ぽちゃり。水音がした。
その音にリドルは意識が明瞭になっていくのを自覚する。意識に紗が掛かったようにボウっとしていた瞬間があったようだ。わずかに視界が滲んでいる。瞬きを繰り返すことで明瞭さを取り戻した──はずだった。視界の不明瞭さは変わらない。光源がないのか。暗闇のせいで物の輪郭すらはっきりせず、周囲の光景すら判断が出来ずにいた。
(どこだ、ここは)
リドルの感覚としては一瞬前まで自室にいたはずだった。しかし、今立っている場所は明らかに室内ではない。無風だが湿気すら帯びている空気。片足のつま先を動かせばザリッと砂利が擦れる音がする。靴底越しの感覚はおそらく土なのだろう。瞬時にそこまで判断した。
だが、何故こうも不可思議な状況に陥っているのか、全くもって理解できない。自然と眉が寄る。右手を胸ポケットに伸ばしマジカルペンを取ろうとした、その瞬間。ぽたた、と何かが滴る音がする。すぐ傍に水っぽい何かが落ちたのだ。先ほどリドルの意識を揺らし覚醒させた水音と似ていた。
(……何だ?)
マジカルペンを握りしめると魔法石を媒体に光を灯した。まぶしさに目を細め、上へ向けてスッと緩やかにペンを振るう。光源を自らの手で発生させあたり一帯を照らそうと考えたのだ。徐々に光を強めていく。そして、彼の目の前には見渡す限り一面の水面が姿を現した。湖ともいえる程に規模は大きい。湿度が高いのはこのせいか。固い表情のままだが腑に落ちたように一つ頷いた。
自身の指先が冷えていることに気づいたが、軽く手を開閉させることでそれを誤魔化す。
一歩踏み出せば、水際の砂利が思ったよりも足先を飲み込むせいで体勢が崩れた。慌てて持ち直すが足場の悪さにリドルは唇を噛む。思うように身動きが取れないというのは、どうにも焦燥ばかりが募る。水面に映った己の顔が青ざめている。思わずまじまじと見て、逸る鼓動を落ち着けようと意識して深く呼吸をした。
そんなリドルの眼前で突如として宙に生じる一粒の小さな水球。警戒しながらもソレを注視する。
「……は?」
ペンを強く握り眉を吊り上げたとほぼ同時に、水球は重力に逆らわず下へと落ちた。ぽちゃりと音を立てて水面を揺らす。先ほどからリドルが聞き留めては気にしていた音と酷似していた。
音の出所はここだったのか。内心で呟き、眉間に険を刻んだままその光景を見つめていた。
たった一つの水滴で水面が歪む。揺らぎが収まった頃、水面に浮かび上がる影があった。──それが何であるかはじめは理解が出来なかった。しかし影が動き人の形をとった瞬間、リドルの背筋は凍る。まるで動画が再生されるかのように、とある一場面が映し出されていた。
水鏡に浮かんだモノの正体を悟ったリドルは、じりじりと後退る。だが足に力が入らない。地面に縫い付けられたかのように動かせなくなる。
この場にデュースが居れば盛大に顔を引き攣らせただろう。何せ視えるものにしか視えない鎖がリドルの両足に絡みつき、雁字搦めにしていたのだから。
凪いだ水面は、鏡のように彼の過去を映し出していた。再度水面が揺らぐ。控えめにおずおずとケーキをねだった結果、すさまじい剣幕で叱られる一幕が映し出される。その隣では定められた時刻に一分でも遅れたことを詰められる場面が。トレイとチェーニャの関わりについて叱責されている光景が。幼少期の出来事が水鏡に浮かんでは消えていく。
規律を、母の方針を、指示を、命令を、順守せねばならなかった。それがリドルの世界の全てであり、絶対だった。
繰り返し、繰り返し。そう言い聞かされてきた。言いつけを守らなければ。ルールを厳守せねば。──そうでなければ、きっとリドルは母親から見放されてしまうのだと。そういった恐怖すら、あったのだ。彼自身も気づかぬ間に、心の内に根付き巣食っていた。
「……っ、うぁ……」
震えを帯びた呻きがリドルの口からこぼれ落ちた。
リドルの母親は遠く離れた場所にいるはず。だというのに、何故こうも追い立てるのだ。先日自身の心の内を吐露したおかげで多少は軽くなった胸の内が、またもや凍りつくような感覚に襲われる。息すら上手く吸えずに喉が引き攣れる。
最早この場の全てがリドルを心身ともに蝕む呪縛であった。なすすべもなく棒立ちになったまま、彼は目を見開き水鏡に映し出されるそれをただ見つめていた。
◇
デュースの視界が闇に遮られた。目をなるべく細めて、しかしリドルを視界から見失わぬように前を見据える。
離さぬよう制服を掴む手に力を込めたが鎖が邪魔で仕方がなかった。鎖が意思を持って蠢くせいで、掴んだはずの制服が指先に引っかかる程度になってしまう。気づいた時にはもう遅かった。するりと指先から辛うじて掴んでいた布地がすり抜けていく感覚を確かに感じる。
(待っ! 嘘だろ!)
ぐにゃりと歪んでいた足元の感触が変化し、デュースは固い地面を踏みしめた。ほぼ同時に両腕を広げてリドルに触れないかと探るが空振りに終わる。完全にはぐれてしまったのだ。それを察して、表情を険しく周囲に視線を巡らす。
暗闇だ。一寸先も見えず、光の差し込む隙も無いほどに。
自身の眼に暗視の術をかけてデュースは状況の把握を始める。
見渡す限り広がる荒れ果てた地面。視界を遮るかのように転がっているのは岩や大ぶりの石だ。乾燥しているのか岩肌も地表も見るからにざらついていた。
建物らしきものがちらりと見えた気がしたが霞がかって判別できない。焦りで自然と早くなる呼吸を落ち着けようと深く息を吸った。意識してゆっくりと吐き出す。
ここはおそらく鏡の向こうに出来上がった、小さな世界。ちょっとだけズレた空間だ。異界とも言い切れないほど制限のある、現実世界と常に隣り合わせに存在している場所。
ああ、どうしたもんかな。がしがしと右手で後ろ頭を乱暴に掻き思考を巡らす。
「推定オバブロの原因がこんな面倒な事態に繋がるとか考えてもみなかったぞ……」
多少げんなりと肩を落としてデュースは腰のベルトを少し緩め、刀を差した。マジカルホイールや馬に乗る時には腰に佩くのだが今はこれが一番なのだ。鞘ごとぶん回すのに抜き差しが楽。
ざっと周囲を探り、近くにリドルが居ない確信を得る。
深く長く息を吐くとデュースは内ポケットに右手を差し入れ目的のものを取り出した。先日リドルを探す際に使用した人捜しの術式を仕込んだ折り紙の一つ。まさか同一人物を再び探すことになるとは。
予備でいくつか作っておいてよかった。備えあれば憂いなし、と言うが全くもってその通りだ。よくやった過去の自分、などと内心で自画自賛する。そうでもしなければやって居られなかった。
リドルを捜すための術を発動させると折り紙は鳥に変化する。早急さを求める文言を加えたため先日の小鳥よりも飛ぶスピードが速いはずだ。つぃと滑るように目的地に向けて飛び立つ紙の鳥を追う。
制服のどこに何がどれくらい残っているのか、手早く確認しながらデュースは走った。地面はでこぼこと足場が悪く必要以上に体力を消耗しつつある。つい舌打ちをしながらも、脳裏に思い出すのは先ほどの光景。移動の最中にも現象の分析と解決につなげるための思考を止めない。
(あの鎖、なぜかクローバー先輩に対して敵意を見せていた。ってことは……)
脳裏をよぎるのは明確な意思で蠢いていた数多の鎖。威嚇するように彼の周囲に漂い、床や壁に打ち付けていた。おそらくはこの空間が作り出されるに至った原因の心理も反映されているのだろう。
外部からもたらされるリドルに対する働きかけ、その中でも好ましくないものは徹底的に排除する。縛り付け己が思うがまま望むままに動くように。
推測が正しければ、この場所はあの手鏡に関わる人物の強い念が形となった空間だ。そして、標的とした人間の深層心理を反映させた、悪趣味な場所だ。媒体が鏡という力を持ちやすいものだったことも事態を悪化させる原因だろう。……ただ、こうも人を引きずり込めるような空間を作り上げられるまでの力をどこで得たのか。それだけが説明をつけられない。グッと下唇を噛んでデュースは足早に紙の鳥を追った。
一際大きな岩塊を迂回して進めば途端に視界が開ける。デュースは湖畔に足を踏み入れていた。畔に色褪せた建物を見止めて、先ほどの霞んだ建造物は錯覚ではなかったのだと知る。
なぜかこの一帯はほのかな光に照らされているようだった。つぃと視線を動かす。上空に光源らしきものを見つけて息を呑んだ。魔法で生み出された光。状況からしてリドル以外にこれを作り出せる者はいない。全貌を視ようと目を凝らす。さほど離れていない場所に確認できる紅い頭。思わずホッとしたように小さく息をついた。
案内役の鳥を呼び寄せて術を終わらせる。
(──ああ、居た)
そう考えると同時に水面に何かが映り込み動いているのを見止める。一時的に緩んだ気が瞬時に引き締まった。
リドルは身体を強ばらせ立ち竦み、微かに肩を震わせながら鳩尾の辺りで両手を握りしめている。見開かれた目尻に薄らと浮かぶ涙。遠目から見ても唇の色は失せていた。それでもリドルは眼下に広がる光景から目を離せないで居る。あまりにも異様な光景だった。
蠢く鎖が見える。足元に固定するかのように楔が穿たれている。その二点を確認したデュースの双眸が剣呑に細められた。己の予測はあながち外れてはなそうだ。
リドルを縛る鎖、それをこの地に穿つ楔、この場所を作り出したモノの強い念が生み出したのだろう。そして、リドル自身は抵抗する思考も感情も抱けずにいるのだと。実際に目の当たりにして頭が理論を整える前に感覚で理解する。
湖の水面から、虚空から、鎖が出現してリドルの周囲を囲っていた。まるで籠のようだな。デュースは唇をへの字に歪めた。
外界からの干渉を許そうとしない。その囲い込みに介入するには──。
(下手に刺激したら寮長に危害が及ぶ可能性があるから、あれでいこう)
相手からの認識を
内ポケットの一つから札を一枚取り出し左手に持つ。密やかに空気に溶け込むような囁きでまじないを唱えた。声に出して詠唱するのは最初の一度だけ。心の中で呪言を繰り返し唱えながら一歩、二歩、と確実にリドルとの距離を詰めていく。呼吸を、感情を、自身の存在を出来うる限り潜めて空気に溶け込ませた。
靴底が水の表面に触れた途端、波紋が生じる。水中に踏み込む感覚はなかった。たゆんと歪む、スライムでも踏みつけたような妙な感触が靴底越しに伝わってくる。一瞬だけ顔をしかめるとチラリと足元を一瞥し、そのまま足を踏み出した。
デュースの足は水中に沈まず水面を滑るように歩いていた。傍から見れば水面を歩いている、という現実ではありえない光景だ。いや、魔法を使えば不可能ではないが進んで実行する者は少ない。余程の物好きか、必要に駆られた場合だけだろう。
ものの数分と経たずにリドルの正面に到達する。
先日までの傲岸不遜な様子は見る影もない。何かに怯えているようにも見えてデュースは片眉を跳ね上げた。
見開き切った目は一点を見つめて動かない。肩が異常なほど強張っている。指先がカタカタと震えているというのに、彼はひたすらに水面に映る己の過去を見ている。
デュースはそんなリドルの視界を遮るかのように彼の前に立った。意図的に水面に波紋を生じさせる。映し出されていた過去の一つが歪んで消えた。
「りょ、……先輩」
寮長と呼びかけようとして止める。この場で責のある呼称を使うのは避けるべきだと頭のどこかで警鐘が鳴ったのだ。
「っ!」
抑揚の無い声がリドルの耳朶を打つ。
のろのろと顔を上げていく彼の目はどこか力がない。視線が移行する速度はひどく緩やかだ。僅かにぼんやりとしたリドルの瞳がデュースの制服のネクタイを捉えた。喉元、瞳へ移る。そして視線がかち合った。丸い目が更に見開かれる。リドルはこの訳の分からない陰気な場所に、自分一人しかいないものだと思っていた。だから、視界を遮られ、声をかけられたことに驚いたのだ。
……誰かと思えばやたらと寮をかき回した一年の一人。この訳の分からない場所に、なぜ。瞳がそんな疑問を物語っていた。
「帰りましょう。どうにかして道はこじ開けるんで」
「かえ、る、……帰る?」
「はい」
リドルの両目が揺れた。涙こそ浮かんではいないが、彼の内で感情が追い付いた瞬間に湧き上がってくるのだろう。そんな色が滲んでいた。
「でも、ボクは」
「見たくないなら、それでも良いんですよ。無理に見て、自分を傷つけなくとも。……今はその時じゃあないでしょう」
「…………うん」
はく、と口を開閉させたリドルは言葉少なに頷く。そのまま前へと項垂れた。その拍子に強張っていた肩の力が抜けたのか、デュースの左肩へと寄りかかるように距離が詰まる。あまりにも力の入らない様子に、デュースは慌てて左手で彼の身を支えた。
これまであえてリドルの動きに干渉しようとはしなかった。そもそも身体に触れようとしなかったのだ。今のリドルに、動きを強制するのは良くないと判断したためである。じれったいほどゆっくりとリドルの右腕が上げられる。デュースのジャケットの裾を指先で掴んだ。それは、縋るように、と言うには弱々しすぎる力で。
「……本当は、嫌だったんだ」
それはオーバーブロットが収まった後にも聞いた言葉だ。
「でも、お母様は、……ボクは、ちゃんと、決まりを守らないと」
珍しく要領を得ない物言いだ。どこかたどたどしくすら感じる。訥々とこぼれ出てくる言葉は心の奥底に押し込めていたものなのだろう。オーバーブロットの際にデュースが視て聴いた彼の過去とそう違わない。感情を込めれば周囲を刺激しかねない為、デュースはなるべく感情を抑えて相槌を打った。
静かな嗚咽が水鏡を揺らす。
(相手側からの干渉だけじゃなかったんだな、問題は。こんなの、本人の方からも縛られに行ってる状態じゃないか)
三つ子の魂百までも。幼い頃に形成された性格はどれだけ年を重ねようと変わらない。それは性格に限らず、価値観や思考などにも及ぶ。根底にあるものは簡単に崩れることはない。
おそらくは規律を少し緩め、自身にも甘くした行動を無意識のうちに責めていたのだろう。もっとも、それはリドルの感覚で物事を図った結果だ。一般から見ればまだまだルール厳守を掲げる頑固で融通の利かない人物であることに変わりはない。親しい人間以外からの印象などそんなものだ。
限定的に他者からの干渉を断ち切ることは可能だ。だが本当の意味で解放されるのかと言えば、それはまた別の話になる。
より質が悪いのは無意識のうちに自ら縛られていること。それにすら気付かない場合。──リドルはこれに当たった。
寮生を寮独自の法律で縛り続けていたリドルもまた、ずっと縛られ続けていたのだ。リドルがオーバーブロットを引き起こしたその日を境に寮生たちは理不尽な支配から開放された。しかし彼は未だ母親の影から逃れられずに居る。縛る者は、縛られる。何という皮肉だろうか。
もしかするとリドルを自分の方針の下に縛り続けた彼の母親も、同じように何かに縛られ囚われているのかもしれない。まあそれはデュースのあずかり知らぬところではあるのだが。リドルのことを考えるとあまり良いとは言えない状況だった。
何はともあれ、全てはこの場所から脱出しなければ考えても仕方がないことばかりだ。
デュースは静かに唇を開いた。密やかに紡がれる淡々とした声色にリドルは目を瞬かせる。
「先輩、少し移動しましょう。水際は冷えます。寒いでしょう」
「……うん」
殊の外素直に頷いたリドルに多少面食らいはしたものの、デュースは移動を促した。彼を支える手をそのままに水鏡と化した湖を見ないよう方向転換させる。二人の足が水際の砂利を踏んだ。
視界に入る全てを意識して注視し、彼をこの場所に縛り付けている大元が探る。予想としては足元に穿たれた楔だったのだが、どうやら違うらしい。どちらかというと楔は鎖と似たモノのように感じたのだ。
じゃらり。鎖が揺れる。嫌な予感がした。
(楔が中心じゃないとするなら……
それを探し出し断たねばならない。そうでなければまたリドルは縛られ続ける。最悪の場合、今回現実世界に戻れたとしても隙を突いてまた似たような場所に引きずり込まれるだろう。その場にデュースが居なければ一気に詰む。
今回は偶然彼の制服を掴めたから入り込めたのであって、おそらく次はない。そもそも、この陰鬱な場所に引きずり込まれた先ほども鎖に邪魔されたのだ。デュースがリドルに触れる前に鎖がしなり狙われた。とっさに応戦していなければこの場所に入り込むことすら叶わず弾かれていたはずだ。今頃は手鏡の前で悪戦苦闘していたことだろう。
デュースはリドルの体を支えた左手をそのままに、右手で印を結ぶ。いくつかの印を流れるように組んだ後は意識を周囲に向ける。意識して息を深く吐き出し呼吸を整えると、探ることに集中しはじめた。
探る。
水平線とも言える遥か先に続く水面を、その下を、右手にたたずむ大木を、左手の彼方に聳える岩塊を、斜向かいに鎮座する色褪せた建物を。
探る。
元凶は、大元はどこだ。何が根付いている、源は何だ。
探る。そして考える。
鎖の出所はどこだ。それが判明すれば早いのではないだろうか。
周囲に視線を巡らせる。しかし、自身の考えが甘かったことを悟りデュースは険しく両目を細めた。水面から、水底から、宙から、鎖は至る所から出現している。
(一つ処から出現しているわけじゃない。法則性も、無さそうだ。じゃあ何だ? テリトリー内では自由ってことか?)
そこまで考え喉元に小骨が引っ掛かったような違和感を覚える。何かが微妙に違う気がした。ぐるぐると思考を巡らす。
テリトリー、干渉可能な領域、──そうか、この場所こそが大元なのか。思い至った瞬間デュースは総毛立つ。
その刹那。ぬらり、と影が立った。
リドルの足元付近から音もなく揺らめきながら水際の砂利すらも巻き込んで。足元の水面に、いやその下に、蠢く何か。恐ろしいまでの変化を視止めてその場からリドルを抱えながら飛びずさる。
いつの間にか鏡のように様々な過去を映し出していた水面はどす黒く変色していた。それどころか滑らかな表面すらその面影が無い。ヘドロのようにもったりとした質感に変わり果てていた。
うへぇ、と隠すこともなくドン引きしつつデュースは腰から鞘ごと刀を抜いた。力任せにリドルの足元へと鞘の先端──
視えていないリドルは何が起こったのか分からず目を白黒させる。だが意味の分からないデュースの行動に言及することはなかった。理解できないなりに、何故か重怠かった足が軽くなったのを感じたのだ。
「背負いますよ! しっかり掴まってください! あと走るんで足でもシッカリしがみついてくださいマジで頼むんで!」
「えっ、うわっ!」
背負い投げの要領でリドルの片腕を掴むと自身の背に乗せる。慌ててもう片方をデュースの首に回したリドルは目を白黒させていた。
内ポケットから先ほどの使用した人捜しの術式を書き込んだ折り紙を宙に放り投げる。小声かつ早口で唱えられた呪文。それをリドルは聞き取ることが出来なかった。そうこうしている間にデュースは彼の両足を抱え、完全に背負いきる。
「デュ、」
「この場所で名前は呼ばないでください駄目です! あと出来るだけ手を使いたいんで合図したら全力全身でしがみついていてください!」
「はあ!?」
「んじゃ走りますから口閉じてくださいね!」
「う、わっ!」
つい一瞬前までの無に近い静寂はどこへやら。打って変わって騒がしい。矢継ぎ早の要望にリドルは思わず喚いた。
だがそれも急に走り出されたせいで強制的に口を噤むことになる。グッと唇を引き結んだリドルは内心憤りを隠せずにいた。舌を噛むところだったのだ。
デュースが走り出して数歩と経たないうちにリドルは「しっかりとしがみつくこと」を要求された本当の意味を理解した。
急な方向転換、停止、更には動くたびに襲いくる衝撃。デュースが地面を蹴る度に、地面を踏みしめる度に、衝撃がもろに伝わるのだ。加えて、ひどく揺れる。背負った相手になど配慮の一欠けも向けていない。リドルはたまらず両足をデュースの胴体に絡みつかせた。
将来、もしもこの後輩が運転する魔動車に乗ることになったら全力で拒否しよう。リドルは目が回りそうになりながら固く決意した。
「先輩、手ぇ離します!」
「っ!?」
そう言うや否やデュースは本当に手を離した。両ひざの支えを失ったことでリドルは更に両手足に力を込めて後輩にしがみつかなければならなくなった。傍から見たら随分とまぬけな状態だろう。けれども当の本人たちはそんなことを気にしている余裕など無い。予告が間に合ってよかった、とデュースは頭の隅で考えた。
近くで羽ばたいている案内役が移動を止めた術主を待っている。視線を向けなくとも白が視界に入るため見失う心配はないことが救いだった。
鎖が空を切る音が唸り声のようだ。迫りくる黒を振り払う。──その瞬間、一本の鎖がデュースの持つ刀の鞘に巻き付いた。チッと舌を打ち、力の限り両腕を上下に振るが一向に引き剥がせない。黒々しい鎖が鞘に収められたままの刀を締め上げる。ギリギリと嫌な音が鳴る。凄まじい力に、抗うデュースの手の甲に血管が浮いた。
現時点で相手にとって一番厄介な存在は間違いなくデュースである。無力化させようと武器を引き剥がしにかかってきたのだ。
(持って行かれるとか、冗談じゃ無い……!)
両足で地面を踏みしめ体勢を崩されないよう腰を低く構える。両手で柄を握り、デュースは渾身の力で振り払った。
攻撃の意図を持ってしなる鎖。それを鞘で撃ち落とし、時に断ち、デュースは紙の鳥が導く先へと突き進んでいく。物のついでと言わんばかりに上着の左ポケットから何かを取り出すと宙に放った。
「おらよ、っと! まかれやまかれ、このふにまかれ」
いつ何時、何があっても対処できるようにコツコツと書きためてきた短符。それを惜しみなく放ち、言葉に力を乗せて紡いだ。正確な術言などではない。長ったらしい術言を唱える時間すらも惜しかった為、言霊を使用したのだ。これも審神者として生きた過去生で身に着けた技術の一つ。
今しがたデュースが放った短符。これは短符そのものだけでは意味をなさず、目的をもって唱えられた術言によって様々な効力を発揮する。そういう代物だ。それでも丹念込めて作り上げた短符はデュースの願う通りの効果を発揮した。
言葉通り短符数枚は鎖を巻き取っていく。──道が開けた。
次いでデュースがスラックスの右ポケットから取り出したのは人型に切り整えておいた一枚の紙。しがみつくリドルの腕と自身の胴体を払うように撫でると、そのままの流れで無造作に投げ捨てた。同時に再び走り出す。ほぼ予備動作無しの動きにリドルがその背で呻いた。
……鎖は追ってこない。身代わりが上手く作動したようだ。
周囲の鎖、背後の瘴気すら発する泥、気を取られたせいか前方に対する注意が疎かになっていたのかもしれない。異変に気付いたのは意外にもデュースではなく背負われていたリドルだった。
「デュ、ああもう! キミ! さっきの鳥が光っている!」
「ンぐっ、首っ、しまっ!」
「す、すまない……」
名を呼んではいけない。そう言われていたことを寸前で思い出した為、どう呼びかけたものかと迷った結果がこれである。首元を絞めないよう気を付けてはいたつもりだったが力を込めすぎたようだ。
けほっ、とデュースは軽く咳き込む。次いでリドルが指し示す方──自身が放った案内役が淡く光っているのを確認するなり表情を引き締めた。
「……この腕と両足、絶っっっっ対に離さないでくださいね」
「え、…………まさかとは思うけどキミ、」
目の前に広がるのは、ぱっくりと大口を開ける崖。リドルは顔を盛大に引き攣らせた。
──この空間は対象者、つまりリドルの深層心理が反映されているのだ。彼が自ら母親の手を離れることを、文字通りこの断崖絶壁の先に向かうような感覚で居たとしても何ら不思議ではない。
だから、デュースはこの先に飛び込むことに迷いはなかった。
「行きますよ!」
「ちょっ、待っ! う、わ、ぁああぁっ!! ──っ! ──っ!」
何の説明もなく飛び降りに巻き込まれたも同然なリドルからしてみれば堪ったものではないかもしれないが。
必死に縋りつきながらリドルは歯を食いしばった。内臓が浮く感覚が気持ち悪い。頬に当たる風が刺すように痛い。最初に上げた悲鳴は喉の奥に引っ込んでしまった。落下に伴い生じた風圧に呼吸さえままならない。驚きと恐慌のあまり声が出なくなることもあることを、リドルはこの時初めて知った。
落ちる。落ちていく。二人は風に煽られながらただひたすら落ちていく。
女性の金切声のような音が遠くに聞こえた。耳障りなソレは確かにデュースの耳に届く。だがリドルはそれどころではなかった。見開いた目を閉じることすら出来ずがっちがちに硬直している。彼の耳に届くのは空を切る風の音と自身の早鐘を打つ心臓の音だけ。
落下していく最中、デュースは鞘に納めたままの刀を左手に持ち替えた。利き手を開けたのだ。次に何が起きても対処できるように。
こうして二人は手鏡の向こうに作り出された、少しズレた小さな世界から飛び出したのだ。
────────
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