食べ終えた食器を片付けて午後の授業が行われる教室に向かえば、すぐさまエースに捕獲された。昨日や数十分前はグリムを共に捕獲した側だったというのに。今度はデュースを獲物のように捕まえようとするか。腕を掴んだまま離す様子の無いエースにジトリと視線を向ける。
教室の一角に座り、デュースは授業が始まる直前まで自身が去った後に起きた食堂での出来事を聞かされた。リリアたちと話している間に色々と事が進んでいたらしい。どこか愚痴っぽく寮長であるリドルについて話すエースに、ふと先ほどリリアから受けた忠告を思い出す。――なるほどな。納得するものを感じて僅かに目を眇めた。
「放課後タルト作ることになった」
「栗拾いに行くんだゾ!」
「へえ? ガンバレー」
「デュースくんは来ないの?」
「出来たてのタルトが食えるんだゾ!?」
「お前もやるよな!?」
どこか不安そうな監督生を除き、出来るだけ自分の作業や負担する仕事を減らしたい、という感情が開け透けて見える。デュースも頭数に数えられているらしく一も二も無く栗拾いに駆り出されるようだった。
「ちなみに拒否権は?」
「んなもん無ぇよ!」
「無いんだゾ!」
一応聞くだけ聞いてみたが拒否権は無いようである。はあ、と重く吐き出された溜息がエースやグリムに効くわけがない。黙殺されて結局デュースも栗拾いとタルト作りに駆り出されることとなった。
両側を固められては逃げるに逃げられない。魔法を使い彼らを退かし、寮に戻る手もあった。だがこんなことで無駄撃ちするのも中々に馬鹿らしい。
そして単純にエースとグリムという組み合わせが不安だったのだ。グリムがタルト作りに参加するということは必然的に監督生も同行するのだろう。文字通り、グリムを監督する立場なのだから。しかし監督生は魔法が使えない女性である。何かあったときに彼らを制御出来るとは思えない。その考えがデュースをこの場に留まらせた。
そんな思考などつゆ知らず、監督生はデュースへと疑心が滲む視線を向けている。しかし手の甲を額にあてたデュースがそれに気付くことはなかった。
◇
午後全ての授業が終わり放課後を迎える。鐘が鳴るなりグリムがピョンと跳び上がった。タルト、タルト! と小さく口ずさんでいる。おそらく頭の中はまだ見ぬマロンタルトで一杯になっているのだろう。エース、そしてグリムと監督生は鞄に荷物をしまうなり立ち上がる。デュースはそれを見上げて何気なしに問いかけた。
「そういえば栗はどれくらい拾えば良いんだ?」
「えーと、確か三百くらい?」
「帰って良いか?」
「だーめ」
栗の必要数を聞いてデュースは少しばかり視線を遠くに飛ばした。業者か? と一瞬思ってしまったのだ。本丸でさえそんな数を集めたりはしなかったはず。過去生に思考を飛ばしたのはある意味で現実逃避だった。
よくよく考えればエースは今魔法が使えない。つまり、グリムと諍いを起こしても昨日のような惨状が出来上がることはないはずだ。デュースはそう思い至るなり戦線離脱したくなった。
だが、一度了承した以上撤回するのは難しい。完全なる巻き込まれではあるが無理に離脱しようとするのも得策では無い。エースが同室であることを踏まえても、わざわざ不和を引き起こすような真似は避けたいところだ。今後の関係に影響する。そう考えるとやはりマロンタルト作りへの参加は不可避らしい。
入学式から二日目、初日から引き続き中々に思うようにいかない現状にデュースは溜息をつく。やりたいことも確認したいことも後回しになってしまっていた。
備えあれば憂いなし、と言うが現時点でその備えが疎かになってしまっている。今朝少しだけ仕込んできたがそれだけなのだ。気持ちが落ち着かない状態が続いているせいで地味にストレスを感じていた。
「分かったよ、行くよ。……植物園裏の森だな?」
「そうそう。さっさと行こーぜ。トレイ先輩はキッチンで色々準備してくれるってさ」
四の五の言わずに流れに身を任せた方が賢明か。そう諦めてヒラヒラと手を振りデュースはようやく立ち上がる。
報酬は出来たてのタルトだと知らされているが、何が何でもタルトが食べたい訳でも無かった。甘い物は好きだ。だがクリーム系の甘味を今は満足に食べられる気がしないのだ。理由は単純、最近の自分の体調を鑑みた結果である。おそらく一ピース食べて胃もたれしなければ良い方だろう。複数の過去生を思い出しているせいで年齢の感覚がバグりかけているが、肉体は僅か十六歳。年も年だしなぁ、等と考えた次の瞬間にそのことを思い出し軽く凹んだのはつい一ヶ月ほど前のことだ。
そんな事情もあってデュースの植物園裏へと向かう足取りは重い。気乗りしない様子がありありと分かる。
(ある程度動いてあとは本人にさせよう、そうしよう)
大食堂の厨房にてトレイが既に調理器具などの下準備を始めている。エースはそう言っていた。ならばササッと拾って届けてしまおう。そして後はタルトを必要としているエース本人に頑張らせれば良い。デュースは他人が引き起こした行動の尻ぬぐいに最後まで付き合うつもりは無かったのだ。
リュックの中から薄い生地のトートバッグを取り出して広げる。そして二人と一匹に向けて端的に告げた。
「沢山落ちてるから分担して拾っていこう。じゃあまた後で」
やっぱりマイペースだな!? とエースやグリムに叫ばれたが特に取り合わず一人森へと入っていくのだった。
スタスタと歩を進めるデュースの耳に、グリムが栗の棘に悲鳴を上げる声とエースがカゴやトングを求める声が微かに届く。イガごと持って行くつもりなのか? と首をかしげて足もとのイガグリを両足で挟むように踏みつけた。デュースの靴はローファーのため足にイガが刺さる心配はほとんど無い。コロリと中の実が飛び出てきた。その横にあるイガを再び遠慮無く両足で挟むように踏んでいく。
監督生がエースの手伝いをするというならばデュースは共に行かなくとも良いだろう。そんな考えからの別行動。グリムとエースが売り言葉に買い言葉で何かやらかしそうな気がしなくも無いが、まあ、おそらくは大丈夫だろう。多分。きっと。
多少不安が残るため、ある程度の栗を拾ったら合流するつもりでいた。……だが一度集めた栗をどこかに置いてしまいたい気持ちが強くなりつつある。無心でイガグリを踏んでいたせいか辺り一面潰れたイガと飛び出た栗の実で埋め尽くされていた。少し夢中になりすぎた自覚はある。
だが必要数を思い出し、多いに越したことは無いだろうと開き直る。デュースはそのまま無言でマジカルペンを一振りした。赤い石がきらめく。仄かな光が軌跡を描き程近い栗の実をヒョイッと浮かせていく。その行き先は肩に引っかけている薄い生地のトートバッグだ。栗の質量と重さを伴い膨らんでいく。布越しに伝わるゴロゴロと軽い音を立てて転がる感覚。そういえば過去生でも栗拾いをした憶えがあるな、とぼんやりと懐かしさを感じながら艶やかな光沢を放つ栗の実をバッグに次々と放り込んでいく。
ある程度の量になった事を確認するとデュースは指定された厨房へと向かうのだった。生地の薄さ中身の重さのせいで持ち手部分が悲鳴を上げている。
厨房の扉を開ければ調理の準備を終えたトレイに出迎えられた。
「なんだデュース、わざわざ中身だけ取ってきたのか、手間だったろうに」
「え、いや、そんなに手間でも無いですよ?」
「え?」
「……え?」
きょとりと目を瞬かせたトレイを前に、デュースもまた同様に目を瞬かせる。靴で踏んで中身を取り出すのはあまり主流では無いのだろうか。僅かに首をかしげる。
「イガのまま持ってきてもらって魔法で皮を剥くつもりだったんだが、それにしてもよくこんなに……。一人でこれだけイガを剥いたんだ、随分魔法を使って疲れたんじゃ無いか?」
「足で踏んだだけなので栗を移動するくらいにしか魔法は使ってないですよ」
「足で踏んだ……?」
「そうですけど……?」
互いの頭上にポコポコと疑問符が飛ぶ。魔法が身近にあるこの世界。魔力消費が少なく簡単にできることはササッと魔法で済ませる事の方が多い。常識や認識の差が如実に表れた瞬間だった。
そうこうしている間にエース達一行も到着してイガから栗の実を取り出す作業が始まる。
途中でグリムは生の栗を食べていたが大丈夫なのだろうか。デュースは素朴な疑問に首をかしげた。魔獣だから普通の動物とは違うのだろうが腹を壊しそうで少し気になる。魔獣に関する知識はあまり多く持っていない。学園生活に少し慣れたら図書室に行って調べてみることにしよう。
頭の隅で考えながらも魔法を使い栗のイガを剥いでいく作業の手は止めない。熟考しなければ考え事をしていても軽い魔法くらいなら使えるのだ。その程度には魔法を使う感覚を身にしみ込ませていた。
タルト作りの最初の段階、栗を蒸かして皮を剥ぎ、裏ごしをする作業までは順調に進んだ。大量に出来上がったマロンペーストを前に手作業で皮むきと裏ごしをしていたエースと監督生はホッと一息ついていた。しかしそこで一つ問題が発生。あるだけの栗をペーストにした結果、作りすぎてしまったらしい。
デュースは特に何も考えないでポンポン栗を剥いていたのだが、やはり多かったのか。残ったペーストを見つめて肩をすくめた。
生クリームが少し足りない、と困った顔で呟くトレイに材料の買い出しを申し出る。久々に菓子作りをして興が乗ったのだ。
「買い出しなら俺が行ってきます。購買に売ってますか?」
「わ、私も行きます!」
トレイが口頭で告げた買ってきてほしいものリストを適当な紙に書き付ける。一人で持ちきれるかどうか微妙なラインの量だったため同じく声を上げた監督生も共に購買に向かうことになった。
いつの間にか屋外は様相を変えていた。空の色は既に橙と紫に染まり始めている。
無事に指定された材料などを購入し終えたまでは良かった。グリムが楽をしようと今必要の無い道具まで買おうとする事で一悶着あったが。
缶詰、生クリームなどの液体が入った買い物袋は重い。デュースがさりげなく液体類が主に入った袋を持つ。そして監督生に軽い方の袋を持って貰いメインストリートに差し掛かった。
特に会話が弾むことも無く歩を進める二人と一匹だったが、どうにも監督生は居心地が悪いようだった。何かを言いかけては口を閉ざす。デュースは彼女のそんな姿ばかり見ている気がして言いようのない焦燥を感じた。チラリと視線を向けて表情が強ばる。視界に飛び込んできたのは白に近い灰色の蝶。デュースにしか視えない蝶のような物体が野球ボールほどの大きさに変化していたのだ。
それに気を取られていたからなのだろうか。――メインストリートの半ばに差し掛かった頃、事件は起きた。
「……あああ、卵、卵が……」
情けなくも物悲しげな響きを帯びて震える声。デュースの悲嘆な呟きが地面に落ちる。ああ、全滅だ。ぐしゃぐしゃになった卵を確認して頭の隅で呟いた。
道の角から出てきた生徒にぶつかられる、という飛び出し事故にあったのだ。ぶつかってきた相手は明らかに前を見ていなかった。それをこちらのせいにして難癖を付けてくる。よくよく見れば、昼食時に温泉卵が崩れただのと突っかかってきた生徒だった。
一日にして二度も同じ相手に絡まれることになろうとは。それも、どちらも食べ物に関する事で。
またお前等かいい加減にしろ、などと言っているがソレはこちらの台詞である。
「いや、明らかぶつかってきたのそっちですよね。昼も飯食えなくなったわけでも無いのにぐだぐだぐだぐだしつこくイチャモンつけてきて……とりあえず今アンタ等に台無しにされた卵一パック、弁償してくれません?」
「は? 俺のせいだって言いてぇのか?」
「事実です」
「割る手間が省けて良かったじゃん! 細かいことごちゃごちゃ言うなよ」
「ア゙ァ?」
食材を台無しにしておいて、随分と横柄な態度でいるものだ。
ケラケラ笑う不良を前にしてデュースが頭の芯が冷えていくのをどこか人ごとのように感じていた。内心で思いつく限りありったけ罵倒の言葉を吐く。口に出さないのは自身の品性を落とさないためでしかない。こんな輩のために自身を落とすような行為をするなど愚の骨頂。そう自身を制するだけの自制心は残っていた。
デュースにとって「食べ物を粗末に扱われる」というのは非常に腸が煮えくりかえるような事象の一つだった。飢え死にしそうになった過去生が思い返せば返すほど幾らでもある。前々世の審神者時代、不作続きの国での食糧難、冤罪の末に下された処刑法、他諸々。
中でも記憶に根強いのはやはり前々世。今の生と近い上に思い出すのが早かったためより鮮明なのだ。
審神者として本丸に就任してから幾年経った頃に通信システムを破壊された事があった。ゲートは政府にも戦場にも繋がらず、救援を求めるにもシステム自体が分断されていたため外部と連絡を取れるものは軒並み全滅の八方塞がり。特殊空間に存在する本丸が外部との通信が絶たれ孤立する。それは実質上の兵糧攻めと同義だった。
――自分たちは食事を必要としないのだから、残った食料は全て主の為に。
いつの時代も、どの世界も、優先されるのは最高責任者だ。本丸においての将、審神者の命を第一に考え行動するのは当然のことだった。
加えて、刀剣男士は人の形を取っていたとしても人ではない。元は無機物の付喪神。突き詰めてしまえば人間のような食事は必要ない。しかし時の政府の見解として食事が供物としての役割を果たすことが発表されてからは刀剣男士の食事を推奨されていた。神前に供えられている光景を見たことはないだろうか。米、酒、野菜、果物、海産物、その他諸々。理屈はそれとほぼ変わらない。そのため付喪神たる彼らも食事を取っていた。
そして更に、審神者自ら厨房に立つことで霊力をより循環させ効率的に取り込めることに気付いてからは、厨房に立つ審神者が増えた。デュースも過去生において厨房に良く立つ審神者だったのだ。
そんな背景がある本丸で己一人だけが胃を満たした。自分よりも年下の見目をした付喪神を前に、それでも生きるために腹を膨らませる。その罪悪感たるや。
何よりも不運だったのは審神者に就任して半年という戦力も整わない頃に通信システムを分断されたという一点に尽きる。
戦力、つまり刀剣男士の数がそれほど多くないということはイコールで食材備蓄の数も少ない。瞬く間に備蓄が底をつき、頼れるのは本丸の畑と井戸水だけとなった。餓死する前に異変に気付いた政府の役人と直属術士によって通信システムは復旧し、その後も無事審神者として戦に身を投じた訳なのだが。何年経とうとも飢えへの忌避感、食に関する執着は終ぞ消えなかった。
そんな過去生を持つデュースを前に食材を軽視する発言。不良二人は現在進行形でデュースの神経を逆撫でしている。それはいっそ見事なまでに。地雷原にマジカルホイールで突っ込んできたようなものだった。
デュースの双眸が剣呑に細められる。
「飢えを水や食用可能の草を喰ってしのいだことの無いお坊ちゃん共はすっこんでろよなァ」
「ヒッ」
思わず不良時代の顔が前面に出た。ついでに審神者時代の敵方を相手取る時の凄味も上乗せされている。
そんな殺気すら放ちそうな顔で凄まれて目の前の二人は後退った。デュースの地を這うような声に臆したのだ。手に取るように分かる。それでも彼らは不良らしく拳を振り上げた。口で勝てないなら暴力で黙らせる。何とも単純な思考。
デュースの口端がいびつに歪んだ。――喧嘩の開始である。
デュースが戦闘に身を投じるときは決まって間合いを大きく取り、ダメージを負わないことを最優先に立ち回る。動向を見極め、戦線離脱の機会を逃さぬために。そして仕留めるときは一撃で済むように。命大事に、一撃必殺。単純明快である。
なおこの戦法は審神者時代だけではなく、他の過去生でも同様に多用していた。つまりは魂に刻み込まれたもの。……過去生を思い出す前の自分も同じ戦法で喧嘩していたのだから非常に根深い。怪我をすれば母親に要らぬ心配を掛ける、それを懸念しての行動だった。今思えば流石としか思いようが無い。
不良二人を相手取っているというのにデュースは顔色一つ変えずに攻撃をいなしていく。中々決定的な攻撃を入れられないことに焦れた不良が腕を大ぶりに振る。がら空きになった懐を見逃すデュースでは無かった。大きく踏み込み距離を詰め、グッと握った拳を鳩尾に一発。抉り込むように叩き込む。呻き声を上げてその場に崩れ落ちた相方に焦るもう一人の不良へも同様に一撃。更に駄目押しでもう一発ずつ。決着がつくのは一瞬だった。
「まだやるなら今度は首を狙うぞ」
少しばかり息は弾んでいるものの、特に乱すことも無くデュースは淡々と告げる。しかしその目はぎらついていた。瞬き一つでもすれば距離を詰められそうな錯覚に不良はゾッと総毛立った。
なんだコイツヤベェ! などと言いながら痛む箇所を庇いながら走り去っていく不良二人を見送りデュースはフンッと鼻を鳴らす。結局卵の弁償代を巻き上げ……いや、貰えなかった。代金すら置かずに逃げるとは困ったものである。
「ひえぇ……昨日も思ったんだけど、オマエ、怖ぇえんだゾ……!」
「まあ、その、昔ちょっとヤンチャしていたというか荒れてたからな。忘れてくれ」
「突然爆発したみたいにキレるのやめるんだゾぉ! まだ背中の毛がぞわぞわするぅ……」
悪寒が抜けないのか、グリムはぐねぐねと体をくねらせる。それを見下ろしたデュースは盛大な溜息をついた。危機察知能力は獣であるグリムの方が高かったらしい。
「まあ、俺のことはさておき、だ。卵を買い直してくるからちょっと待っていてくれ」
荷物をグリムと監督生に一端預けて購買部に走る。そう時間をかけずに駆け戻ってきたデュースにサムは小さく笑って「これだろう?」と卵を取り出したのだった。完全に見透かされていた。ははは、と乾いた笑いで代金と引き替えにそれを受け取る。Mr.サム、中々に謎な人物である。
卵を片手に戻ってきたデュースを迎えると、監督生は意を決したように息を吸い込んだ。何だ? と目を瞬かせデュースは彼女の言葉を待つ。
「……あの、デュースくん」
「ん?」
「……卵からヒヨコは生まれないからね」
「ああ知ってるぞ。無精卵だしな」
何というデジャヴ。以前どこかで似たような会話をした記憶がある。流行っているのだろうか。頷きながらそう返しデュースは目を瞬かせた。
その返答に監督生はなぜか衝撃を受けたようだった。愕然と佇み自身よりも高い位置にあるデュースの顔を見上げる。色を失い得体の知れない物を見るような目を向けられて、デュースは片眉をヒクリと動かした。なぜか地元で執拗に纏わり付いてきた少女が脳裏を過ぎったのだ。
(――は?)
その瞬間、視界の隅で蝶のようなソレが蠢く。
間近にその変化を見たデュースは悪寒に全身の肌が粟立つのを自覚した。
監督生の周囲に蝶のような物体が発現したのは昨日のことだ。発言直後はピンポン球程度の大きさ、先ほど見たときは野球ボール程度の大きさ。そして、今のこの状態だ。短時間の内にこれほどまでに変化する例を今までに見たことが無い。……そもそも頻繁に視るような存在では無いのだから当然と言えば当然だが。
偶然かもしれないが、デュースがこの蝶のような存在を近くに飛ばしている人間と共に居ると、蝶の状態は決まって悪化する。会う度に黒くなっていく、大きくなっていく、そんな変化を審神者時代に感じていた。とはいえ当時は単なる推測でしか無かった。交流自体は短かったため変化している様子を間近に見るなどということはなかったのだ。そもそも演練以外で本丸の外に出ること自体が滅多に無い。自然と消えていくときもあったため、それほど問題視していなかった。しかし、こうも明確な変化を見てしまえば推測では済まなくなってくる。
「日が暮れてしまうから、早く厨房に戻ろうか」
「……うん」
顔を身体ごと背けて監督生から離れる。ほんの僅か、彼女に気付かれない程度に間隔を開けて。顔は前を向いたままチラリと視線だけを動かし斜め横を流し視た。彼女の傍を付かず離れず蝶が羽ばたいている。
やはり、少し距離を置くべきか。デュースはその選択肢も検討することにした。
厨房に着くまでデュースと監督生の間に特に会話は発生せず、少しばかり気まずい空気が流れる。空気など読まずタルトに思いをはせるグリムのはしゃぎ具合だけが唯一の救いだった。
────────
2020.9.8.支部にも投稿しました
2022.1.2.別館サイトに掲載
マロンタルトを作っている場所が寮のキッチンだとばかり思っていたんですけど、ストーリー見返してみたら大食堂の厨房でした。思い込みって恐ろしい。