志すもの

王亡き後の世のため、尽くす。
そう断言してしまった私は、左頬に受けた衝撃で石の床に転がった。

「不敬な。さっさと去ね、女」

声を荒げさえしない、軽蔑に満ちた声は、先ほど最初にジャーファルさまに答えた男のものだ。私を張り飛ばした右手には、金の印章指輪が嵌められていた。目のくらむ殴打の衝撃が徐々におさまると、頬をぬるい液体が伝うのがわかった。指輪に裂かれた頬の皮膚から血が流れているのだ。

こんなことは、当たり前だ。当たり前なのだ。女が生意気に「男のまつりごと」に口を出せば、殴って黙らされて当たり前。家に引きこもって、男のために飯を作って当たり前。子どもを産み、世話をし、男に仕えて当たり前ーー

ーー当たり前であってたまるか。

ジャーファルさまは動じたふうもなく、じっと座って私を見ていた。その瞳はわたしの目を見ていた。

( あなたはまだ答え終わっていない )

胸が熱くなった。この方は「出て行け」とおっしゃりはしなかった。私の言葉を待っている。私がこの場をどう「戦うか」見ている。
話ができる。

示してみせねばならない。
黙って去ることはしない。

「わ、ーー私は難民の女です。シンドバッド陛下のお心に救われ、このシンドリアに暮らしております。そのことに、私も、私と同じ苦しみを経てこの地に辿り着いたものたちも、皆心から感謝しております。すべてシンドバッド陛下と、この美しいシンドリアのおかげでございます」

緑の大地。命を奪われず、奪わずに暮らせる国。

「しかし、難民としてーーそとぐにで、一度故郷を捨てた私たちには、見えるものもございます。近年のバルバッドにおける動乱、また煌帝国における帝位継承の混乱。いかな賢帝の治める国でも、その賢帝を失えば戦につぐ戦、戦乱の世がすぐにやってくるのだと。シンドリアは希望です。国を失い、家族を失い、生きる希望を捨て去りかけた民にとって、わたくしにとって...。私はシンドリアという希望によって生かされました。しかし、この国が、ただシンドバッド王の御名におすがりしつづけるだけでは、ーーシンドバッド王を失いしシンドリアは再び戦に呑まれるやもしれません」

一息に腹からしぼり出した声で自らを支え、ジャーファルさまの目に正面から向かい合う。

「恐れながらジャーファルさまに伺います。このシンドリア国の文官に、女人は何割おりますか」
「3割5分といったところでしょう」
「それでは、そのうち平民出身のものは?富裕な豪商の家族を持たない文官はおりますか。そして、男の文官と同じ仕事をしているものはおりますか。男の文官方のための、女官として使われてはおりませんか」
「......」
「ーー平民の女はこの口頭試問の場にまかりこすことは、ほぼ不可能といってよいでしょう。なぜなら、そろばんを持たず、習わないからです。特に平民の家では、数を算することは後継ぎの男子にだけ教えられます。私は幸運にも、流浪の中で筆記による算法を学びましたが」

( おねえちゃん、そんなもの覚えてどうしようっていうんだい? それよりこっちで酒を運んでくれよ )

「女人も、男性と変わらない頭脳と能力を持っています。わたしのような「難民上がり」はそれを証したいのです。どんな人でも、学ぶ機会さえあれば、よりよい世界のために働くことができると。シンドバッド陛下の御代に感謝すればこそーー誰よりも感謝すればこそ、陛下をより多様な民によってお支えし、そして陛下亡き後の...そして私たちの世代亡き後のシンドリアをも、希望の国として栄させたい」

頬をふたたび伝ったのは血ではない。

「今一度申し上げます。私はシンドリアの文官を志してここにまいりました。シンドバッド陛下亡き後も、シンドリアが栄え、希望の国となるためにーー命を捧げたく思います」

石の床にへばりついたままの私の手を、薄汚れた手を、ペンだこのできた固いーーしかしあたたかい手が取った。

ジャーファルさま。

間近に見た政務官さまは、穏やかで強い光を宿した瞳で私を見返し、ぐっと床から引き起こした。そばかすの散った頬。整った白皙の顔立ち。

「エルハ」

私をすくいあげる声。

「あなたの力を、この国に貸してください」