前々世の審神者時代ならば神経質になるほど気を張らなくても良い案件だ。しかし今は違う。
必要な補助道具がない、頼れる相手も居ない、そんな無い無いだらけの状況。確実なのはデュース自身が細々と対処していくことだけ。頼れるのは己の知識と霊力、そして腕っ節だけだった。
(神前から降ろされた塩とかがあれば良いんだけど、そう簡単に手に入らないし……市販されているのは種類がどうであれ唯の塩だし……)
デュースは数々の種類の塩を脳裏に思い浮かべて僅かに肩を落とす。
塩が力を持つのは神前に供えられた後の物が主だ。もしくは塩自体を浄化した物。デュースが前々世で使用していた塩は当然のようにそのどちらかだったため、少々認識がずれていたのだ。一般人はそう簡単に神前に供えられた塩や浄化された霊験あらたかな塩など入手困難である。海にまつわる祭神を祀っている神社を赴けばその限りでは無いが。
ただの塩――精製塩や食塩、これは除霊や浄化にあまり効果が無い。岩塩だろうが粗塩だろうが同様である。効果があるのは恐らく日本やその文化に近しい国だけだろう。それも、霊が塩を嫌がる訳ではなく塩を撒かれるくらい嫌がられているのだと退いていく。ということは、そんなことを気にしない霊には何の効果も無いのだ。
そして、西洋には塩を撒いて邪を払うという概念が無い。つまり神前に供えられた塩ならばともかく、他となると全くもって効果は無いのだ。既に実証済みである。故に現時点で浄化法として塩を用いる事を最初から考えていなかった。
――以前不良達に「塩と水を被れ」と言ったことがあった。その時に頭が可笑しい、変人、などという罵倒されたのはある意味当然のことだったのだ。こちらでは塩は何の効果も無い。今思えば不良達の反応は尤もなもの。納得である。
閑話休題。
ならば、今宵はどう凌ぐのか。答えはデュースが今手元に召喚した物が答えである。
「寮長、どの香りが好みですか?」
「かおり……」
ポツリと呟きリドルは促されるまま差し出された袋を受け取った。覗き込み香りを確かめる。スン、と空気を吸い込めば鼻腔をくすぐる複雑な香り。今までに嗅いだことの無い不思議なそれにリドルは目を瞬かせた。その内の一つを指さすと視線を上げる。
「これが良い、かな」
「分かりました」
今夜はゆったりとお香を焚く。焚いた煙と匂いで結界を張るのだ。香は破邪の力を持つ物がある。煙は守りにも使える。物理的に目にも見えるため扱いやすい。つまり自発的に守りを固められないときの防衛手段になり得るのだ。
前々世は神道の家系の傍系に産まれたにも関わらず、思考は仏道寄りだった。傍系であったため本家との繋がりがほとんど無かったのだ。結果、生家に近い寺院のお世話になる機会が増え、その道の知識を身に付けるに至った。というわけである。まあ、審神者就任後は強制的に神道に関する専門的な知識を叩きこまれたわけなのだが。
そこで落ち着いたのが陰陽道である。……どちらの知識も有していたため都合の良いように使われていた感が否めない。とはいえ全ては過去の話だ。
「今からお香を焚きます。平たく言うとアロマと似たような物です。煙が出るので苦手な人は苦手かもしれませんけど、まあ今日は少し我慢してください」
苦い記憶を意識の隅に追いやったデュースは風通りの良い場所にテーブルを移動させる。そこに香皿を置くと、先ほどリドルが選んだコーン型の香に火をつける。奇しくもそれは沈香や龍脳が原料に入っているものだった。沈香には鎮静作用があるとされているため、睡眠を促すにはちょうど良い。
甘やかだがくどくない香りが室内に広がる。くゆり、くるり、煙が緩やかに立ち昇った。
過去生を思い出してからの半年、中でも最近の二ヶ月、その間にデュースは様々な場所に足を運んだ。地元のみならず隣町や首都に近い場所まで。ずっと探し物をしていたのだ。主に前々世で使用した道具や消耗品。書物から始まり、水晶、数珠、香木、お香類、音叉チューナー、その他諸々。現物を手に入れられたのは本当にわずかだ。
そんな中、市で入手したとある国の流通品である。……薔薇の王国にあまり流通はしていないため、かなり割高だったが。
「おやすみなさい。悪夢は、俺が居る限り見させませんから。安心して眠ってくださいね」
柔らかな寝台に横たわり、幼馴染みに見守られ、尋常ならざる出来事にも動揺せず道を切り開いた後輩が傍に控えている。リドルにとって非常に安心できる空間が出来上がっていた。精神的にも肉体的にも疲弊していたせいか睡魔はすぐにやってくる。とろん、とリドルの眦が緩やかに和らいでいく。そう時間を置かずして緩慢なまばたきの末に彼の瞼は完全に落ちた。
穏やかな寝息が聞こえてくるようになって初めてトレイとケイトはホッと息をついた。正直なところ、ずっと不安が付きまとっていたのだ。
「先輩方も寝てください」
「デュースちゃんはどうするのさ」
「不寝の番には慣れてますのでお構いなく。咄嗟に対応できる俺が起きているのが一番確実ですしね」
至極尤もなことしか言っていない。にべもない返答ではあるが、その眼はどこか労るような色を乗せてトレイたちに向けられていた。
そうこうする間にも十分、二十分と時間は過ぎていく。だが二人は全く眠気を感じているようには見えない。それどころか気を張り詰めているようにも感じる。
「…………寝れませんか?」
「まあ、な。あんなことがあったんだ。目が覚めてリドルが消えていたら、なんて考えると正直寝れる気はしないな」
「ケーくんも同じく。流石にあれは、ちょっとねぇ」
デュースは少し困った顔で笑った。その瞳が深い感情をはらんで揺れている。
三人の間に煙が流れた。
「分かりました。じゃあ話をしながら夜が明けるのを待ちましょうか」
リドルからそう離れては居ない場所に椅子を移動させて、デュースは二人と向き直った。人の動きに合わせて空を漂う煙が動く。
「寮長は眠っているので、先ほど先輩が説明を求めた鏡の件についてでも話してしまうことにします」
「……ああ」
確かに今ならばリドルの耳に入ることはないだろう。納得し頷いた二人はベッドの方へと向けていた顔を戻した。
さて、どこから話したものか。
デュースは目を伏せると組んだ両腕の上で人差し指を上下させる。タッタッと制服を叩く音が僅かに鳴った。やがて伏せられていた瞼が上がる。ヒタリと凪いだ双眸に見据えられた二人は自然と背筋が伸びた。その瞳が湛える眼差しが、あまりにも縁の無いものを帯びていたせいだ。
「あの手鏡、元がどういった代物なのか俺は知りません。ただあれは贈り主の意志がかなり反映された結果、寮長を眼には見えない要素を伴い縛り付ける媒体となっていました。もっと悪化していれば呪物にも成り得たでしょう」
良くないモノに変質していた。それも呪具に近しい存在になるほどに。
トレイはあの手鏡がリドルが母親から誕生日プレゼントとして与えられた物だと知っていた。何歳の誕生日だったかは覚えていないが。……それが、リドルを雁字搦めに縛り、絞めつけていたのか。
知らされたトレイは交互にリドルとデュースを見、そしてノロノロと椅子の背にもたれかかる。まさに呆然といった様子だ。それもそうだろう。ローズハート家の複雑な関係は知っていたが、まさか母親がリドルをルールに縛り付ける強い感情が呪いに到るまで大きく思い物だったとは。身近な知り合いだからこそ余計にトレイの衝撃は大きかった。
デュースはそんなトレイの様子など気にも留めず言葉を続ける。
「ただ、贈り主本人は意図していなかったと思います。おそらくは様々な要因が重なって今回の一件が引き起こされました。まあ、俺の対応が良くなかったのかもしれませんけど」
彼の母親は呪うつもりではなかったのだ、とはっきり告げられトレイは僅かに安堵の息をこぼした。
納得させられるだけの情報は粗方伝え終わっただろうか。デュースは頭の隅で思考する。開示しても問題ない情報と秘めなければならない情報。その取捨選択の見極めはかなり気を遣うのだ。
……ああ、だがこれだけは伝えておこう。二人には弁明だと思われるかもしれないが。
「事の顛末としては大体そんなところです。……あ、鎖がブワッてなったときに俺が先輩たちを押しのけたのは、先輩たちが見えている他にも鎖がうじゃうじゃして暴れていたからですよ」
「うじゃうじゃ」
「はい。うじゃうじゃしてました。今は無いですけど」
トレイのメガネがずれる。ケイトの片頬がひくつく。デュースは、ふむ、と一つ頷いた。それが普通の反応だよな、と。ちょっとばかり感覚がずれつつあるのを自覚して静かに息を吐いた。
「あとは、明日まとめて寮長を交えて説明するってことで構いませんか?」
「……ああ、悪いな」
「対処できるのが俺だけなので仕方がない事です。気にせんでください。……ちょっと今から
「祝詞?」
聞きなれない単語だ。二人は顔を見合わせ首を傾げた。
「祝詞です。うーん、簡単に言うなら祈りの言葉です。神様に祈りを捧げて「お守りください」とお願いをする感じ……? 説明しようとすると難しいですね。俺の場合は自然そのものに対してなので、神様だけに祈りをささげるのとは少し違うんですけど、とりあえずそんな感じです。今回は寮長が夢、を、見ないように……」
「へぇ、そういうのもあるんだねぇ」
ぱしぱしと目を瞬かせ、感心したようにこぼされたケイトの言葉。それはデュースの耳を半分素通りしていった。なぜなら頭の中に情報の奔流が起きていたのだ。
(……ああああそうか、そういうことかっ)
夢。自身が発した単語。それがトリガーとなりパズルのピースが嵌まっていくように、様々な出来事が繋がっていく。
猫と鼠の追いかけっこ、ケーキ、反撃の末にミルフィーユを顔面にくらう、夢。視た当初は読み解けなかったが意味があったのだ。
窮鼠猫を噛む。まさにこれである。
要は、デュースの詰めが甘かったのだ。自浄作用が働き、寮内の空気は自然と元に戻るはずだった。その手助けをして浄化を進んで行った。それ自体は問題無い。ただ、満遍なく行えないならばするべきではなかったのだ。
――個人の部屋。それはデュースの手が入らない場所である。リドルの部屋は、ずっと澱みを抱えたままだった。つい先程もそう考え眉を寄せたところだ。
居心地の良い場所が減っていくことに焦った良くないモノたちはどうするか。集まって浄化の追い付かない場所へと移動したのだ。最終的に寄り集まったのが根源とも言えるリドルの元。澱んだ場所に集まるのは当然とも言える。
彼はダメージから回復しきれずに居た上に、母親からの贈り物である手鏡を所持していた。執着、束縛、強く干渉しようとする相手からの贈り物というのは無意識であろうとも媒体となりやすい。それに良くないモノたちが苦し紛れとはいえ寄り集まればどうなるか。……結果がこれだ。
とりあえずリドルが起きたら支障が無い程度に説明して謝罪をしよう。うろん、と視線を泳がせてデュースはひっそり内心で呟くのだった。
この場に必要な道具は何一つとして揃っていない。そして、今からデュースが唱えるのは儀式の祝詞とは別ものだ。そもそも過去生ならばともかく、今は全文を覚えていないのだ。覚えているとしても本当に部分的。さらに言うならばこの世界では、別世界である前々世の知識が完全に通じるわけではない。
こりゃだめだ、と早々にさじを投げてシフトチェンジしたというわけだ。
古い言葉での祈りの言葉というのは形式などあってないようなものに近い。祈りをそのまま言葉にするのと同じなのだから。ある程度の型には嵌るが。
……それも、心が込められなければただの言葉同然であり全く意味をなさないこともあるのだから。陰陽道に通づる、森羅万象の力を借りて術を行使する、というのはそういうことだ。
「──はらへたまへきよめたまへ、まもりたまへさきはへたまへ──てんちにまします──」
一定のテンポだが一本調子ではない、朗々と流れるような声が静かに室内に響き渡る。デュースは節をつけて言葉を紡いでいた。
まるで歌っているかのようだな、とトレイは眠気が込み上げてくる頭でぼんやりと思った。
「めいをさいなむまがごとよ、ながれながれてしじまにねむれ──よろずのまがをうちはらいたまへ──」
澄み切った声が鼓膜を揺らす。魔法史の授業中に込み上げてくる眠気とはまた違っていた。濁り固まった淀みがほぐされていくようだった。時折動く音階が心地良い。
寝息が二人分、増えるまでにそう時間はかからなかった。
くゆり、煙が揺れる。数か月前に訪れた場所での光景がデュースの脳裏に浮かんだ。
無意識のうちに懐に伸びる手指が管を持つかのように動く。ああ嫌だな。目を細め、唇を噛んだ。
(
異国の代物であること、そして未成年であるが故に入手が困難なそれ。似たような物はあれども大方の店は未成年に販売などしないだろう。治安が悪い場所であればまた話は別だが。
無いものを強請っても意味はない。深く息を吐くとデュースはマジカルペンを胸ポケットから抜き取った。
睡魔に抗えず、器用に椅子に座ったまま寝落ちた二人。このままでは明日に響くだろう。確実に。どうしたものかと逡巡し、ゆらゆらとペンを上下に揺らす。まず何をすべきか。寝床を、いや着替えを、ベッドは無理だが談話室のソファーを召喚すればあるいは。などと、考えが中々整わない。涼しい顔をしていたが、デュースも疲れていたのだ。
そうしている間にも夜は更けていく。
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2020.9.8.支部にも投稿しました
2022.1.2.別館サイトに掲載
さすがにちょっと長くて読みづらいかな? と思ったので分割しました。