オンボロ寮の監督生。そう呼ばれるようになった彼女は、この世界に連れ去られる以前は日本のとある大学に通う学生だった。ツイステッドワンダーランド、通称「ツイステ」というゲームをプレイしていた人間でもある。
それが今や、嘘や偽りを重ねながら異世界に生きている。彼女が不本意とはいえ重ねた虚構は一つや二つでは無い。
言わずもがな性別が第一として、先に挙げた年齢、そして名前。――ユウ。これも嘘だ。偽名だ。本名をどうしても名乗りたくなかったのである。
彼女は割と現実的思考を持つ人間だった。このツイステッドワンダーランドに来てしまったその日も、いの一番に考えたのは自身の身の振り方。なぜなら、「気を抜けば死んでしまう」のだと思っていたからだ。
魔法の使えない彼女は身を守る術は無い。同様にこの世界の出身では無いため法的に守られることも無い。肉体的にも社会的にも、どこまでも弱者だった。下手をすれば、学園長に対する受け答えを誤れば、学園から放り出されるのだとすら思っている。
初めてこの世界で死の危険を感じたのは、グリムが彼女の入る棺を開けたとき。
突如として炎にまかれ、瞳孔をぎらつかせた火を噴くワケの分からない生物に追いかけ回された、その恐怖たるや。まさか自分がゲームに登場する監督生のポジションにいるなどとは露にも思わず彼女は駆けた。断続的に猛然と広がる青い炎に追われ、本能が死に対する警鐘を鳴らしたのだ。
二度目はオンボロ寮でゴーストに囲まれたとき。
三度目はその翌日、言わずもがなゴーストとインクの怪物に襲われたときだ。
いずれも体の震えは止まらず、血の気が引いていたのか指先どころか手が冷え切っていた。びりびりと腕がしびれを感じるくらいだった。
それ以外にも恐怖は常について回る。何しろ彼女は魔法に対しての知識も無ければ耐性も無い。魔法という物の全てが恐怖の対象に変わってしまったのだ。
突如として何も無い場所から発火する。風が巻き上がる。水が生み出される。床や壁が凍る。それが彼女に向けられたとして、対処の術が無いのだから。
……何もファンタジーが嫌いなわけでは無い。ツイステをはじめとした様々なゲームをプレイする位なのだから。むしろ現実世界からはかけ離れた世界観を楽しんでいた人間だった。だが、現実として目の前に突きつけられたとなると話は別だったのだ。彼女にも魔力があり、魔法が使えたのならば少しは恐怖が薄れただろう。曲がりなりにも対抗できる希望はあるのだから。
しかし現実は無情。魔力が無い彼女は、自身にとって未知の力を前に為す術が無い。
異世界人という事実も彼女の首を真綿でじわじわと絞めるような息苦しさをもたらしている。おそらく研究対象としては申し分のない存在であるのだと、自認していた。最悪の想像であり予想。自分以外の何もかもが、脅かす存在にしか思えなくなりつつあった。
そうして彼女は何を思ったか。
(……このままじゃ、私、死んじゃう。ゲーム通りなんて無理っ)
極論にも感じるかも知れないが、追い詰められた思考で導き出した答えはこの一言に尽きた。
彼女は本来この監督生という立ち位置に居るべき存在ではないのだ、という思いを抱いている。原作であるゲームを知り、先の内容を知る人間が監督生であるわけがないのだと。
だから恐れたのだ。彼女が監督生であることで、原作であるゲームのストーリーが破綻することを。
そして更に考えを巡らせてしまい、気付いてしまったのだ。
自分が監督生という立場に据え置かれてしまうというのなら、ゲームで見たあの出来事を解決しなければならないのだと。そして彼女の脳は別の結末もポンとはじき出した。下手をすれば、選択肢を誤れば、きっと最悪の事態に繋がってしまう。――監督生も、オーバーブロットする生徒も、止めようとする周囲も、死んでしまうのだ、と。
(……私も、みんなも、死んじゃうっ)
不幸が重なれば簡単に訪れてしまうかも知れない未来。残念ながらその予測は全くの外れではない。オーバーブロット自体、命の危険を伴うものであるため当然と言えば当然のことだ。
どうしようもなく息が詰まった。胸に鉛が詰まったような不快感に襲われた。飲み下せない物が喉を圧迫するような息苦しさに、彼女は喘いだ。自分の喉元に、うなじに、心臓に、眉間に、銃口や刃の切っ先を突きつけられているような錯覚。この世界に来てから何度、そんな感覚に襲われただろうか。死をすぐ傍に感じたのは数えればキリが無い。
だから、監督生として原作通りに事が進むことに執着したのだ。彼女の知る既存のストーリー通りに進めば、脳がはじき出した「最悪の事態」にはならないのだと知っているから。
加えて、デュースが彼女の性別に気づき、気を遣ったことも執着の度合いにひどく影響していた。デュースは彼女が女性であることを容認してくれた。メインで登場するキャラクターでもある存在が、当たり前のように気遣い手を差し伸べた。それは彼女が世界に組み込まれたような感覚すらもたらしたのだ。
ホッとした。安心した。先に対する不安は尽きないが自分の両足でまだ立っていられると思った。大丈夫なのだ、と胸を撫でおろした。
――だというのに、その当の本人であるデュースは監督生からもエースからも離れようとした。常に、とは言わないが学園生活では傍に居て行動するものだと思っていたのにデュースは気付けば姿を消している。いつしかそれは不安を煽りに煽り、世界から見放されたような感覚を彼女にもたらした。……それが監督生としての執着心を煽ったのだ。
なぜなら原作において、デュース・スペードという登場人物は監督生たちと行動を共にする。ストーリーの全般に直接関わるキーパーソンだ。
(デュースが居ないと、エースとデュースとグリムと、一緒に居ないと、駄目なのにっ)
追い詰められた人間は何をするか分からない。まさにその通りだった。彼女が正常な思考を保っていたならば、絶対にしない行動すら取っている。自身でも行動の制御が利かなくなりつつあったのだ。
それでも他に何も思い浮かばなかった。デュースを引き留め、しがみつき、自分と共に在るように強要しはじめている自覚はあったのだ。しかし歯止めが利かなかった。
彼女の口からボロボロと思いや感情がこぼれる。壊れた蛇口のように。
来たくてこの世界に来たわけじゃない。魔法が怖い。この世界の人間も怖い。未来が変わるのが怖い。
だが、恐れを声に出しても肝心の言葉を彼女は口にしない。デュースがゲームの登場人物であると言葉にしないのは、まだ相手に配慮するだけの思考が残っているからだろう。
彼女が取り乱すその様子を、佇んだままデュースは見据えていた。
黒々とした蝶のような物体が形を崩して宙を蠢いている。
◇
――望んでこの世界に来たわけではない。魔法、この世界の人間、それらが恐怖の対象である。監督生になどなりたくなかった。
言葉の節々に混じるのは少し先の未来を知っている事やそれが崩れることへの恐れ。
支離滅裂ながらも吐き出される彼女の言葉。おおよその考えや思いを把握したデュースは、それでも不思議に思わずにはいられなかった。彼女の不安や恐れは理解できた。だが何故こうも固執されるのかが分からなかったのだ。
自身がゲームの登場人物として描かれていた一人であることなど微塵も考えていない。前世の記憶の中にあるゲームの一つであるはずだが、薄れに薄れてしまっている。インプットする記憶の優先順位が低めだった所為である。
なお、しばらく後に朧気に思い出して遠い目をする羽目になるのだが、それはまた別の話だ。
だから純粋に疑問を晴らすために問いを投げたのである。
「何でそんなに俺に拘るんだ」
「だって、だってっ……!」
彼女の悲鳴にも似た叫びを、デュースはただ黙って聞いていた。
「わたし、しにたくない」
それが彼女の本音だった。今この瞬間、はじめて表に引きずり出された本音だった。
一度口から溢れてしまった思いは止まらない。ジワリと眦に涙が滲む。唇が震えた。声が震えた。自然と早口になる。彼女は舌も回らぬほどに言葉をまくしたてた。
こわい。怖い。恐い。何もかもが。この世界の全てが。彼女には恐ろしくて仕方がない。この世界の人間も、魔法も、己の行動で何かが変わってしまうことも。何もかもが。だからそうならない為にも傍にいて行動してほしかったのだ、と。
彼女は先ほど考えていたこととほぼ同じような内容をずっと繰り返し口にしている。そんな様子の彼女を前に、デュースは片手で後ろ頭を掻いた。
「……いや、さあ。ちょっとだけ良いか?」
「な、に」
「魔法による身の危険はともかくとして。たかだか人間が一人、何かと関わっただけで劇的に世界が変わるほどの影響力を持っていると思っているのか?」
「……え?」
彼女は一瞬、デュースが何を言ったのか理解できなかった。徐々に顔色を失っていく。目に見えて狼狽えていた。それを分かっていながらもデュースの口は止まらない。
「少なくとも俺は思わないよ。魔力の有無はまた別として……自分の選択肢にすら怯えて縮こまってるアンタに、そんな影響力があるとは思えない。同時に、ただの一学生である俺がどんな行動をしたとしても大きくは変わらないと思う」
「っ」
淡々と告げられる言葉に胸を抉られるようだった。自意識過剰。そんな単語が彼女の脳を占拠した。
恐慌を顕わに身を竦ませ、目を見開いた監督生の反応にデュースは慌てて補足を連ねる。わたわたと両手を上げ下げするのは本人も動揺しているからに他ならなかった。
「ああ、違う違う、言い方が悪かったな。そんなに神経質に気にしなくても良いんじゃ無いか、って言いたいだけだ。すまん」
これじゃあまるで虐めているみたいだ。デュースは気まずげに肩をすくめる。自身の経験も含めてどのように説明したものかと僅かに口籠った。言いあぐねて視線が宙を泳ぐ。
「ううん、どう言ったら良いのか。……どんな行動をしようと大丈夫だと思うぞ。アンタが見たっていうストーリーが正しくて世界に求められた流れだ、っていうなら自然とそうなる。もし少し違ったとしても後に帳尻が合わせられるような出来事が起こる」
意識してゆっくりと言葉を発する。落ち着いた声色で宥めるかのように。それに合わせて彼女も通常に近い呼吸を取り戻した。
傍らに浮いた黒々とした物体が蝶のような形を取り戻す。色が徐々に薄まっていく。変化をつぶさに見てデュースは一度目を瞑った。
「……そういうもの、なの? 本当に?」
「そういうモンだろうな。まあ、それに抗うすべも在るっちゃ在るみたいだが」
「それは?」
「…………何だったか詳しくは忘れたな」
その問いかけにデュースは明確な答えを避ける。
いつだったか、どこでだったか、過去生のいずれかで誰かに言われたような記憶がある。実際どうなのかは分からない。それだけで抗えるものか、と。今でもそう思うような内容だった。現時点で特別に触れることでも無いためサラリと流した。
彼女は完全に落ち着きを取り戻していた。むしろ何故ああまで取り乱したのか、と意気消沈すらしている。
そんな彼女を前に一つ息をつくと周囲をつぶさに見回す。ここら一帯の影響が鬱積した感情を無理やり引きずり出したのだろう。彼女の視線が向けられていないことを確認して、デュースは忌々し気に顔を歪めた。
状況を鑑みるに彼女がこの場所に呼ばれてしまい、それをどうにか連れ戻すために何かしらの力が働いたのだろう。そして、縁がデュースを導いた。どうやら「異世界からの訪問者」はアレ等に喰い潰されてはならない存在らしい。
コキ、コ、コ、と軽い何かがぶつかる音がした。彼女には聞こえていないようだが、デュースの耳は確かにその音を捉えている。込み上げてくる厭悪の念。五感の全てが警鐘を鳴らしていた。
音の出所に目星をつけてチラリと視線をやる。姿形は見えない。油断はできないが、今は彼女を納得させて心の内を晴らしてやらねばならなかった。そうでなければ、音の主はいつ迄もどこ迄も憑いて来るだろう。
デュースは彼女の不安を払拭させるために口を開いた。
「魔法のことなら俺に少し任せてくれ。防壁くらい掛けてやれる。それでも不安なら学園長に……いや、担任に相談しろ」
「えっ、あ、うん」
彼女はクロウリーに対して良い思いを抱いていない。言葉の端々に滲むそれにデュースは気づいていた。だからこその提案。
デュースが相談者としてクルーウェルを推したのは明確な理由がある。どれほど癖が強かろうとも彼は教師だ。そして、人間だ。この世界で限りなく彼女の思考に近い側の者である。
獣人、人魚、妖精族、それらに準ずる種族。彼らは人間と近しい見た目をしていようとも、やはりどこかが違う。価値観も思考も一線を画している。その点を考えると、やはり担任であり人間であるクルーウェルに助言や助力を求めるのが最善と言える。
そして。
「あの人は女性を蔑ろにする男じゃないはずだ」
「……うん」
偏見かもしれないが、デュースは本気でそう考えていた。
……そもそも本来の性別に気づかれていないから今のような状況が出来上がっているだけであり、彼女がクロウリーに一言でも言及すれば解決する話ではあるのだが。生憎と彼女から言い出せるだけの信用も信頼もほぼ無かった。
片や「男子校に女性が来るはずがない」という思い込み、片や「魔法の鏡によって拉致誘拐した胡散臭い相手」という疑心。双方の先入観と偏った認識がもたらしたすれ違いと悲劇である。
そんな粗方の推測はついている。だが優先すべきは彼女の精神状態なのだ。今「学園長に性別をカミングアウトするように」などと言ってもおそらく首を縦に振らない。想像など容易だ。
担任、という言葉にしっかりとデュースが言外に指示した人物を導き出した彼女は、唇を引き結んで小さく頷く。助力を得られる光景を思い浮かべることが出来たのか、少しだけ強張った肩がゆるりと落ちる。一先ずは問題解決への糸口が見いだせそうだった。
「さ、そろそろ行くぞ」
「えっ、真っ暗なのにどうやって……」
「俺には視えているから問題ない。アンタのこともちゃんと導くさ」
デュースは左手で彼女の手を取ると歩き出す。その指先は冷え切っていた。血の気が下がっているのか、単純にこの空間の冷えた空気のせいか。若干不憫に思いつつも歩みを止めない。
暗闇の中、彼女にはぼんやりと足元程度しか見えていない。デュースに手を引かれるまま足を動かす他なかった。人を呑み込みそうな暗闇が僅かに薄れはじめた頃、ふと彼女が口を開いた。
「夢、なんだよね、これ」
「ああそうだ。どれだけ現実味を帯びていようと、これは夢だ。だからさっき言ったように気を付けなきゃならないことが沢山ある」
澱みない返答だ。まるで道でも見えているかのようにデュースは急に右に曲がる。その視線は絶え間なく方々に向けられていた。
彼女からは見えていないが、自由な右手は刀印を結んでいる。残念ながら武器になるものは持ち合わせていない。枕元にバットケースを常備しておくべきだろうか。本気で検討を始めた時のことだった。不意に、ゴキュ、と。近くで関節が外れるような不気味な音が鳴る。――そちらに右手を振り下ろしたのは反射だった。
「走るぞ」
「えっ、待っ」
たった一言の声掛けで強く手を引かれ、促されるままに彼女は駆け出した。並走するデュースは全力とは程遠い速度。表情は険しいながらも配慮を忘れていないらしい。ぶつぶつと何事かを呟いているようだったが、彼女ははっきりとそれを聞き取ることが出来なかった。
(……この世界でも通じる真言を探し当てられたのは僥倖だったな、本当に)
決して遅くはない走りで移動しながら、デュースは囁くように真言を唱えていた。
視界を遮るように漂う、輪郭のはっきりしない薄ぼんやりとした存在が鬱陶しくてかなわない。彼女に伸びる
駆ける足は止めず深く息を吸い呼吸を整える。気を十分に身の内で練る。そして――
「っずえぇい!!」
天から地にかけて、結んだ刀印を振り下ろした。ダンッと右足が力強く地を踏む。振り下ろされた腕に合わせて生じる突風。ごう、と風に煽られて形を持たないナニかはこの場から引き剥がされていく。瞬時に組み上げた打開策が一発での成功を収めた。
ハッ、とデュースの口から乾いた笑いがこぼれる。口元にチラリと覗く歯。普段とのギャップを感じずにはいられない。凶悪な笑みにも見えて、思わず彼女は僅かに体を退いた。しかし再度走り出したデュースに手を引かれてそれも無駄となる。
――どれ程走っただろうか。徐々に周囲が明るくなってくる。余裕しゃくしゃくといった様子で先導するデュース。対照的に懸命に動かしていた足が上がらなくなってくる彼女。やがてどちらともなく歩幅が小さくなり、ついには足が止まる。
はっ、はっ、と荒い呼吸を繰り返しているのは彼女だけだ。デュースはというと多少乱れているが肩がほとんど動いていない。こんなところでも基礎身体能力の差を感じてしまい情けなさで彼女の視界が滲む。夢にそんなリアルさは求めていない。そして息が整う頃になって、唐突に気づいた。
(……あれ? 体が軽い)
走った後だ、息切れすら起こしていた。だというのに何故か体が不思議と動きやすい。運動後の倦怠感は当然のようにあるが、それだけだ。
先程までは空気に重さがあるのではないかと感じるほどに身体が怠かったというのに。心なしか周囲の空気も違っているように思える。いや、実際に違うのだ。肌が薄らと撫ぜられているような薄気味悪ささえ感じた場所とは程遠い。
改めて自分は良くない場所に居たのだと感じて、彼女は身をふるりと震わせた。いや、「良くない」などという言葉では言い尽くせない。
「ね、え、さっきの場所って」
「考えない方がいい。今はちゃんと「起きる」ことを考えなさいね」
固い表情で見上げて放たれた問いを遮りデュースは首を横に振った。あまりに普段通りの態度だったせいか、彼女はそれ以上踏み込めない。腑に落ちないままではあったが小さく頷いた。
――冥闇がにじり寄っていたなどと、知らないでいるままの方が良い。
ずっと彼女の周囲に居たモノ。デュースには身に覚えのある気配だった。非常に厄介な生者を害する概念的存在。
異世界から来た彼女はこの世界において非常に無防備な存在だった。何しろ
加えて、彼女のいた世界との繋がりが希薄になればなるほど、本来持ちえたはずの加護も徐々に薄れていく。生まれながらにして産土神に授かった加護、長く住む土地に住まう地主神からの加護。どれだけ身に受けようと世界を跨いでしまえば途絶えかねない。薄い壁を隔てたように届きづらくなる。そんな状態の人間は格好の餌だったのだろう。
仮住まいとしている場所も悪かった。常駐するゴーストが悪いわけではない。だが、死した後もこの世に留まる存在が果たして生者に悪影響を及ばさずに居られるのか。どう考えようとも無理な話である。大なり小なり蝕む何かがあるのは避けられないことだ。
加えて、先述の通り彼女は守りがほとんど無い状態。――その結果がこれである。
おそらくデュースが縁に導かれてこの場に導かれなければ、彼女は命の危機に曝されただろう。気づいた時にはもう遅い、などという事態に陥っていた可能性すらある。はあ、と吐いた溜息は無意識だった。
チカリと視界の隅で瞬く光。それが何なのかを察してデュースは彼女をまっすぐに見据える。
「起きる頃合いだな」
何気ない動作で左腕から細い水晶玉のブレスレットを抜き取った。彼女の手を取るとその掌に置いた。じゃらり、珠が擦れる音がする。
「これあげる。あとは水晶が道を教えてくれるはずだから。辿っていけばちゃあんと戻れる。起きることだけ考えて行くんだよ、いいね?」
「あの、」
「いいね、振り向かずに前だけを見て。……朝を迎えたら俺もそっちの寮に向かうから」
そう告げるとデュースは静かにその背を押した。グッと唇を引き締めた彼女は僅かに俯く。まさか別れることになるとは思っていなかったのだ。胸の前で握りしめられた両の拳に力が入る。何度かの深呼吸の後に力無く頷くと彼女は顔を上げた。深く息を吸い、意を決して歩き出した小さな背をデュースは黙したまま見送る。
彼女の周囲を飛んでいた蝶のような存在。それがいつの間にか色を変えていた。薄墨色だ。墨汁を垂らしたようなシミも消えている。良い方に転じた証なのだろうか。そうだったら良いんだけどなぁ。――思考した直後、意識がぼんやりし始める。身体が起きる前兆だった。特に抵抗することなくデュースはその感覚に身をゆだねるのだった。
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2020.9.8.支部にも投稿しました
2022.1.2.別館サイトに掲載