──監督生のことを担任であるクルーウェルに相談しようと決意した、その日の放課後のことだ。
授業終了後に話を持ち掛けたデュースは研究室を訪れる時間を指定された。表情から軽く聞けない内容なのだと察したのだろう。しかしタイミング悪くどうしても外せない用事があるのだという。夕刻まで手が空かないとのことだった。
現にチラホラと耳にするのは、彼が授業終了後からずっと植物園に留まっているらしい、ということ。薬草類に関することなのだろう。おそらくクルーウェルは確実に用が済み、研究室に人を招ける時間帯を指定したのだ。
頭の隅でそう推測したデュースは、彼の手が空くまでの間を上手く使って購買部に向かうことにした。ロッカーに教科書類が入ったリュックを置くと施錠し、財布だけを持って校舎を出る。
寮の上級生たちが言うには何でも揃っているのだという。店主のサムからは「In stock now!」しか聞いたことがないとか何とか。ならば自分が必要としている物の幾つかはあるかもしれない。そんな思いから足を運んだわけなのだが。
「やあ小鬼ちゃん。そろそろ来る頃だと思っていたよ」
「……どうも」
「お探しの物はこれかな?」
「そ……うです。いや、何で知ってるんです??」
「秘密の仲間が教えてくれるからね、あとは企業秘密さ!」
店内に入るなりドンピシャで品物を取り出される。ぽわっと小さな燐光を伴い宙に出現した大小さまざまな複数の小箱。そのうちの幾つかがまさに「あれば良いな」と考えていた物だった。
入店直後にサムが自ら商品を提示してくるあたりは寮や部活の上級生に聞いた話とは少し違う。他に客、いや生徒は居なかったとはいえ、こうも瞬時に求めている物を目の前に出されるとは思いもしなかったのだ。
ぱちくりと目を瞬かせたデュースの前で、ニンマリとサムの口が弧を描く。
「ちょっとばかし毛色の違う小鬼ちゃん、君が望むものはきっと此処にあるよ」
「そうでしょうか」
「絶対とは言えないけどね! さあ見ていっておくれよ」
どことなく底知れなさを覚えてひくりと片眉が跳ねあがった。
デュースは提示された小箱を端から順に開けていく。確かにどれもが求めていた物だった。
鉱石やタロットカード。密封された状態の袋の中身はおそらく塩だろう。パッと見ただけでも守りの力が強い服は熱砂の国近くにある小国の民族衣装とのことだ。中華服と見間違えたがどうやら別ものらしい。小瓶に入っているのは酒か水か、それとも全く別のものか。一際細長い箱を開けて中身を検めれば竹刀まで用意されていた。
視線をせわしなく動かして品物を見定めていく。どれも文句なしに上質なものだと分かり、内心で舌を巻く。サムの言う「秘密の仲間」とやらが一体どういった存在であるのかは定かではない。だがどうやら筒抜けだったようだ。常世とは一線を画した存在なのだろうか。生者に害を成すもの然り、異形然り、妖精然り。──いや、もしかするとデュースが少しばかり
「どうだい?」
「…………竹刀があるって事はバットの購入前に、知りたかったナァ、って思ってます」
「oh、ごめんよ。この前はちょっとサーチ不足だったかな」
「いや、あるとは思っていなかったので、多分その所為です。大丈夫です」
サムは大げさなくらい両腕を広げてお手上げのポーズをとる。寸前までの思考を誤魔化すようにデュースは乾いた笑いをこぼした。
「話を戻しますけど、正直、どれも欲しいですね」
「おやそれは光栄だね!」
「……ですが、困ったことに懐にそこまで余裕が無くてですね」
若干目を逸らしつつの言葉にダリアパープルの双眸がスッと細められる。顔は完璧な笑みだというのに目だけが笑っていない。
「おやぁ? 金品だけが取引の対価じゃないのはキミも知っているんじゃないのかい?」
「いえいえ、まさかこれに見合うような値打ちものなんて持ち合わせていませんよ」
「いやいや、もっとはっきり言うべきだったかな。一般的に価値のあるものが全てではないことを知っているだろうに」
HAHAHA、ふふふ、表面上はにこやかな言葉の応酬。その実は腹の探り合い。
ある意味素晴らしいタイミングで入店した生徒はギョッとした様子で扉を閉めた。衝撃映像を見たような気分だった。購買部のMr.が恐ろしく見えただなんてそんなまさか。そうは思えど、彼はもう一度扉を開ける気になれず購買部を後にした。賢明な判断である。
閉じられた扉をチラリと一瞥してサムはクツリと小さく笑う。
「まあ、どうするかは小鬼ちゃん次第だけど」
ウインクすらしそうな空気。自身が優位に立っているのだと確信しているかのようだった。渋面を浮かべたデュースは懐に手を伸ばす。
この分だとサムは商人としてだけではなく、魔法とも違う不可思議な世界に精通しているのだろう。そうでなければ彼の発言にもこの状況に説明がつかない。
「……、……、支払いはコレで如何でしょうか」
「ウゥンそうだね……うん、OK!」
結局、地道に霊力を込め続けてきた霊具と引き換える決断をしたのだった。
購入したのはタロットと中華服の形状に近い民族衣装。買って後悔はしていない。だがどこか負けた気がする。デュースは複雑な心境で手元に視線を落とした。折りたたみ式のリュック型エコバックを背負い購買部を後にする。去り際にサムから「またね、小鬼ちゃん」と囁かれてちょっぴりゾワッとしたのは秘密だ。
既に日は傾き空の端は夜の色へと変わりつつあった。時計を見るとまだ指定された時間まで若干の余裕がある。とりあえずは校舎に戻ろう。そう考えたのだが、その道すがらクルーウェルとばったりと鉢合わせた。
普段の格好とは違い身に着けているのは白衣だ。土が付着して茶色く変色している袖や裾。植物園で大きな作業でもしたのだろうか。
「あれ、先生。どちらへ」
「用が済んだからな、研究室に戻るところだ。……ああそうだちょうど良い、このまま行きがてら大まかな話を聞こう。時間は有効に使わなければな。なあ仔犬?」
「あー、はい。個人情報も含まれるので、この場で詳しくは話すのは憚られるのですが……本当にざっくりとで良いなら」
「構わん、話せ」
決して固くない、けれども適度な緊張感を保った声に促されてデュースは口を開く。同時にそう離れてはいない場所の外灯がジジッと揺らめいた。
「監督生の事なんです」
「……なるほどな、何かと思えば毛色の違う仔犬のことか」
たった一言でクルーウェルは自身のクラスを思い浮かべ納得すらした様子だった。デュースが相談を持ち掛けた経緯を容易に想像出来る。
「……だが本人はどうした」
「今日は僕の独断なので先生に相談を持ち掛けたことは伝えてません」
「随分と過保護だな」
「そうでもありませんよ」
「まあいい、詳しくは後程聞く」
飄々と肩をすくめたデュースにクルーウェルは一瞥を投げ、そのまま歩を進めた。
斜陽に影が二つ。舗装された小路に伸びる。
──まさか、その相談が明朝に持ち越されることになろうとは、この時点でデュースもクルーウェルも知りはしなかった。
メインストリートに差し掛かる寸前、角を曲がるその瞬間。まるで足を踏み外したかのような浮遊感に襲われる。前後左右上下、その感覚がぶれたような不快さ。ぐらりと揺れる視界。
似たような感覚をデュースは知っていた。
「──っ!?」
「っ、なんッ!」
たまらず立ち止まったデュースの横でクルーウェルが踏鞴を踏む。目だけを動かし周囲を探る。急速に明るさが失われていくのを感じてぞわりと総毛立つ。
メインストリートへ向かう間は暗さをさほど感じなかったが──確かに黄昏時だった。いや逢魔が時とも言うべきか。
いくら気を張り対策をしていたとしても、意味をなさないことは稀にある。己一人だけではなく他人と共にある場合は尚の事。
(最っ悪だなオイ! 自分だけならともかく一般人まで巻き込まれるとかッ)
クルーウェルにとっての最大の不幸は、今日この時、この瞬間にデュースと共に居たことだろう。言葉を交わし連れだって歩いていたが故の完全なる巻き込まれだった。
五感全てに干渉される不快感に鳥肌が立つ。厭わしさに顔が歪む。やり過ごすこと幾ばくか。数秒にも満たなかったのか、数分にも及んだのか、デュースには判断のしようがない。腕時計に目を落とせど秒針は止まっていた。
かさり、足元で鳴る乾いた音。それは乾燥した木の葉が風に煽られ転がる音に酷似している。──ああ、狭間に足を踏み入れてしまうとは全くもってツイていない。
「……あー、あの、先生」
どこか躊躇を滲ませた声色で声をかけるデュースを意識の外へ追いやり、クルーウェルは周囲を鋭く見回す。しかしその明晰な頭脳を持ってしても自身と生徒が見舞われた現象の説明を付けられなかった。
薄ら闇の中だが視界は良好。だからこそ直前まで自分たちが歩いていた場所とは全く違う場所であると断言できる。
(空間転移? 誰に仕業だ。いや、しかし魔力を感じられなかった)
「先生、あの」
「ステイだ、仔犬」
「ああもう先生! 危ないんですって!!」
「は?」
いたし方あるまい、説明は後だ。
表情険しく状況を見極めようとするクルーウェルの腕を強く引きデュースは走り出す。虚を突かれクルーウェルの体勢が崩れた。彼自身の意図は伴わないが確実に体は前へと移動する。
──その刹那。彼の身体があった場所を何かが豪速で通り過ぎた。
は? と再度声をこぼしたクルーウェルは目を見開く。振り向きかけるその動きを遮ってデュースは腕を引く手をさらに強めた。
「今は! 足を! 動かして!」
視線を方々に巡らせながらデュースは声を上げた。懸命に足を動かし豪速で突っ込んできたナニかから距離を取る。襲い掛かって来たかと思ったソレは通り過ぎていっただけのようで気配が遠ざかっていく。目先の危険がデュース達になど見向きもせずに素通りしていったのだ。文字通り。引きずり込み奇襲を仕掛けるタイプではなかったというわけである。つまりたまたま偶然、命の危機に曝されただけ。……この場合の方がよっぽど質が悪い気もするが。
一先ずは危機が去り、戻ってこないことを確認するとデュースは深く息を吐いた。
そして感じる熱視線。何か知っていることがあるんだな、早く話せ。そんな無言の圧力すら掛けられている。デュースは渋面で呻いた。
はたして、何をどう説明したものか。僅かに頬を引き攣らせて言葉を探す。何しろ自身の担任であるデイヴィス・クルーウェルというこの男、下手な誤魔化しなどはきかない相手だ。
「ええと、とりあえず、この場所は現世というか今まで僕たちが居た場所とは違う空間なので……名前は呼ばないでくださいね。先生の場合特に問題ないとは思うんですけど、一応」
「……含みが気になるが、まあ良いだろう。お前が言わんとすることも尤もだ」
「お察しが速くて助かります」
「少なくはない話だからな」
妖精に、人ならざるものに、名前を知られてはならない。これはどの家庭でも子どもが小さな頃から滾々と言われ続ける教えだ。名前を知られれば縛られる、支配される。
日本でも似たような逸話があるように、どの世界、どの国にも存在する考えの一つ。加えてツイステッドワンダーランドでは魔法が当然のように存在している。そのため名前の神秘性や宿す力というものはそれだけ強い。だからこそクルーウェルは多くを語られずともその危険性を理解していた。
この何が潜んでいるか分からない場所では慎重になるに越したことはないのだ。
一言断りを入れ、自身とクルーウェルに暗視の術を施す。そのため両者共に視界は良好である。
しかしこの場に居続けても埒が明かない。周囲に気を配りながらではあるが探索に乗り出すことにした。
歩くこと幾ばくか。ふと、踏みしめる土の感覚が突如として変化する。乾燥した枯れ葉が散乱していた小路が、いつの間にやら青々とした荒草が生い茂る山道に繋がっていた。目を凝らして見れば道端に苔むした小岩が転がっている。
(……何かを
デュースは感覚的にそれを察して辺りを睥睨した。霧が濃い。
歩いてきた道を振り返り見るが、すでに道は消え失せていた。遠くない地点から黒々とした闇が広がっている。その先は見えない。足元に落ちている小石を手に取ると、ぽっかりと広がる暗闇に放り投げた。
「……何をしている仔犬」
「戻れるかどうかを判断したくて。……無理っぽいですね。音がしません」
放った石が地面にぶつかる音がしない。存在すら感じられない無音。
訝し気に視線を寄越したクルーウェルへ端的にそう返答しデュースは目を細めた。一方通行でなければ良いのだが。
「仕方ない、ですね。前に進みましょう」
迷ったときは下手に動き回らない方が良い。だが第六感ともいうべき感覚が、ここに留まるべきではないと訴えかけている。道なりに進むほか無さそうだ。が、しかし。眼前に細々と伸びる野路に感じる違和。目を凝らせどもデュースの眼が捉えられるモノは無い。
(……下か?)
何かが蠢いている感覚はなく、ひっそりと息を潜めて待ち構えているかのような気配が一つ、二つ。
片眉がひくりと跳ね上がる。しばしの逡巡の後、デュースは右の掌をぺたりと地面に当てた。囁くように術言を唱え、探り、割り出していくのはソレ等の大凡の場所だ。
潜んでいるモノの位置を特定するまでにさほど時間はかからなかった。掌についた土を払いながらデュースは立ち上がる。胡乱げな視線を隠しはせずに、けれど黙ったまま見守っていたクルーウェル。彼に向き直ると口を開いた。
「……ええと、とりあえず何も聞かず指示に従ってもらってもいいですか。俺の足跡を辿ってください。分かるようにするんで。そうでないと痛い目に遭います。物理的に」
一方的な言い分である。強制力も無ければ従う義理も無い。だが、クルーウェルは肌で感じていた。自分の知識や常識が及ばない場所に立っているのだ、と。だからこそ不承不承ながらも頷いた。
「言いたいことも聞きたいことも星の数ほどあるが、分かった。……だが、この手は、どういうことだ仔犬?」
「はぐれたら困るので」
「………………いいだろう」
言いたいことは五万とあるようだったが何とか呑み込みクルーウェルは差し出された手を取る。心底解せぬ、そんな表情の成人男性の手を引く高校生。傍から見れば結構シュールさを感じさせる。しかしそんな無言の圧をもろともせずデュースは手を引き複雑な軌跡を描きながら歩を進めていく。
難関は過ぎたのか無言で手を離され、クルーウェルは険しい表情のままデュースに問いかけた。
「今のは何の意味があったんだ」
「ええと、
下に向けられた指先を追いクルーウェルは視線を地面に落とす。
「見たいんですか?」
「いや、そういうわけではないが……」
首を傾げたデュースにクルーウェルは口を濁した。
興味がないと言えば嘘になる。だが自分が感知できないナニかが下に何かが居た、という事実を突きつけられるのはどうにも気が乗らない。
そんな彼の態度をどう解釈したのか、デュースは一つ頷く。何気ない動作でしゃがむと拳ほどもある石を拾い上げた。
「ちょっと離れてくださいね」
ちょうど今しがた二人が複雑な軌跡を描きながら通り過ぎた場所。クルーウェルには自身がどう歩いてきたかなどとは判別がつかなかったのだが、デュースの眼には道筋が捉えられているかのようだった。
投げた石がコンと地面に着いた途端──がぱり、と。地表に穴が開いたと思ったらそのまま筒状の何かが垂直に立ち上った。土と同色のソレは、ピタリと停止したかと思えば緩やかに元の場所に収まる。数秒と経たずに何事も無かったかのように戻ってくる静寂。
クルーウェルの背筋が凍った。何の変哲もないように見える地面を呆然と見つめる。脳を懸命に動かし持ちうる知識を探りに探るが、彼の知る魔物やモンスターには結びつかない。ならば、何だったんだあれは。
衝撃を受けたクルーウェルの様子に気づいてかデュースは言葉を濁しながら口を開いた。なお言い淀んだのは彼への配慮から言葉を選ぼうとしたわけではなく、説明に迷ったからである。
「あー、その、今のはあれです、食虫植物のような仕組み、って言ったら分かります? ……文字通り一歩間違えれば今投げた石と同じ事になっていたわけです。先生が理解ある方で本当に助かりました」
実質助かったのはクルーウェルの方だ。彼の顔は強張ったまま動かない。異常事態続きで表情の動きが鈍り始めていた。何てことのないようにそう告げたデュースに、別の意味でゾッとする。
今、クルーウェルの眼前に立つ相手は、果たして本当に人間か。そんな考えが脳裏をよぎった。
「さ、先へ進みましょう」
「……ああ」
まさか生徒の容姿を真似た魔物か何かが良からぬ場所へと招こうとしているのではあるまいか。そんな疑問すら抱き始めている。
「分かってれば避ければいいだけです。気づけなかったらそのまま喰われますけど。……ところで先生」
「なんだ」
「学校にマジカルホイールの持ち込みってやっぱり駄目です?」
「………………なぜ今の流れでマジカルホイールが出てきた?」
「マジカルホイールがあると対応できる幅が広がるんで楽なんですよね。……緊急時以外は乗り回さない条件で持ち込みとか……」
デュースの冗談とも本気ともわからぬ発言にクルーウェルは無言で右手を額に当てた。
いや、やはり考えすぎか。この阿呆とも言える発言は確実に自身の生徒だろう。
「学園長を説得してみるんだな」
「ううん無理っぽそう」
その言葉にデュースは視線をうろんと泳がせる。そこでやっとクルーウェルは普段の調子を取り戻しかけ、そのまま再度口を開こうとした──その瞬間、地が揺れた。たまらず体勢を崩した二人は焦燥を顔に浮かべ異変を探す。はっ、と息を呑んだのはどちらだったのか。
まるで退路を断つかのように二人の辿ってきたはずの道が崩れていく。森が溶けていく。
どちらともなく相手の腕を叩いて正気を取り戻させる。互いの腕を引き走り出したのはほぼ同時だった。
走りながら叫ぶ、なんて器用なことはできない。そんなことをして無駄に体力を消耗するくらいなら息を整え駆ける足に意識を向けた方が良い。
慣れない出来事に巻き込まれた故にクルーウェルにはさほど余裕がない。チラリと視線をやり、デュースは左手を伸ばした。走行を邪魔しないよう、はためく白衣の裾を片手に握る。はぐれる可能性を減らすためだ。
四方八方に視線を向け意識を向け、デュースはその双眸を険しく細めた。どこぞへと追い立てるかのような崩れ方にも思える。ありとあらゆる可能性を脳裏にピックアップしながら舗装されていない道を駆け抜ける。
そして何の前触れもなく唐突に、道と森、空間の崩落が終息を迎えた。
◇
仄かに夕陽の色を残し薄暗かった空はすっかり夜に染まっていた。薄らと浮かぶ細い月の光が仄かに落ちる。
全力で疾走した後の荒い息を整え終えた頃になり、クルーウェルはようやく周囲の様子を見回す余裕が出来た。その横でデュースが見せたことのない表情で佇んでいることにすら未だ気づいていない。
──何かの境を作るかのように朱が聳え立っている。
朱塗りの門だろうか。門のようにも見えるがクルーウェルが今までに見たことのない形状をしている。
クルーウェルはまじまじとそれを見上げた。ところどころ塗装が剥がれかけている個所がある。随分と古いものなのだろう。土台となっている巨大な石は長らくこの場に存在していたことを告げるかのように苔むしていた。
地面をよく見れば土ではなく石畳に苔が生え、雑草が芽吹いているのだ。奥に続くのは草木でほとんど見えなくなっている石造りの階段。その先に何があるのか、薄暗さも相まってよく見えない。
「建物のようだが、この先に何か……どうした仔犬?」
「あ、はい。……いえ何も」
ずっと無言のままのデュースに違和感を覚えたのかクルーウェルは訝し気に呼びかける。ぴたりと動作を止めたまま淡々と言葉を返すその顔には表情がない。
器用に片眉をひくりと動かしたクルーウェルは隣に立つ自身の生徒の感情を図りかねていた。
「……お前はこの場所をどう見る。俺よりもよほどこういった現象や事象に詳しいようだからな、判断は任せる」
「……は?」
ぱちくり。目を瞬かせたデュースはまじまじと自身の担任を見据えた。こうもあっさり生徒に決断を委ねるとは。
しかし適材適所。この状況下においてクルーウェルの判断は間違いではない。適応能力の高さと柔軟な考え。なるほど若くして名門校の教師陣の一角を担う男である。
デュースは一度口を開くが言葉が出てこない。逡巡すること幾ばくか。再度口を開いた。
危険はゼロではない、絶対にお守りしますなどとは言えない。そう前置くと固い声色でこう告げた。
「中に、入りましょう」
原因はおそらく、此処にある。
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2020.12.8.
2022.1.15.別館サイトに掲載