出張
春。
ジェームズが亡くなってから、三ヶ月が経っていた。
クララは調査兵団の正式な料理長となり、その補佐として研修員として来ていたティアナが働いていた。
ヴィリーは、無事にクララのパンの技術を引き継ぎ、王都のパン係として戻っていった。
元々料理が専門でないクララには、料理長の肩書きは少々大変な面もあったが、ジェームズが何気なく遺していた殴り書きのようなレシピを参考に、日々努力しながら兵団の食事を担っていた。
クララとエルヴィンの関係も、特に何も進展することなく過ぎていた。
ただ、パンの試作品の毒味係は、二人にとって唯一の楽しみとなっており、定期的に早朝の中庭に肩を並べて座っては、他愛もない会話を楽しんだりしていた。
ただ以前のようにキスしたりすることはなく、お互いに歩み寄ったりすることはなかったが、同じ歳という共通点が、いつも二人を和やかな空気に包んでいた。
側から見ても、決して二人が恋仲である様には見えなかったが、それでも二人の雰囲気はとても甘く、彼らをよく知るものたちは、二人の仲をいつも暖かい目で見守っていた。
ある日の午後、クララとティアナは団長室に呼び出されていた。
調理人が二人とも呼び出されるなんて、以前の王都への引き抜きの話を思い出し、何事かと思いクララは身構えていた。
「そんなに身構えなくてもいいよ、クララ料理長。」
エルヴィンは、はにかみながら話始める。
「いえ、滅多にない呼び出しだもの。
身構えないわけないわ。
それに、料理長の肩書きはやめて。」
クララは苦笑いする。
「そうか。
じゃあ本題に入ろう。
今回も王都の料理長から君への手紙が届いている。」
また?と言わんばかりに、クララの顔が引きつる。
「内容はこうだ。
王都の調理人として引き抜きたい所だが、それは君が拒否するだろうから、一週間ほど王都の調理人と交換留学はどうか。
君も急な料理長任命で大変だろう。
違う環境での調理もまた、勉強になるのではないか。
・・・との提案だ。
どうする?」
どうする?と言われても、自分に拒否権はあるのだろうか?
「断れば、どんなデメリットがありますか?」
「さあ、今回は要請ではないからな。
ただ、随分とあちらの料理長に気に入られているみたいだな。
行けばそれなりの人脈を掴めるかもしれないが、君にそれを強要するつもりはない。
行きたくなければ行かなくてもいい。
任せるよ。」
一週間も調査兵団を離れるなんて、クララには考えられなかったが、ジェームズが居なくなった今、自分の調理方針に自信がないのも確かだ。
行けば、何か勉強になるだろうか・・・
「わかりました。
一週間勉強のつもりで行ってきます。
ですが、ティアナ一人にここを任せられません。
勝手の解るヴィリーと、あと一人手伝って貰える人が来て頂ければ、安心して出掛けられます。
それはお願いできるでしょうか?」
前回の時と同じく、仕事に対して芯の通ったクララには、力強い瞳が宿る。
一人の人間として、また一人の女性として、それは尊敬に値する瞬間だ。
そして、そんなクララをついエルヴィンは愛おしく思ってしまう。
「わかった。
その条件で返答しておこう。
特別無理な条件ではないから、きっと要望は通るだろう。
そんなわけだから、ティアナ、クララが居ない間の食堂はよろしく頼むよ。」
「わかりました、頑張ります。」
そうティアナと言葉を交わしては、エルヴィンはクララと王都出張への段取りについて打ち合わせを始めていた。
ティアナは打ち合わせる二人を遠巻きに見つめていた。
エルヴィンのクララへの僅かな優しい眼差し。
そしてクララもまた、エルヴィンに想いを寄せていることは、毎日一緒に過ごしているティアナには明白だった。
もっと歩み寄ればいいのに・・・
ティアナはいつもそう思っていた。
クララの出発の前日。
クララの部屋では、小さな女子会が開かれていた。
ハンジとティアナ、それとティアナと仲良しの兵士二人が、クララの作ったクッキーを頬張っていた。
「もう。そのクッキーは皆に明日のティータイムにって作っておいたのに、今食べちゃうなんて・・・」
「え?いいじゃん。
時間の経たないうちの方が美味しいって。」
ハンジは美味しそうにクッキーを頬張る。
「それに、私明日からの荷造りで忙しいの。」
「ああ、それなら気にしないで。
私らに構わなくて大丈夫。
荷造り続けてくれたらいいから、ねえ、みんな?」
ハンジに話を振られ、頷く三人。
「そういう問題じゃないから・・・」
クララは溜め息を吐いた。
今夜は明日からの出張に備えて、準備を終えたら早々に休もうと思っていたのに、半ば強引にハンジに部屋に押しかけられ、それどころではなくなっていた。
「明日から、ヴィリーが来るんだよね?
ティアナ、嬉しかったりするの?」
一人の兵士がティアナに問いかける。
「まさか!ヴィリーは私より歳上だけど、世話しなきゃいけないから、うんざりよ。」
「わかる〜!
彼、残念なイケメンだもんね。
何もしなければいい男なのに〜!」
「そうそう!空気読めないからね!」
ワイワイと仲良し三人組で盛り上がっている。
ヴィリーの話となると、女子たちはいつも盛り上がる。
いつも張り詰めた雰囲気の調査兵団で、半分ネタ的な存在のヴィリーには、それさえ愛おしく思えることもあるが、こういつもいつも女子にからかわれてばかりいると、気の毒にさえ思えてくる。
「そんなこと言わないであげて。
ヴィリーなりに頑張ってるんだから。
それに、調理の腕前は確かだから。」
すると、クララの話を聞いたティアナは、これでもかと深く頷く。
「そうなんですよ!
空気読めない癖に、料理は私より遥かに上手いから、腹立つんです〜!」
皆、はははと笑い合う。
「ティアナ、明日から一週間よろしくね。」
クララは改まって言うと、ティアナは照れながら「任せてください」と胸を叩いた。
「ところで、クララ。
一週間もエルヴィンに会えないようじゃ、寂しいんじゃない?」
ハンジの一言にその場の空気が固まる。
皆が聞きたいことを代表して聞いてくれたハンジに、ティアナたちは心の中で“よくぞ聞いてくれました!”と、クララの返答を目を見張って待っていた。
「え?なんで?
そんなことないわよ。」
クララは一瞬焦ったが、荷造りしながら気持ちを落ち着かせようとする。
確かにしばらくエルヴィンに会えないのは寂しいが、それは自分が思っているだけで、自分はエルヴィンの何でもない。
それにジェームズが亡くなってから、お互いに忙しくしているというのもあるが、クララはエルヴィンとの間に距離があるような気がしていた。
以前と変わらず言葉は交わすし、早朝のパンの試食会だって少ないながらも続けていて、それはお互いに楽しく過ごしている。
だけど見つめ合うことがなくなっていた。
ふと目が合っても、何となくエルヴィンが目を逸らしているように感じていた。
悪戯にキスし合ってた頃が懐かしく感じるが、元々それ自体が可笑しな関係だった訳で、今の関係が正常な訳だし、クララもどこか諦めの境地に辿り着いていた。
「あんたたち、いつも仲良くしてるのに、そろそろくっついても良いんじゃないの?」
ハンジは荷造りしながら誤魔化そうとするクララに釘を刺す。
クララとエルヴィンの仲を知っている者からすれば、二人の関係はヤキモキするものだった。
またハンジにとっては、大好きな二人に幸せになって貰いたいという気持ちも大きい。
「そんな、くっつくだなんて野暮なこと言わないで。
仲良しに見えるのは、ただ同じ歳ってだけよ。」
「でもさぁ、エルヴィンがリラックスしてるのってクララの前くらいだと思うんだけど・・・」
「はいはい。」
クララは適当に相槌を打っては、荷造りしてる荷物に目を落とし、大きく溜め息を吐いた。
今日はしっかりと二人の関係を聞き込もうと気合いを入れていたハンジだったが、クララが溜め息を吐きながら答えるので、ハンジはそれ以上何も言えなくなってしまった。
ティアナたち三人も、明らかに機嫌の悪くなったクララの前には、何の言葉も見つからなかった。
「さ、そろそろ帰りなさい。
明日も皆それぞれ仕事があるでしょ。
私も寝るわ。」
クララは溜め息混じりの笑顔を向けながら、ハンジたちに部屋に帰るよう促した。
ハンジに言われなくったって、クララがエルヴィンのことを恋い焦がれていることは、自分でも痛いほど解っていた。
そして、少し前までは、エルヴィンも自分のことを特別に想っていてくれているかもという淡い期待も密かに胸に秘めていた。
だけど・・・
上手く言えないけど・・・
これ以上求めてはいけない気がしていた。
自分たちはただの同級生ではない。
相手は一兵団をまとめる団長であり、その背中に背負っているのは命そのもの。
自分の入る余地なんてどこにもない。
ただ自分は、その側で陰ながら見守っていけたら・・・
それだけで十分なんだ・・・
クララはベッドに寝転がり、目を瞑ってはそう思いを馳せていた。
次の日の朝。
クララは呼んでいた馬車に荷物を積み、出発の支度をしていた。
さて出発しようかと自分も馬車に乗り込もうと思ったその時、エルヴィンがひょっこりと現れる。
「ちょうど部屋から馬車が見えたから、見送りに来たよ。」
自分の仕事で休む暇もないくらい忙しいであろうエルヴィンが、わざわざ自分を見送りに来てくれたことに、クララは胸が締め付けられる。
そんなことされちゃったら、誰だって期待しちゃうわよ・・・
そう思いながら、自分の片想いの気持ちを隅に追いやっては、何とか気丈に振る舞う。
「ふふ、ありがとう。
私が居なくても寂しがらないでね。」
「はは、君こそな。
君の滞在の最終日辺り、私も王都に用事がある。
時間が出来たら冷やかしに行こうか?」
「冷やかしならいらないわ。
食事になら誘われてあげる。」
クララは、王都でエルヴィンに会えるかも!?と思うと心が跳ねるが、素直になれるわけもなく素っ気なく言う。
「そうか。
ならタイミングが合えば誘いに行くよ。」
「じゃあ期待しないで待ってるわ。」
「ああ、気をつけて。」
素直になれないもどかしさを感じながらも、エルヴィンに優しい笑顔で見送られることに、クララの心の中は嬉しさと温かさでいっぱいになっていた。
そしてクララもまた、優しい笑顔をエルヴィンに向けては、走り行く馬車の中から何度も手を振ってみせた。
クララが王都に着くと、王都の料理長は立派な宿を用意してくれていた。
ふかふかのベッドに、きらびやかな装飾が施されたドレッサー。
まるで、お姫様気分を味わえるような宿だった。
慣れない雰囲気に申し訳なく思いながら、その部屋で少し休憩を取った後に調理場へ足を運ぶと、そこには豪華な食材が溢れており、調理人の人出も沢山で、調査兵団のそれとは大きく違っていた。
クララはあっけにとられていた。
「やあ、クララ・ベッカー料理長。
やっと来てくれたか。
部屋は気に入ってくれたかい?
君が来てくれるのを心待ちにしていたよ。」
満面の笑みで料理長はクララを迎え入れる。
「料理長、一週間だけですが、どうぞよろしくお願いします。」
クララは挨拶する。
「君とは一度ゆっくりと共に仕事をしてみたかったんだ。
何せ、ここの仕事を断ったツワモノだ。
あれから君の事を想わない日はなかったよ。」
そして続ける。
「しかし、料理長に料理長と呼ばれるのは違和感があるな。
私のことはトーマスと名前で呼んでくれたらいいよ、クララ。」
馴れ馴れしく名はトーマスだと名乗る料理長は、クララの肩を抱きながら言う。
今まであまり口説かれたりする場面に出くわした事のないクララだったが、トーマスのあからさまな態度に、自分への好意は調理人としてのものだけでないことを、瞬時に察知する。
やっぱり、来たのは間違いだったかな・・・
そう思っていた。
「では、トーマス料理長と呼ばせてもらいます。」
さりげなく自分の肩を抱くトーマスの手を振り退けては、軽くお辞儀をする。
「つれないな。」
トーマスは残念そうな笑顔をクララに向けるが、クララはそれに気付かないフリをし、調理場を見渡していた。
それから、クララが王都に来てから五日目が経っていた。
クララは慣れない環境で心身共にぐったりしていた。
ここの調理場は恵まれ過ぎていて、調査兵団の調理場とは大きく違い、あまり参考になるところは無いように思えた。
早くこの出張が終わらないかと、毎日溜め息を吐いては、仕切りに時計を見ては時間が過ぎるのを待っていた。
調理場の慌ただしさがひと段落着いた頃、クララはお手洗いへと一端席を外していた。
再び調理場に戻ろうとして入り口付近に近付いた時、調理場から女性の調理人たちの楽しそうな話し声が聞こえてくる。
どうやら、トーマスがクララにお熱なことを快く思わない調理人たちが、クララのことを噂しているようだった。
「あの、調査兵団のクララって女、一体何なの?」
「ほんとほんと!ちょっとトーマス料理長に気に入られているからって、生意気なのよ。」
「知らない食材も多いしね。
あれで料理長なんて、信じられないわ!」
「そうそう、こないだフォアグラ見て、これ何〜?だって〜!
信じらんないー!」
「パンしか焼けないらしいわよ。」
「しかも年増の女だし!」
「キャハハ!それ、言ったらダメなやつ〜!」
トーマスは、クララより少し年下のやり手料理長である。
顔も整っており、女性からはモテる存在だった。
調理人の中にも、独身のトーマスを狙っている人が多いのは、まだ五日しか滞在していないクララでも一目瞭然だった。
ここでは、クララは鬱陶しい存在でしかなかった。
「おばさんのくせに、色気使ってるんじゃないわよ!」
誰かが悪意たっぷりに言い放っていた。
もう帰りたい・・・
クララの頭の中は、その言葉でいっぱいだった。
「ここの調理場には慣れたかい?」
夜の食材の仕込みが終わった頃、トーマスはクララに声をかけていた。
「そうですね。
でも普段使わないような食材やメニューばかりで、戸惑いばかりです。」
先程の女性調理人たちの会話を聞いて、それまで以上に居心地の悪かったクララは、酷く疲れた顔をしていた。
トーマスもそんなクララに気付き、今日は上がらせようと考える。
しかし、クララがここに居る間に、もう少し親密になっておきたいという浅ましい考えがよぎり、食事に誘うことを考えていた。
「今日はもう上がっていいよ。
明日は昼からだし、良かったら食事にでもどうかな?
クララの話も聞きたいしね。」
下心丸出しのトーマス。
周りの視線が痛い。
「・・・・・・。
いつも朝早いので、夜は苦手で・・・」
やんわりと断ってみるが、トーマスが引き下がる気配はない。
「時間は取らせないよ。
オススメの店があるんだ。
きっと君の調理の参考になると思うから、少し付き合って欲しい。」
周りを気にすることなく、トーマスは調理場を副料理長に任せては、クララの手を取り足早に調理場を後にした。
クララの後ろからは、舌打ちする女たちの声が微かに聞こえていた。
夜。
ウォール・シーナの街中は、仕事が終え飲み歩く人たちで溢れていた。
エルヴィンもまた、王都での会議が終わり街中を歩いていた。
クララが調査兵団の兵舎を出発する時に交わした“食事に誘う”といった、約束とも言えないような会話を思い出しては、どうしたものかと頭を悩ませていた。
その時、何気無く目にしたレストランに、クララと王都の料理長が二人で食事をしているのを窓越しに見かけてしまう。
エルヴィンはドキリとした。
クララは後ろを向いていて表情は見えないが、料理長は明らかに嬉しそうにしている。
意気揚々とクララに話しかけている料理長。
調査兵団に届いた手紙の内容からしても、きっとクララに惚れ込んでいるのだろう。
エルヴィンは、この上なくヤキモキしていた。
やはり、王都へ出張させるのは間違いだっただろうか・・・
そんな考えがよぎる。
しかし、ここへ勉強のために出向くと決断したのはクララ本人だ。
それならば、この場に自分の出る幕はない。
そう諦めては、そのままエルヴィンは自分の宿へと帰って行った。
「どうだった?クララ。
今のレストランは気に入ってくれたかい?」
レストランを出たトーマスは、クララの肩を抱きながら顔を覗き込む。
クララは顔を逸らしながら言う。
「ごちそうさまでした。
とても美味しかったです。」
正直なところ、早く帰りたい一心で、料理もトーマスの話もクララの心には何一つ響いていなかった。
それに、この肩を抱くトーマスの腕に嫌悪感さえも覚える。
「折角だし、もう一軒どうかな?
美味しいカクテルが飲める店があるんだけど・・・」
そうトーマスが言ったところで、クララはトーマスの腕からゆっくりと離れ、正面に向き合っては言う。
「お気持ちは嬉しいですが、今日は私もう部屋に戻ります。」
そして、少し伏し目がちに言う。
「あと、明後日のお昼に帰る予定ですが、明後日は仕事も無いようですので、明日の仕事が終わり次第、調査兵団へ帰ろうと思うのですが、よろしいでしょうか?」
「どうして?ゆっくり羽を伸ばしてから帰ればいいのに。」
トーマスは、怪訝そうな顔で言う。
以前クララを自分の元へ引き抜こうとした時から、クララが好んで調査兵団で働くことに、トーマスは理解を示すことができなかった。
働く環境は断然王都の方が整っているはず。
シーナでの生活も、誰もが憧れる一流の暮らしのはずだ。
しかも、調査兵団の調理場なんて、調理人の間では過酷で有名で、加えて壁外調査後の兵舎など、とても普通の人が耐えられるような環境ではないことくらい、誰の目から見ても一目瞭然だ。
そんな所に今すぐ帰りたい?
とてもじゃないが、トーマスには理解できなかった。
「やはり私には王都の環境は慣れないみたいです。
それに、今も向こうの調理場が気になって・・・」
トーマスの疑問を察知したかのようにクララは言う。
「こちらから優秀な調理人を派遣しているではないか。
心配なんかしなくても。」
「どうも、こう言う性分みたいで・・・」
伏し目がちに困ったように答えるクララに降参したのか、トーマスは続ける。
「まいったな。
君のその芯の強さには頭が下がるよ。
では、明日の朝一番に馬車を手配しておこう。
夕食の仕事が終わってからになるから、遅くなるが大丈夫かい?」
「はい、大丈夫です。」
クララのホッとしたような顔を見て、トーマスも頰が緩む。
そして、やはり今夜はもう少しクララと時間を共にしたいと思う。
「それならやはり、今夜は一杯・・・」
「おやすみなさい、トーマス料理長。
私、ここで失礼しますね。」
トーマスは意気揚々とクララを誘おうとしたが、クララはトーマスの言葉を遮ってはその場を後にした。
トーマスは、虚しくただその背中を見送っていた。
次の日の朝、エルヴィンは宿屋で目を覚まし重い身体を起こしては、うな垂れるようにベッドの端に腰掛けていた。
そして起きて早々、昨日のクララと王都の料理長のことを思い出し、深い溜め息を吐いていた。
あれから二人は何もなかっただろうか。
もし、クララが彼に心を許していたりしたら・・・
そう思うと、気が気でならなかった。
早く兵舎に連れ帰り、いつもの食堂で働くクララの姿を見たい。
いっそ兵舎に閉じ込めて、もう外なんかへ出掛けさせてたまるものか。
そればかり考えていた。
だがエルヴィンとクララは約束された関係でもなく、加えて自分はクララへ想いを伝えることをしないと心に誓った訳で、そんな事を考える資格もないことを痛感しては、エルヴィンはまた深い溜め息を吐く。
“何を考えているんだ、俺は・・・”
頭を抱え、再びベッドに横になる。
目を閉じると、クララの優しい笑顔が脳裏をよぎる。
“ねぇ、エルヴィン団長?”
いつものように、無邪気に問い掛けてくるクララを思い出しては、胸が痛くなる。
今日の会議は昼からだったので急ぐ必要はないのだが、とても部屋でくつろぐ気にはなれなかったので、エルヴィンは身支度をして街へ出掛けることにした。
朝のシーナ街は、買い物をする人だかりでごった返していた。
特に目的もないエルヴィンは、何となく街を歩いては、行き交う人々の様子を観察していた。
ふと果物売り場に目をやると、苺に目を輝かせているクララを見つける。
昨日からずっと想いを寄せている愛おしい存在が目の前に突然現れたことに、エルヴィンの心は揺さぶられる。
気付けば無意識のうちに声をかけていた。
「こんなところで何サボっているんだ?」
「あら、エルヴィン団長!
あなたこそ会議をボイコット?」
振り向き自分に向ける笑顔はとても眩しく、つい目を細めてしまう。
「今日の会議は昼からだ。」
「あら奇遇。私も今日は昼からなの。
ねぇ、それより見て、凄く立派な苺!
そのまま食べたいし、ジャムにもしたいし、どのくらい買おうかしら。」
クララはエルヴィンの袖を引く。
そして、自分との会話は二の次で、とにかく今は目の前の苺に夢中なようだ。
だがそんなクララが愛おしい。
「明日帰るんだろ?
明日買えば良いんじゃないのか?」
「それなんだけど・・・」
クララは掴んでいたエルヴィンの袖を離し、振り向いては言った。
「明日は仕事もないから、今晩帰ろうと思って。
ちょっとホームシック。
早く帰りたくなっちゃった。」
困り顔で笑うクララ。
“帰る”というその単語がクララの口から出たことに、安堵と嬉しさが込み上げてくる。
自然とエルヴィンの顔は綻んでいた。
「しかし、今晩って仕事が終わってからか?
何時になる予定だ?」
「うーん、馬車の手配は夜十時・・・」
「随分と遅いな・・・」
ここから調査兵団の兵舎まで、近くない上に人通りのない場所を通らなくてはいけない。
人気の無い夜道の馬車は、盗賊の格好の餌食だ。
しかも乗っているのが女性一人となれば、何が起こってもおかしくないのが、このご時世。
「でももう王都はうんざり。
とにかく早く帰りたい。」
クララは疲れ切った顔で溜め息を吐く。
相当早く帰りたい意思が伝わってくる。
「それなら、私も同じ頃に帰宅するから、一緒に帰ろう。
馬車の後ろをついて行くよ。」
「調査兵団の団長さんが、馬車の護衛?
たいそうなことになっちゃうから断るわ。」
「ではどうしろと。
いくら何でもその時間の馬車は危ない。」
頑なに拒否するクララに、つい声をワントーン上げてしまう。
「・・・・・・。
そんなに気にしなくても。」
「気にするさ。
それなら、前みたいに後ろに乗って帰るか?」
我ながら突拍子のない提案だなと思ったのも束の間、クララが照れたように少し俯きながら答える。
「・・・じゃあ、後ろに乗せて。」
可愛い。
どうしてこうも君は俺を惑わせるんだ・・・
「わかった。
では十時頃に調理場の外へ迎えに行く。」
抱き締めてしまいたい衝動を精一杯抑えながら、答える。
「・・・うん。」
クララもまた、顔を赤らめながらエルヴィンの答えに頷いていた。
夜十時、待ち合わせの時間。
エルヴィンは自分の馬を引き連れて、待ち合わせ場所でクララを待っていた。
レストランの入り口から、何やら痴話喧嘩のような男女の声が聞こえてきたのでそちらに目をやると、クララと王都の料理長のトーマスだった。
「だから、トーマス料理長、ここで大丈夫ですから。」
「いや、女性をこんな夜遅くに一人で外を歩かせるなど出来ないよ。
馬車まで送って行くよ。」
クララの荷物を無理に取り上げては、肩を抱こうとするトーマス。
そんな強引なトーマスを見て、エルヴィンの腹の底からは怒りに似た感情が湧き出てくる。
「トーマス料理長、荷物を返して。
それに、馬車なんですが・・・」
「クララ」
荷物を理由に距離が近くなったクララとトーマスの間に、エルヴィンは割って入ってみせる。
そして、明らかに驚いた様子のトーマスからクララの荷物を奪い返しては、力強くクララの手を引いていた。
「これは、エルヴィン団長ではないですか。
こんな所にどうされまさした?」
不意に邪魔をされたトーマスは、苛立った声でエルヴィンに声を掛ける。
「うちの料理長が世話になったようだな。
ありがとう。
ここからは私が送り届けるから君はもういいよ。」
「どういうことです?
馬車はあちらに手配してありますから。」
トーマスの苛立ちは増すばかりだ。
「ああ、それだが、夜の馬車は何かと危ないと思ったので、私が兵舎まで送り届けるよ。」
「すみません、トーマス料理長。
午前中にエルヴィン団長にお会いしてそのような話になったんです。
だから、馬車は先程お断りしたんです。
トーマス料理長へお話するタイミングを逃してしまい、申し訳ありません。」
エルヴィンとトーマスが今にも衝突してしまいそうだったので、今度はクララが二人の間に割って入る。
その様子が気に入らなかったトーマスは、声を荒げて言い放つ。
「へえ、そうですか!
調査兵団の料理長は、エルヴィン団長のお気に入りって訳ですか!
通りで王都へ引き抜くのは無理な訳だ。
いいんですか?そんな職権乱用なんかして。
そしてクララ・ベッカー、こんな権力者にヘコヘコと従うなんて、見損なったよ。」
「そんな・・・私は本当に調査兵団で・・・」
クララが何か言おうとしていたが、エルヴィンもトーマスの発言に腹が立ち、クララを遮っては、普段クララの知っているエルヴィンには似付かないような、穏やかとは程遠い冷たい声で言う。
「君が私のことをどう思ってくれようが構わない。
だが、クララが調査兵団に残っているのは彼女の意思だ。
彼女が居たいと言ってくれている限りは彼女の居場所は調査兵団にあるし、彼女が王都へ移りたいと言うのなら、私は引き止めない。
王都へ引き抜けないからと言って、彼女へ当たるのはやめてもらえないか。」
「はいはい、よろしいことで。
さっさと仲良く帰るといいよ。」
もはや聞く耳も持たないトーマス。
「トーマス料理長・・・」
「クララ、もういい。行こう。」
クララがトーマスをなだめようとするのを遮って、エルヴィンは強引にクララの腕を引き、その場を後にした。
人里離れたところで、エルヴィンは馬に乗り込み、無言でクララに手を差し出す。
クララはその大きな手を握っては、エルヴィンの腕の力に身体を預け、エルヴィンの乗る馬の後ろ側に引き寄せられる。
こんな近くに愛おしい存在が居るにも関わらず、以前の王都の帰りのように浮かれた気分にはなれない。
トーマスと言い合いしたことで、エルヴィンは気を悪くしたのか、ずっと無言だ。
走り出す馬の振動に合わせて、そっとエルヴィンの背中にクララは身を預けるが、そのすぐ側にある背中がとても遠く感じる。
何を考えているの?
兵舎に帰宅したのは、もう日が変わって随分経った頃だった。
クララを馬から降ろすエルヴィンだが、いつもの笑顔がない。
お願い、笑って。
そして抱き締めてキスしたい・・・
クララは心の中でエルヴィンを求めていた。
エルヴィンを切なげに見つめるクララの視線に、エルヴィンはふと気付く。
エルヴィンもまた、そんなクララを酷く求めていたが、先程のトーマスの言葉が引っかかっていた。
“こんな権力者に従うなんて・・・”
クララを調査兵団に引き止めているのは、実は本当にこの自分なのだろうか。
直接的に引き止めた記憶はないが、クララと親しくしているうちに、無意識にそうしているのかもしれない。
シーナで生活出来るのならば、本当はその方がクララのためになるのではないだろうか。
エルヴィンの中で、様々な感情が渦巻いていた。
「エルヴィン団長・・・」
遠くを見つめ、考え事をしているように見えるエルヴィンに、クララは声をかける。
「どうした。」
不意に名前を呼ばれたエルヴィンは、小さく驚きながら、クララに向かい合う。
その目は穏やかとは程遠く、鋭く突き刺さるような瞳をしていた。
クララはとても不安で仕方なかった。
あなたの笑顔が見たい・・・
ただその一心だった。
「・・・キスしたい。」
自分の意思とは関係なく出た言葉は、クララ自身も驚くような言葉だった。
でも、以前ここで小鳥のように何度も重ねた軽いキスの記憶が頭をよぎり、その時の幸福感を再び求めていた。
そして、今クララを覆っている不安を取り除いてしまいたかった。
「・・・・・・。」
エルヴィンは、クララから不意に出てきた積極的な言葉に、身震いしていた。
そして、クララの側に歩み寄る。
クララは俯き目を瞑りながら、近寄ったエルヴィンの袖をキュッと掴む。
お互いの心臓もまた、キュッと締め付けられる感覚がする。
だが、今日のエルヴィンの自制心は、満天の星屑に解される程生易しいものではなく、それは心の中に酷く張り付いていた。
ジェームズが亡くなった時から、自分の気持ちを抑えてきた。
あの時・・・
ジェームズが亡くなった時の喪失感を思い出す。
それが邪魔し、一歩踏み出せないでいた。
それでも、目の前の愛おしい存在が自分を求めていることに喜びを感じられずにはいられない。
エルヴィンは躊躇いながら、そっとクララの頬に口付けた。
クララは驚き、切なそうに目を見開く。
お願いだから、そんな顔をしないでくれ・・・
「もう遅い。帰ろう。」
優しく髪を撫で、エルヴィンもまた切なげにクララを見つめるが、すぐに目を逸らし帰るよう促す。
「うん、ごめんなさい。」
消え入るような声で、クララは呟いた。
バタン
部屋に帰り、扉を後手で閉じては、クララはその場にしゃがみ込んでいた。
キスは何度だってしたことあった。
軽いフレンチキスばかりだったけど。
さっきは、初めてねだったキス。
でもそれをエルヴィンは受け入れてくれなかった。
エルヴィンとは決して約束された関係ではない。
それにそもそも、団長のエルヴィンの中に自分の入る余地なんてない。
そんなのは解っている。
頭では解っているのに、どうしてこんなに心が痛むのだろう・・・
気付けば頬に涙が伝っていた。
「失恋って、思った以上に堪えるわね・・・」
そう小さく笑っては、クララはうずくまり声を殺して泣いた。
花季 -hanagoyomi-