明くる朝、目を覚ましたリドルの視界に入り込んできたのは、寝る前にはなかったはずのソファー。そこで寝こける三年生二人の姿だった。寝てしまった彼らが椅子から落ちかけたのを見た後に召喚したものである。
結局一睡もしなかったのはデュース一人だけだ。
(わかるわかる、お坊さんのお経とか聞くと眠くなるよなぁ。今回俺が唱えていたわけだけど。昔だと弟子くんたちも眠気に襲われてることあったし……なんか懐かしい光景だったな)
過去生を思い出し少しだけ懐かしい気持ちが込み上げてくる。
彼らとしても寝落ちるつもりは全くなかったのだろう。消灯時間まで余裕はあったというのに、制服で向かい合っていたのがその証拠だ。
トレイのメガネを外し、ケイトの手からスマホを抜き取りソファーに寝かせたのもデュースである。もちろん魔法で。制服がしわになってしまうのは避けられなかったが、さすがに着替えさせるのはいろいろな意味で無理だったのだ。毛布を掛けたため風邪をひく心配はおそらく無い。はずだ。
「悪いなデュース」
「いいえ。慣れているので」
「そうか?」
「はい。あとこのソファーは談話室のを拝借しました」
「なるほど、見覚えがあるはずだ」
片手で額を抑えながらトレイが苦く笑った。少しばかり困ったように眉が下がっている。まさか寝落ちた上に後輩の世話になるとは思っていなかったのだろう。気にすることはないのに、と言わんばかりにデュースは肩をすくめた。
各々の体調を確認し、リドルが多少の不調を感じていること以外は目立った問題はない。小さく頷きデュースは指二本分くらいの隙間を開けていた窓を閉じた。香を焚いたので折を見て定期的に換気をしていたのだ。
広げていた私物を簡単に片づけ、魔法で自室に戻しておく。椅子はそのままである。撤退する時にでも持っていくから別にいいだろう。
しわになった制服を魔法で伸ばし終えたトレイとケイトが落ち着くのを待ってデュースは口を開いた。
「体調も問題なさそうですし、昨日の……現象というか出来事というか事件? について少しだけお話をします」
「ああ、頼む」
そう告げるなり張り詰める空気。起床したばかりだから、などというダラけは一切見られない。ひたりとデュースを見据える三対の瞳に浮かぶ色はそれぞれ違えども、どれも真剣なものだった。
詳細は伏せたが、自身の失態を含めて此度の不可思議な出来事の説明を行う。手鏡がどのような状態であったか。リドルが引き込まれた場所が一体何だったのか。心霊、怪奇、それらの現象に関する大まかな事柄。そして、考えが足りず、見落とし、結果として窮地を作り上げてしまったことを謝罪した。しかしその失態を咎められはしなかった。
曰く、
「デュースなりに最善を尽くしたのだろう」
「もし早々に気づいていたとしても近寄りづらいリドルの部屋を訪ねるのは難しかっただろう」
「遅かれ早かれこうなっていたかもしれない」
とのこと。
――最後の一言だけは断固として否定した。あれは確実にデュースが中途半端に寮内へ手を加えていたからに他ならない。下手を打った、詰めが甘かったという自覚があるのだ。
相手が寮長だろうが誰だろうが、デュースは特に気にすることなくお構いなしに部屋に突入しただろう。だが、その考えは表に出さず胸の内に秘めておくことにした。言う必要もない事をわざわざ告げることも無いだろう。……ある意味で賢明な判断である。
大事を取って授業を休み、完全な休息にあてるべきだ。
トレイとケイトの考えとデュースの意見は一致していた。あの融通の利かないリドルのことだ、おそらくごねられるだろう。と思いきや、存外すんなりと休養を取ることを了承された。本人も認めざるを得ないほどに体の調子が良くなかったらしい。
「不安かと思うので、とりあえずこれだけ置いていきますね。香りのお守りです。ポプリみたいなもんです」
「あ、りがとう。その、すまないね」
「いえ。ある意味仕事ですから」
「……そうかい」
あんな事があった後で部屋に一人きりとなるのだ。不安が抜けきらないリドルにデュースは手製の御守りを差し出した。彼が好んだ香りと似たように調合した香袋を一つ。夜明けまでの時間を潰しがてら作成していたのだ。様々な香木や香原料を細かく砕き、納得がいくように少量ずつ混ぜ合わせた物。なお、何をどの程度使ったのかは覚えていない。完全にこれっきりである。
それが功を奏したのか、その日以降デュースの目で視てもリドルの部屋に「余計なモノ」は出現していない。瘴気じみた黒い靄も徐々に薄くなっている。鎖の残滓も彼の首元や手首に小さく揺れる程度となった。まだ鎖は存在してはいるが、以前とは比べ物にならないくらい細いモノだけだ。そう遠くないうちに薄れ始めるだろう。
リドルが不調でベッドに伏してから早数日。順調に回復し一日半ほど休養を取った彼は既に元の学校生活に戻っていた。完全に元通りというわけではないが、普段通りに生活する分には全く問題ない。
ただ不可解なことが一つ。リドルは頻繁にデュースを部屋に呼ぶようになった。香が気に入ったのか、単純に不安なのか、理由は分からないが。そろそろ予備の香袋が仕上がるためソレで我慢してもらおうと考えている最中である。
完全なる余談ではあるのだが、リドルに呼び出された初日、エースやルームメイトからは顔を青くさせて詰め寄られた。
「お前寮長になんかやったわけ!?」
「目ぇつけられたの、気に入られたの、どっち……!?」
「違うぞ」
「まさかこの部屋自体目をつけられて事情探られてんじゃ……!」
「そうか!」
「それだ!」
「全然違うぞ」
しっかり否定はしているので問題はないはずだ。途中から面白がった三人は逆にネタにするくらいである。変にノリが良く、したたかな連中だ。
若干尾を引いてはいるが、今回の手鏡に関わる一件はそろそろ完全に解決するだろう。そうすれば後は一寮生同士の関係に戻るはずだ。さほど深くかかわることもあるまい。デュースはそう考えている。
そもそもリドルは、進んで関わりたいと思う相手ではないのだ。
まだ覚えている。忘れてなどいない。人を見下し、蔑み、本人のみならず他人の家族すら貶めた。確かにリドルは謝罪した。けれどもその発言に対する言及はなかった。厳密に言えば撤回もされていない。
だからなのだろうか。デュースはあの言葉を放ったリドルを完全に許せてはいない。胸にしこりが出来たかのようだ。
まさか、相手側から頻繁に声を掛けられる未来が待ち受けている、なんて事に気づいてなどいなかった。
◇
回復していくリドルとは対照的に、監督生の様子は日に日におかしくなっていた。時折グリムも考え込むのだから相当だ。
彼女の追い詰められ具合はある意味でデュース・スペードの行動が原因である。しかし当の本人は全くもって原因の根本に気付いていない。だから後手に回らざるを得なかったのだ。つまり、もはや手遅れの状態であるとデュースが判断するまでに至ってしまった。
はらり、デュースにしか視えない蝶が今日も飛んでいる。
――とある日の放課後、部活動の時間になってもここ数日の監督生はどこへ行くでもなく陸上部の練習場まで足を運んでいた。デュースはどことなく居心地の悪さを感じていたが、そんなことお構いなしと言わんばかりに。いや、もしかしたら彼女は気付いていないのかも知れない。
「なあ一年」
「……あ、僕ですか?」
うんざりした様子の上級生に声をかけられたデュースはその足を止める。少しばかり嫌な予感がした。
「そう、お前。……いい加減アイツ連れてくるのどうにかしろ。気が散るんだよ」
「すみません、連れてきているつもりはなかったんですけど。……近いうちにどうにかします」
「サッサとしろよ。ってか今すぐにでもつまみ出せ。……ん? いや、お前が帰れ。そうすりゃ万事解決じゃねーか」
いいことを思いついた、と言わんばかりに上級生はデュースをグラウンドの外へ追いやる。えええ、というささやかな抵抗の声は黙殺される。呆気にとられて目を瞬かせながらも、一先ず上級生の言葉通りに動くことにした。
致し方なく「上級生に追い出されたから帰るぞ」と言えば監督生はすぐさま着いてくる。癪だがあの上級生の読みは当たっていた。普通に歩くにしては近しい距離に眉が寄る。
別にデュース自身が人目を気にしているわけではない。だが、監督生のことを考えると近すぎるのも問題だった。ただでさえ普段の行動をも揶揄されているというのに。これ以上の火種は避けるのが無難だろう。
しかしそんな気遣いに気づかない彼女は、さりげなく開けた距離を詰めてくる。周囲にどう見られているのか、考える余裕すらも失っているのかもしれない。
はらりと視界の隅に只人には視えない蝶の翅が揺らぐ。墨汁を垂らしたような不気味なシミは色濃く、範囲を増している。
監督生に気づかれぬよう気を付けて重く息を吐くのだった。
――その日、やけに現実味を帯びた夢を見る。
夢だと自覚できるほど鮮明かつ意識がはっきりしていた。
(……なんかの前触れか、今までの何かしらが影響しているのか。ううん、心当たりが多すぎる)
これは夢だな。そう判断できるようになったのはいつからだっただろう。
ふとした瞬間に自身が夢路に居るのだと認識するのだ。自我がはっきりしているからか。意識が、思考が、日常生活を送る状態と変わりないからか。周囲に対する状況把握、認識、そのどれもが通常と変わりない時に、唐突に気づくのだ。――ああ、これは夢だな、と。
周囲は薄ら闇に包まれている。小さく息を吐くとデュースは流れるように両眼に暗視の術をかける。周囲が見えなければ動きようがない。困ったときの、いつもの、と言わんばかりだ。
顔を動かさず視線だけを動かして視線を一巡させる最中、徐々に顔が強張っていく。白く細い何かが視える。そこそこの長さのそれが骨であることを理解してしまった。うわ、嫌な場所に引っ張られたな。内心で呻いた。
どうすべきか。ぐぬぬと口を歪めて逡巡する。移動したいところだが、この場所自体があまり良くないのだ。下手に動くのも悪手になり得るかもしれない。いつになく優柔不断、迷いに迷って自身の行動を決められずにいる。
デュースは先日の失態を地味に引きずっていた。感が鈍った、もしくは、まだ感が戻っていない。そう言ってしまえばそれだけなのだ。だが、曲がりなりにも数十年積み上げてきたものに自身が胡坐をかいていたのだという認識が勝る。何故なら前々世ならば気づけたはず、対応できたはずの現象だったのだから。自然と眉が寄る。
(んん、何だ?)
不意に視界の隅にチラチラと何かが動くのを感じて意識がそちらに向く。おぞましさや不快さは感じられない。問題はなさそうだと判断し目を凝らす。ぽう、と仄かに光る灯りが揺らめくのを見止めてデュースは目を細めた。
暗闇の中に仄かな光でそこに居るものの輪郭が浮き上がる。じわりと滲み出るように現れたのは、蹲る人影だった。
その姿にどことなく既視感を覚えて片眉を跳ね上げる。オンボロ寮の監督生。彼女がそこに居た。
なるほど、繋がった縁が原因か。デュースは目を眇めて足元の白く細長い物体を一瞥する。この場所に長く居続けるのはあまり良くない。もしも同様に視える者が居るとするならば十人中十人が同じ判断をするだろう。
コキリ、どこからか関節が動くような音がした。
その音を耳に捉えた途端、ぞわりと襲いくる悪寒。足早に蹲る人影に向かって近づいていく。監督生の姿を借りた別のナニかである可能性もゼロではない。その場合は適切な対処をすればよいだけだ。だが、彼女自身だった場合、早急にこの場から離さなければならない。これは過去の経験上からはじき出した決断である。
「――大丈夫か? この場所は良くないから移動しよう」
急に声を掛けられたからか、彼女の肩がびくりと跳ねた。まんまるに目を見開いて目の前に立ったデュースを見上げる。
「……え、えっ!? デュ」
「あああ待ってくれこの場所で名前を呼ばないでくれ」
最初にそう言うべきだったな。などと肩を落としながら彼女の口をふさいだ。もががっ、と彼女のくぐもった声が手の間から洩れ出る。
「人の名前を出さない。オーケー?」
念を押すように問えば何度も無言で頷かれる。二人の視線がかち合う。一つ瞬きをするとデュースは静かに手を離した。
そこで監督生は一つ異変に気付く。彼女の目には相も変わらず暗闇しか見えない。だというのに不思議と眼前に立つ相手の姿を捉えることが出来た。何が何だか理解できてなどいない。そもそもデュースがこの場に居ること自体が不可思議で仕方がないのだ。あふれる疑問が尽きない。
「……夢なのに、夢のはずなのに、なんでデ……あなたが居るの? 夢、だよね?」
「夢だからだよ。夢はどこにでも通じているからね」
「な、にそれ、訳わかんない」
「分からないなら分からないでいいさ。とにかく移動するぞ。はぐれても困るから手を繋ごうか」
そう言い手を差し出したデュースに監督生はグッと下唇をかみしめた。現実ではあれだけ避けていたはずの相手が、自身の望む行動をしたのだ。心境としては複雑極まりない。
対するデュースはというと、視界不良ではあるが足元を照らす光源を出さないでいるままだ。何故なら足元には彼女の目に入れることが憚られるモノが散見できたからだ。わざわざ手を引いてまで案内役を買って出たのはこの為である。
「障りがあるから明かりは出せないけど、ちゃんと帰してあげるから着いてきてくれ」
彼女は怯えたように右手を上げて、それでも目前の手を取れないでいる。本当に、本人であるかの判断しかねていたのだ。醸し出される空気でそれを察したデュースがつらつらと直近の出来事を話し始める。部活を追いやられて二人と一匹で帰路についた件に触れると、分かりやすく彼女の空気が軟化した。
「本当の本当に、本人なんだね……?」
「何なら魔法石を取りに鉱山に行った時の話もするか?」
「……ううん、大丈夫」
「まあ、こんな状況だ。懐疑心を抱くのは大事だ。褒めたいくらいだよ。知り合いの形をとった別のナニかだったりすることも少なくないからな」
「ひっ」
デュースとしては脅かすつもりは全くなかったのだが、彼女はキュッと体を縮こまらせた。ああ、少しばかり感覚がずれていたか。適切ではなかったか。内心でそう呟き右手を顎に添えた。
暗闇には何が潜んでいるのかが分からない。見えない。判断できない。光無いその暗がりに恐怖心を抱くのは本能的な反応だ。頻繁に怯えを表情や態度に見せていた彼女が、こうして恐慌状態にあってもデュースは何ら不思議に思わなかった。多少なりともこのがっちがちに強張った空気を緩和させる必要があるかもしれない。僅かに思考を巡らせると口を開いた。しかし――
「監と」
「呼ばないで!!」
急に心の内で何かが破裂したかのように彼女は声を上げた。悲鳴のようなその叫びに動きを止める。先ほどデュースが彼女の呼びかけを遮った時とは比べ物にならない程に強い拒絶だった。
彼女はこれ以上ないほど取り乱して首を横に振る。じりじりと後退っていく。その顔に浮かぶ感情を明確に読み取れない。片手をあげた状態のままデュース彼女の出方を待った。
「監督生、って、呼ばないでっ……!」
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2020.9.8.支部にも投稿しました
2022.1.2.別館サイトに掲載