愛のかたち




夕刻、日が沈もうとする頃。

ウォール・マリア奪還作戦が始まろうとしていた。

出発する予定の壁の上で、調査兵団のメンバーは馬と積荷を降ろす作業に取り掛かっていた。

クララはこっそりと兵舎を抜け出し、調査兵団が出発する現場に見送りに来ていた。

そこへ、ある男が調査兵団へ大声をかけたと同時に、民衆からわぁっと歓声が上がる。


「ウォール・マリアを取り返してくれぇぇ」

「人類の未来を任せたぞぉおおお」





クララの瞳には、思わず涙が溢れていた。

いつも調査兵団が壁外調査へ出向く時は、野次ばかりだった。

そして、傷付いて帰ってきてもまた、快く迎え入れてくれる民衆など、皆無に等しかった。

今まで星になってきた数々の兵士たちの想いが、今やっと報われたような気がした。





程なくして、壁の上から民衆の歓声に応えるように、兵士の叫ぶ声が聞こえてきた。

遠目ではっきりとは見えないが、104期生のメンバーだろう。

クララはふふっと頬が緩んだ。

新兵の熱い情熱には、いつもクララは心揺さぶられる。





と、その直後、エルヴィンが雄叫びを上げる。

クララは驚いた。

いつも、冷静沈着なエルヴィン。

そんな彼が、率先して民衆の歓声に応えている。


あぁ、良かった・・・

あなたの苦労は報われたのね・・・


そう思わずにはいられないほど、エルヴィンの声には勇ましさと力強さが込められていて、同時に喜びさえも感じ取られた。

クララの瞳には、涙が次から次へと溢れ出ていた。

そして、その勇敢なエルヴィンの姿を目に焼き付けては祈った。





“どうか、作戦を成功させて、無事に帰ってきてください”





そして、帰ってきたら、沢山沢山今日のことを話しましょう。

試作のパンを食べながら、いつもの中庭で・・・






「痛っ・・・」


クララは調理場に居た。

ウォール・マリア奪還作戦が計画通り進めば、調査兵団の一行は今晩帰ってくるはずだ。

こんなに大掛かりな作戦だから、たとえ作戦が上手くいったとしても、生き残った兵士たちはきっと疲弊して帰ってくる。

クララはそう思って、皆にスープを作っていた。

しかし、食材を刻んでいる時、誤って指先を切ってしまった。

いつも仕事の丁寧なクララには、珍しいことだった。


「大丈夫ですか!?」


ティアナが駆け寄ってくる。


「えぇ、大丈夫。
指先を切っただけだから。」


透き通った真っ赤な血が、指先から止まらない。

包丁で切った左人差し指の先は、真っ直ぐな断面を保ち、まな板の上には削ぎ取られた分厚い皮が転がっていた。

クララは流れる血を止めるのを忘れ、ただそれを眺めていた。





パタパタパタパタ・・・





その時、外で一斉に飛び立つ鳩。

窓を開けていた食堂に大きな音が鳴り響く。

その音に、一瞬クララは何が起こったのか理解できず身体がすくむ。

嫌な予感がする。

何の変哲もない日常なのに、心がざわつく。

ぎゅっとエルヴィンに貰ったペンダントを、服の上から握りしめる。


嫌だ、怖い。

早く皆戻ってきて・・・






その日の夜。

それはとても信じ難い光景が目の前を覆っていた。





ウォール・マリアは、無事に巨人の手から奪還することができた。

しかし、作戦から帰還したのは、僅か9名の兵士だけだった。

そこにクララの愛おしい姿はない。

作戦の成功に喜ぶ者はなく、帰還する皆が下を俯き、誰とも目を合わそうとしなかった。

それが、現場での物々しさを何より物語っていた。

クララは、心の中に冷え切った冷たい風が吹くのを感じていた。

そう、いつか感じた心までも凍らせてしまう風。





あぁ、また同じ。





またやり直さなくてはいけない・・・






それから、エルヴィン団長が不在となったことで、第14代調査兵団団長にハンジが選ばれた。

エルヴィンがこなしていたように、ハンジは毎日慌ただしく書類の整理に追われていた。





ウォール・マリア奪還から三ヶ月が経った頃。

ハンジは調理場にいたクララに声をかけていた。


「クララ、ちょっと時間いい?
団長室に来て欲しいんだけど・・・」


団長室・・・

クララは心が揺さぶられた。

エルヴィンを失ってから、団長室には一度も行ってない。

現実を目の当たりにしなくてはいけないようで、怖かったのだ。

でもいつまでも逃げているわけにはいかない。

クララは深呼吸してハンジに答える。


「わかった、行くわ。」





カチャ・・・


ハンジがゆっくりと団長室の扉を開く。

何度通ったか分からないこの部屋。

仕事として、差し入れを運ぶ調理人として、そして時には愛おしい存在に会いに行くため・・・

胸の奥がズキンと痛む。

扉を開けた部屋の中は、変わらない景色。

書類の積み上がった机に、会議用の長机、横にはソファもあって・・・

あぁ、そこではエルヴィンの誕生日を祝うのに、お酒を飲んだこともあったっけ。

そこで初めて二人は深いキスを交わした。

一年以上温めた感情は止めどなく溢れ、この上ない幸せを感じた日だった。





「クララ・・・」


物思いにふけっていると、ハンジが切り出す。


「こんな所に連れてきてすまない。
来たくなかったよね?」


「ううん、大丈夫。
いつかは通る道だから・・・」


遠くを見つめるクララが、ハンジにはとても辛かった。






「それでね、クララ。
団長室を整理していたら、どうしても解らないものがあってね。
机の引き出しの奥の方にひっそりとしまってあったんだ。
クララなら何か知ってるんじゃないかと思って・・・」


そう言って、ハンジは一冊の本を差し出す。

本・・・というより、手帳?

分厚い飾り表紙がついた綺麗なその本は、まるで何か秘密が記されているかのように小さな鍵がかかっている。

クララも見たのは初めてだった。


「いいえ、知らないわ。」

「そうか。クララも知らないんじゃ、この鍵を叩き割る以外に方法はないかな。」


その時、その本の飾り表紙に施された飾りがキラリと光る。


「待って、ハンジ。」


クララは、おもむろにシャツの中から首にぶら下げてあるペンダントを取り出す。

先には小さな鍵のチャーム。

エルヴィンとの最期の夜、エルヴィンからプレゼントされたもの。

鍵に付いている小さなブルーの宝石と、本の飾り表紙に付いているそれとは、同じ輝きを放っていた。

只の鍵のペンダントだと思っていた。

クララは“まさか”と、はやる気持ちを抑えながら、そのチャームを本の鍵穴へ差し込んだ。






カチャ・・・

本の鍵穴に差した鍵が半回転する。

その瞬間ハンジは全てを察し、目を背ける。


「クララ、その本は君に任せるよ。
何か重要なことが書いてあるようなら、教えてくれ。」


クララはハンジの言葉も耳に入らず、目の前の本に夢中になっていた。

表紙を開くと、クララは書いてあることに目を見張った。





『親愛なるクララへ』


そう書き出しているのは、紛れもなくエルヴィンの字だ。





『今日からクララ、君を想う時、この日記に私の素直な気持ちを綴ることにする。
直接伝えられない臆病な私を許してくれ。
いつかこの日記を君に渡すことが出来る日が来れば、その時は幾らでも笑ってくれて構わない。
クララ、愛しているよ。』


最初のページには、そう記してあった。
そして、クララは次のページへと手を進める。






『848年10月16日

一昨日は私の誕生日だった。

ハンジの突然の提案で私の誕生日会を開くと言うのだ。

自分の誕生日などすっかり頭になかったから、正直なところ、仕事も忙しいし時間を割いてまでして欲しいと思わなかった。

だけど、ハンジが君を連れてきた時は、舞い上がりそうなほど嬉しかったよ。

随分と君とは話してなかったからな。

二人きりではないとは言え、君を間近に感じられて嬉しかった。

そして、君が泥酔してしまって、私も酔っていたのかな、つい君を求めてしまった。

君もまた私を求めてくれた。

この上なく幸せだった。

何度か君にキスしたこともあったが、あれが限界だと思っていた。

今もまだ君の温もりが手の中に残っている。

また君を求めてもいいだろうか。

いつ死ぬかわからない自分。

愛の言葉を囁く勇気はないが、本当はとても伝えたくて仕方がない。

クララ、愛している。』





『×月×日

壁外調査から帰ってきたら、君がよそよそしい。

帰ってすぐの時は目が合って何か言いたそうだったのに、次に会ったら目も合わせてくれない。

何かしただろうか?

しかも、話そうと思って食堂に行ったら、調理人のヴィリーと仲良く笑いあっている。

それは今まさに自分が求めているものだった。

それが自分へ向けられているものではないということが、とても不愉快だったし、惨めな気持ちだった。

やはり私は君には相応しくないのだろうか。

そう思っていたら、慌てて団長室に入ってくる君。

私と距離を感じている?

遠い存在だと感じているのは、この私の方だ。

素直に愛していると言えれば良いんだろうが、永遠を誓えない自分が情けない。

本当はずっと愛しているよ、クララ。』





その他にも

美味しかったパンのこと

会えて嬉しかった日のこと

会えなくてヤキモキしていた日のこと

沢山のクララへの想いが綴られていた。

そして、文末には必ず同じ文言が添えられていた。





“愛しているよ、クララ”






『×月×日

先日の壁外で、右腕を失ってしまった。

君には多大な心配をかけてしまった。

私の目が覚めるまで、毎晩付き添って看病してくれていたと聞いた。

こんなに私を想ってくれている存在がいることに、私はここに帰ってくる意味を見いだす事ができる。

ありがとう、クララ。愛しているよ。』





『×月×日

ついに君と衝突してしまった。

私を心配してくれての事だろう。

でもすまない。

私は腕を失ったとしても、今回の作戦は必ず行かなくてはいけない。

ウォール・マリア奪還を成功させるために行くのはもちろんだが、エレンの家の地下室にどうしても行きたい。

この世界の真実がもう少しで明らかになる。

それを突き止めること、それは私の子供の頃からの夢だ。

君の願いを聞いてやれなくてすまない。



だが、今回限りで調査兵団団長をハンジに譲ろうと思っている。

片腕の兵士、ましてや片腕の団長なんて、どう考えてもお荷物だからな。

そしたら、君にそろそろ伝えても良いだろうか。

愛していると。

そして君が構わないなら、スミスの名を名乗ってはくれないか。

生涯かけて君を守ることを誓うよ。

ウォール・マリアの君の家にも行こう。

亡くなったご主人にも挨拶に行こう。

殴られるのを覚悟でな。

そしたら、またあの高台へ星を見に行こう。

永遠を誓いに。

愛しているよ、クララ。心から。』





そして、そのページを最後に、その日記の続きには何も記されていなかった。






クララが手帳のページをめくり始めてから、彼女の表情はくるくると変わっていた。

涙目になりながら、優しく微笑んでみたり、顔を赤らめてみたり、時には少し膨れてみたり。

まるでそこにエルヴィンが居るかのように、クララは手帳と会話していた。





ハンジはその様子を遠くから見つめていたが、そこにエルヴィンがいない現実に胸が痛くなった。

手帳には何が書いてあるんだろう。

気にはなるが、それは二人の築き上げた時間だろうから、ハンジの入る余地はなかった。





ふと、手帳を読んでいたクララの手が止まる。

そして、たちまち両手で自分の口を塞ぐと、溢れんばかりの涙を声も出さず静かに流していた。

窓からふわりと風が吹き込むと、クララの読んでいた手帳がパラパラとめくれ上がる。

読んでいたその先には、何も書かれていないページ。

真っ白なページがパラパラと宙を舞う。


「ハンジ、どうしよう・・・」


クララの力のない声が微かに聞こえる。


「私、エルヴィンに伝えてない。
こんなの、ずるいよ。
言えない理由を解っていたつもりだったから、私も言わなかった。
それでいいんだと思っていた。
なのに、こんな形で・・・」


「エルヴィン、会いたい・・・
今すぐ会って伝えたい。
私も愛していると。」


そう振り絞るよう声に出しては、わぁっとクララは声をあげて泣いた。

それは迷子になった子供のように。

ハンジは駆け寄りクララを抱き締める。

抱き締めたその身体は、とてもとても小さく思えた。






どのくらい経っただろう。

日もすっかり暮れ、部屋の明かりも付けていない暗がりの団長室で、クララの涙はすっかり枯れ、ただ静かな時間が流れていた。

とても穏やかな時間。










静寂を突き破るように、クララはハンジにポツリと呟いた。










「ハンジ、あのね。」





そして、腫れ上がった瞳を潤ませながら、クララはハンジを見つめる。










「エルヴィン、お父さんになるのよ。」










そう言ったクララには月明かりが照らされ、悲しく微笑んだ顔はとても美しく輝いていた。






クララが自分の異変に気付いたのは、ウォール・マリア奪還から一ヶ月が過ぎた頃だった。

ずっと吐き気はするし、身体は重い。

最初は、調査兵団の壊滅的なダメージと、エルヴィンを失ったショックから来るものだと思っていた。

しかし、日を追うごとに体調は悪くなるし、調理場に立てば食材の匂いで立っていられないほどの吐き気にみまわれる。

まさかとは思ったが、信じたくない自分が大きかった。

だって、今エルヴィンを失ったばかり。

もし自分のお腹に新しい命を宿したとして、どうして育てていけるだろう。

それに、ブルーノと十年以上送った結婚生活では、望んでも恵まれなかった命。

まさかそんなことがあるわけないと、クララは思い込もうとしていた。





食欲もなく、ただ吐いているばかりのクララの異変に最初に気付いたのはティアナだった。

検査を受けるように促すが、クララは拒否するばかり。


「クララさん!
ほんと、お願いだから検査を受けて。
もう見てられないです。」


ティアナは涙を流しながら懇願する。


「でも・・・
もしそうだったとしても、受け入れられない。
怖いの。とても怖いの。」


そう言ってクララも涙を流す。


「私もお供します。
そして、どんな結果が待っていても、私も一緒に受け止めます。」


姉のハンナの死を一緒に受け止めてくれたクララ。

今度は自分がクララの力にならなくてはと、強く強く思っていた。





そして、その後・・・

ティアナと一緒に受けた検査では、クララのお腹に新しい命が宿されていることが告げられていた。






ハンジは月明かりに照らされたクララを見つめていた。

何と言ったら良いのだろう。


“エルヴィンの代わりに私が力になる”


そう言おうとした時、その言葉は喉元に詰まる。

私は新しい調査兵団の団長。

命をかけて人類の存続と兵団を守らなくてはいけない。

自分の命の保証はどこにもない。

そんな口ばかりの約束をしてもいいのだろうか。


“あぁ、そうか・・・”


今までのエルヴィンの苦悩が、今やっと理解できた気がした。


“エルヴィン、君もずっと辛かったんだね”





ハンジの心の内を見透かしたかのように、クララは微笑む。


「ありがとう、ハンジ。
そんな顔、今まで沢山見てきたわ。」


「私は大丈夫。
沢山泣いたら落ち着いたわ。
きっと、強く生きていく。」


そう言うクララの瞳には、まだ弱々しくて儚げだが、小さな小さな決意が芽生えていた。




花季 -hanagoyomi-