突如として部屋の中心に仄かな光が出現した。ハッと顔を上げてトレイは目を見張る。リドルが鎖に捕らわれ、デュースが手を伸ばし、両者共に姿を消してから数分と経っていない。
落ちてきた二人を前に、トレイとケイトは驚愕に満ちた顔でその様子を見守るしかできなかった。予想していた光景とあまりにも違っていたからだ。顔面蒼白のリドルがデュースに背負われている。
思考は滞りなく動く。二人の元に寄って何事も無いか確認せねばならない、と分かっていた。しかし何故か駆け寄れない。魔法で身動きを封じられたかのように体が動かない。甲高い音が耳を突く。
咄嗟に動けないトレイたちを尻目に、デュースは射るような視線で自身の背後を睨めつけた。
「……しつこい、なっ」
忌々しげに放たれた唸りは低く重い。流れるような動作で左手に持つ黒い棒状のもので背後を殴りつける。何もないはずの空間だというのに、空気がたわんだような錯覚。急にピントが合わなくなったような、度の強すぎる眼鏡を掛けた時のような、鈍い痛みに襲われた。
反射的に眉を寄せて目を瞑ったトレイも、隣でたたらを踏んだケイトも、それぞれ目元とこめかみを抑える。
その間にリドルを背から降ろしたデュースが室内に隈なく視線を巡らせていた。瞳に宿る剣呑さが増す。とある一点を見据えて音もなく立ち上がった。
その背にどこか薄ら寒さを覚えてケイトは表情をこわばらせた。
◇
まぶしい。室内灯の明るさだ。目を細めてデュースは来たる衝撃に備える。
床を踏みしめた感触に膝が崩れそうになった。肺に吸い込んだ空気が確かに現実世界に戻ってきたのだと告げている。半ば折れかけた膝でその場に倒れこまず踏みとどまったのは最早意地だった。
追ってきたモノに多少苛立ちを覚えつつも打ち返した。
「う、おっ……と」
「……っ、……っ、……っ!」
対するリドルは、もはや声すら出ない状態だった。目をあらん限りに見開き全力でデュースにしがみついている。あまりの力強さにまたデュースの喉元が締まる。息苦しさにバシバシと彼の腕を叩くが一向に力を緩めてくれない。
とにもかくにも背負ったリドルを降ろそうとしゃがみ込む。そろそろっと力を緩めて自身の両足が床に触れた瞬間、リドルは脱力した。一番強い感情は安堵だろう。精根尽き果てたとでも言わんばかりにぐったりしている。当然と言えば当然だろう。精神的に追い詰められた後、ひどく揺れる他人の背にしがみついて自室に戻ってきたのだ。
もう一度デュースの背にしがみついた状態での大爆走を味わうか、ジェットコースターを選ぶとしたら、今のリドルならば一も二も無くジェットコースターを選ぶだろう。
走る、跳ぶ、回る、しゃがむ、人間の出来る動きは一通りしていたのではないだろうか。乗り心地は最悪だった。まあ、妨害する事象をいなしながら、立ち回りながらの激走だったのだから仕方がない。
背からリドルを降ろしたデュースの視線が、媒体となったはずの手鏡を探す。背筋に冷たいものを感じて振り向いた。机の上に手鏡らしきモノがあるのを確認して引き攣る頬。デュースの目には手鏡の輪郭はほとんど捉えることができない。ウゾウゾと瘴気が立ち昇っていたのだ。
「リドル! デュースもっ」
「リドルくん、デュースちゃんっ!」
「まだ近寄らないでください!」
「……ト、レイ?」
声色鋭く駆け寄るトレイとケイトの動きをデュースは片腕を上げることで制する。その気迫に呑まれて二人は二の足を踏む。
まだ終わっていないのだ。優先すべきは禍の大元を取り除くこと。呪具と成りはてた鏡を指し示すとリドルへ問いを投げかける。その表情は険しい。
「貴方がこれを壊して頂けますか」
「えっ」
「本人じゃないと意味が無いんで」
「……、どうしても、かい?」
「はい」
元凶を取り除かなければ同じことがまた起こる。それこそ何度でも。だからこそ繋がりをここで絶たねばならない。──自ら縛られたリドル自身の手で壊すことに意味があった。
「選んでください。壊す、壊さない、これを選び行動するのは貴方でなければならない」
リドルは息を呑んだ。果たしてこの後輩がこんなにも真剣な、刺すような目を見せたことがあっただろうか。
現状を把握できずにいるトレイとケイトは何か言いたげな顔をしてはいるが、それでも口を噤んだ。当事者である二人を見守ることに決めたらしい。
「……わかった」
リドルはポケットからハンカチを取り出すと手鏡をその上に置く。一瞬息を詰めたのち、彼は自らの意思を持って手鏡を破壊した。パリンと甲高い耳障りな音が響く。どことなく耳の内に残るような不快感。当のリドルも、見守っていたトレイとケイトも、何があっても対処できるように刀に手を添えていたデュースも、皆一様に顔をしかめた。
名刺程度の大きさの短符を、真っ二つに割れた鏡の上から張り付ける。ピキピキという細々しい音と共に至る所に罅が入り、ガラス質の部分は完全に粉々になった。修復魔法を施そうが完全に元には戻らないだろう程に。
粉々に砕けた手鏡を一瞥するとデュースはリドルを抱え上げた。
「呪符で蓋をしているも同然の状態なので、ソレは後で処理します。今の最優先はこちらですから。……先輩方アレに絶対に触らないでくださいね」
やるべきことを脳裏に展開させ優先順位を決めながら、デュースは対処しかねている二人ににくぎを刺す。
不用心に手鏡を移動させた自覚のあるトレイは僅かに苦い表情を浮かべた。状況はあまり良くつかめてはいないが、触れるのはあまり良くなかったらしい。黙って居よう。内心でそう呟いてすらいた。そういうところである。
あの手鏡にまつわる一件については解決したわけだが、まだ問題は山積みなのだ。デュースに抱えられたリドルはその腕の中ではくはくと口を開閉させた。衝撃と羞恥のあまり言葉が出てこない。
「なっ、なっ!?」
「バスルームってどこですか?」
「こっちだ」
「おっ降ろ……!」
「いや、今は立つのもやっとでしょう。おとなしく運ばれてください」
トレイに案内されてデュースはバスルームへ足を運ぶ。腕から逃げようとするリドルの抵抗は完封された。リドルは付かず離れずの距離で様子を見守るケイトに助けを求めるが、ニコリと笑うだけで止める素振りなど欠片も無い。自身の味方はこの場に居ないのだと悟ったリドルは呆然とした。
そもそも立つ事すら危うい幼馴染みに、後輩に、無理をさせるような二人では無いのだ。どれだけ心配をかけ気を揉ませたのかリドルは分かっていない。これを機に確りと認識してほしいものだ。
トレイがバスルームの戸を開ける。そのまま戸を通り抜けてデュースはリドルを抱えたまま浴槽の手前まで歩を進めた。
「デュース、服は」
「このままでいいです。着替えは後で構いません」
手短に伝えてデュースはシャワーヘッドを手に取る。
「今から水で良くないモノを流します。身体が冷えているので本当は早く温めたいんですけど……お湯は少し待ってくださいね。水が温まるのも時間がかかりますし」
とりあえず水で穢れを洗い流すことから始めなければならない。清水や清酒などがあれば手っ取り早いのだが、無い物は無い。仕方が無いことだと割り切るしかないのだ。
頭から水をかけ流し纏わりついた瘴気を落としていく。要は禊と似たようなものだ。デュースが意識してリドルの周囲を視つつ、時折何かを呟きながら作業は続いた。会話らしい会話はほとんど無い。そう時間を置かずしてデュースは温水に切り替えた。
「これでひとまず大丈夫です。しっかり体を温めてから出てきてくださいね」
後はお一人で、と告げれば慌てた様子で振り返られる。その顔に浮かぶ若干の不安。どこか怯えのような色すら見える。おや? と内心で不思議に思いつつデュースはきょとりと目を瞬かせた。
「か、がみが、あるのに?」
「大丈夫ですよ、あんなことになるのはさっきの手鏡だけです」
「……、……、……外で、待っていてくれないかい?」
ぐぬぬ、と何かを耐えるような表情で絞り出された言葉。なるほど彼の不安はそこにあるのか、とデュースは納得した。元凶を破壊したとはいえ類似した物が近くにあるのは確かに不安だろう。
「わかりました。えーと、クローバー先輩と一緒にここで待ってます」
「ケイトはあっちで紅茶の用意をしているからな。ちゃんと温まるんだぞ」
結局、リドルが出てくるのを扉の前で待つことになったのだった。
トレイが苦く笑っていたのだがどんな感情なのだろう。嫌なものではなさそうだが。もしや表面上取り繕っているだけだろうか。
そう考えながら複雑そうな顔で壁に寄り掛かった後輩を、トレイは横目で見やった。……彼の中でデュースに対する疑念はある程度まで薄れている。感覚的に嫌なモノが無くなったのだと察したからだ。ただ、完全に信用しきるには足りないというのは変わっていない。分からないことが多すぎる。落ち着いたら納得のいくまで説明を求めるつもりでいた。
程なくしてリドルが着替え終えてバスルームから出てくる。着替えはトレイがクローゼットから適当に取り出して用意したようだ。
短時間で出てきているため、おそらく体の芯はまだ冷えているはず。ケイトが気を利かせて紅茶を入れていることを知らなかったら、再びバスルームに押し込めているところだ。
幼馴染の二人がぽつぽつと会話をしながら室内に戻るその後ろをデュースは無言のまま追う。チラチラと視線が動く。近頃は寮内で見かけなくなった黒い靄が濃い状態で漂っているのを見つけたのである。うごうごと蠢くソレは骨ばった手の形を取り始めていた。
あまり他人が立ち入らないリドルの部屋。当然ながらデュースも入ったことがない。だから、彼の部屋に瘴気一歩手前の靄が漂っているだなんてことに気づきすらしなかった。
「おっと、椅子が足りないな」
「あ、お構いなく」
客人を多く招き入れるほどの椅子は存在していない。部屋の主であるリドルがベッドに腰掛け、トレイとケイトがそれぞれ椅子に座る。デュースは立ったままだ。……何も年功序列でそうなっているわけではない。トレイもケイトも自分が立つ、もしくは椅子を魔法で出そうとした。リドルに至っては自身の隣に──つまりはベッドに腰掛けろとまで言った。だが、それに首を横に振り断ったのはほかならぬデュース自身だった。
まだまだ動き回らなければならないことが残っていたのである。一言断りを入れて室内をウロチョロし気になる個所を念入りに見ていく。その間に粉々の手鏡を大判のハンカチに包み短符できっちりと封をした。残された三人は不思議そうな顔のままそれを見守った。数分と経たずに彼らの元に戻ったデュースは重く口を開いた。
「……こうなってしまった以上避けて通れない話なのですが、いいですか」
「うん」
殊の外素直にリドルは頷いた。どこか幼さを感じる返答にデュースはぱしりと目を瞬かせる。
「今夜を含めた数日、厳密には違いますがちょっとだけ似たような状況になる可能性があります。そのため今日は俺をこの部屋に泊めてください。本当に、今日だけです」
「「は?」」
トレイとリドルが素っ頓狂な声を上げるがデュースは全く気にも留めずに言葉を続ける。
「あ、椅子か何か貸してもらえればそれでいいです。どこでも寝れるので。……まあ大丈夫だとは思いますけど念のため、最悪の事態を避けるためですよ」
何てことの無いように告げる後輩を前に、彼らは三者三様の反応を見せた。答えあぐねいているようだった。
「詳しくは説明できませんが、三人とも視ましたよね? あの鎖」
「黒い、ボクを引きずり込んだあれのことか……」
「……ああ」
「アレ、やっぱり見間違いじゃなかったんだ……」
程度の差こそあれど顔を強張らせて彼らは頷く。どういった存在なのか分からずとも、アレが「良くないもの」であると理解していたのだろう。
それに一つ頷いてデュースは言葉をつづけた。
「ザックリ言うとそれ等の対応をします。……ただ、近いうちに対価をいただきますので、その心積もりで居てください」
その言葉に三人の顔が強ばる。
対価、その単語はあまり良い印象が無い。とある人物が声を大に主張している概念だからだ。──まさかこれ幸いと無理難題を吹っ掛ける気ではないだろうな、と僅かな不信感が込み上げてきた。
「対価、かい?」
しかし、それを振り払うように頭を振るとリドルはデュースに問いかける。危うい所を助けられた時の感覚としては損得など考えてなどいないように思えたからだ。いやもしかしたらリドルがそう信じたいだけなのかもしれないが。
「命に関わる問題だったんで流石に貰わないと。後々寮長にヤベェしわ寄せが行きそうで……まあ要するに良くない予感がするんですよね」
常世のルールや決まり事とはかけ離れたモノと関わるというのは、そういうことだ。デュースは前々世で長らくそういった世界と隣り合わせに生きてきた。だからこそ無償で何事かを施すことが難しくなっている。
「対価というのはつり合っていなければならないんです。だから理不尽なくらいの暴利をふっかけたりはしません。それに――」
ほんの一瞬言葉を区切ったデュースはチラリと封をした包みに視線を向けた。つられて三人の視線もそちらに吸い込まれる。
「先ほど寮長自身に選択させて鏡を壊して貰いました。あれも対価の内に換算できるので、まあそんな身構えなくとも良いんですよ。この後必要なのは過不足を調整するだけなので」
首をすくめてそう告げる。デュースの脳内では既に今宵を乗り切るための算段をつけ始めていた。何をこの部屋に持ち込むのが最適か。どう立ち回るのが最良か。
目を眇めるのと同時に目元に影が出来る。睫毛の影が色濃く落ちる。若干疲れが滲んだような印象に変化した。
「今回の
視線をスッと上げ、どこか遠くを見るような眼差し。その瞳にどんな感情の色も見えない。目の前の後輩に何故か人外じみたものを感じてケイトはそっと両腕をさすった。
「じゃあ、俺はちょっと必要なものを取り寄せますね。私物を召喚するので少し手狭になるかもしれません」
「あ、ああ。構わないよ」
許可を取るなりデュースはぽんぽんと遠慮なく様々な物を部屋の片隅に出現させ始める。ついでに自室にある椅子も召喚した。
リドルがベッドから少し身を乗り出して小物類を見ている。興味深げな様子なのはおそらく薔薇の王国を含めた各国であまり流通していないものが多いからだろう。異国の物品ともなれば物珍しく興味をひかれるのは当然である。
そんなデュースをジッと見つめていたトレイが組んでいた両腕をほどき、立ち上がった。そろそろ頃合いだろう。そう言わんばかりだった。
「デュース、そろそろ原因やお前の行動の意図、色々と詳しい説明を貰いたいんだが」
鋭い声色で放たれたトレイの詰問にデュースは特に動揺するでも無くバッサリと切り捨てた。
「まだ駄目です。せめて明日の朝まで待ってください」
「あのな、」
「弱っているところに追い打ちを掛けたくありませんので」
チラリとリドルに視線を向けながらそう言われてしまえば、トレイも引き下がるほか無かった。眉間を寄せ、目を細めるその顔はいつになく険しい。
「……分かった。だが、俺も今日はここに泊まることにするからな。それくらいなら問題は無いだろう?」
「ううん、まあ、はい」
「じゃあオレもオレも〜」
険しい表情のままのトレイ、その横からケイトが軽い調子で手を上げる。明るい声色とは裏腹にその目は笑っていないが。
デュースはチラリと一瞥するだけで彼らの様子を見る。
「分かりました。まあ、ここで逆に各々の部屋で何かあるよりはこの場に纏まっていた方が対処しやすいですしね」
そう答えると一度止めた作業を再開した。
まるで今から何かが起きますよ、と言わんばかり。前提からして不穏である。
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2020.9.8.支部にも投稿しました
2022.1.2.別館サイトに掲載