまうのだろう・・・






ジェームズの葬儀が終わった夜、クララはいつもの中庭で花を手向けていた。

壁外調査でもないのに花を手向けるなんて、考えてもいなかったから、いつもより一層の虚しさが襲っていた。

ジェームズなしで、これからどうやって調理場を運営していくのだろう。

しばらくの間、クララは一人ベンチに座り、いつものように満天の星屑をぼんやりと眺めていた。





「ここにいたのか。」


愛おしい声がクララを包む。

少しクララと距離を取ってベンチに座ったエルヴィンは、何も言わず一緒に星空を見上げた。

しばらく無言で星空を見上げていたクララは、隣に座ったエルヴィンにぽつりと呟いた。


「ねぇ、エルヴィン団長。
みんな、遠いところにいるわね。」


「あぁ、そうだな。」


「ジェームズさんと、私もっとお話しておけば良かった。
ジェームズさんは今まで調査兵団に長く居て、いろんなことを知ってたはずなのに、私彼のこと何も知らないし、聞いてこなかった。
彼の想い、誰かが受け継いでいたら良いのだけど・・・」


クララは後悔しているかのように静かに呟いていた。





それを見てエルヴィンは言う。


「それは、気にしなくていいんじゃないかな。
ジェームズは、私が調査兵団に来た時から調理場に居たが、ずっとあんな感じで誰かに心を打ち解けたりというタイプではなかったからな。
君が話を聞こうとしても、何も言わなかったかもしれないよ。」


そして続けて言う。


「私も人から聞いた話だからどこまでが本当かはわからないが、ジェームズの息子が、昔調査兵団に居たらしい。
だが、入団してすぐの壁外調査で、巨人に喰われてしまったという話だ。
その後、どこかで調理人をしていたジェームズが、息子の“人類の希望の礎となるように”という意思を継ごうと、調査兵団の調理人として勤務するようになったと聞いたよ。」


そうなんだ。

ジェームズさんにも辛い過去があったんですね。

クララは静かにエルヴィンの話に耳を傾けていた。






「あと・・・」


エルヴィンはクララの方に向き直して言う。


「君を調査兵団に迎え入れたいと希望したのは、他でもないジェームズだ。」


ドキンと、クララは自分の心臓の音が揺さぶられるのを感じた。


「詳しくは話してくれなかったが、君のパンのことをよく知っているようだった。
私の推測だが、君が生産者たちと難民生活をしていた頃、その仲間にジェームズの友人がいたんだと思う。
その時の評判を知っていたんだろう。
君のパンでなら、壁外調査で疲れ果てて帰ってきた兵士たちも、きっと元気になれる。
ジェームズは確信したように言っていた。
そして、仲間を沢山失った君のことをいつも暗示していた。」


そんな素振りなんて全く見せていなかったジェームズ。

自分のことをそんなに心配していてくれてたなんて。

無意識のうちに涙がポロポロと溢れてくる。


「だから、ジェームズの想いは受け継がれたかなんて、君は気にしなくていい。
ジェームズは、きっと君にそっと託していた筈だから。」






泣きじゃくるクララの肩を、エルヴィンはそっと抱いた。

そして、思っていた。

ジェームズは、エルヴィンにとっても大切な存在だった。

若かりし新兵の時からの間柄で、鼻息荒くして巨人と戦おうとしていた時、死に急ぐことだけは絶対にするなとなだめるのも、仲間を亡くして落ち込んでいる時そっと側に居たのも、全てジェームズだった。

遺されるものというのは、こうも辛いものか。





やはり、クララには自分の想いを伝えるなんてできない。

いつ死ぬか分からない自分、彼女を守ってやれるどころか、悲しませるだけの結果になるかもしれない。

そう密かに思い、エルヴィンはクララへの感情を心の奥底へ仕舞い込もうと決意していた。




花季 -hanagoyomi-