ゆらり。ひらり。はらり。
薄紫の花房がゆれる。花弁が地に落ちる。建物の柱に蔓が絡みつき締め上げている。その大元である樹木の根本に、木肌に同化するかのような色の突き出た棒が複数。ひしゃげ、ひび割れ、太さも長さも異なるソレの五つに分かれていた先端は方々を向いている。
天に地に、蔦は伸びて這いて絡み、縋りつくかのように未だ蔦先が蠢く。
無音がすぎて耳が痛くなるような静寂。花弁が落ちる音すらなく、ただただ静かだった。ふと、停滞する中に吹き込む風。空気がざわりと動きだす。沈黙していたモノが鎌首をもたげる。
細い月が薄く光を落とし、藤と地面を仄かに浮かび上がらせていた。
夜が深まっていく。
◇
とある国の政府施設の片隅で年若い男が一人佇んでいた。人を待っていたのだ。
紺のジーンズに深緑のパーカー。その上から更に淡黄の羽織を肩に引っ掛けた、何とも統一感のない格好。きめ細かな刺繍が浮かぶ羽織は上質な布地であることが一目で分かるほどの代物だ。それがより一層、男の服装のちぐはぐさを際立たせている。
ふと男の視界を過った薄紫。小さく揺れ動きながら落ちていく。それが何であるのかを認識した男は目を瞬かせた。
昼過ぎから夕刻に至るまで、自身の所属する組織の本部に呼び出され講習を受けていた。その疲れからの幻覚かとも思ったのだ。しかしそれにしては様子が違う。不信感を抱くのは早かった。
目の前に、花弁が一つ降ってくる。
男の脳裏によぎるのは、この建物に到着してから自身が見舞われた不可思議な現象と、険しい顔を見せた護衛の反応。
ひらり。はらり。絶え間なく地に降り注ぐ薄紫の花弁。それらが地面に落ちる前に消えていく。一瞬だけ視界にちらついたのは、咲き誇る見事なまでの藤。
まさか、またなのか。説明のしようがない現象に再び襲われた男は自然と顔が強張るのを自覚した。ふと思考の隅に浮かぶ政府機関の施設内にて囁かれている噂。
護衛として連れだった者たちが傍を離れて数分と経っていない。まさかちょっと離れた隙にこんな訳の分からない事象に見舞われるとは思ってもいなかったのだ。数メートルと距離も離れていない、時間もさほど経っていない。現に男は視界の隅に護衛の姿を捉えている。にも拘らず、男は薄ら寒さを感じて腕を擦った。無意識のうちに肩に力が入る。握りしめた手が汗ばむ。
後に思い返し男は言う。
この時点で既に正常ではなかったのだろう、と。
ゆら、と暗褐色の瞳が揺れた。誘われるかのように一歩踏み出し、そして。
「──主さんッ!」
背後に呼び声を聞く。羽織に何かが触れたのを境に視界が暗転する。
瞬き一つの後、彼は暗闇の中に立っていた。いや、完全な暗闇と言うにはまだ仄かに明かりが存在している。突如として明るい廊下から薄い光しか差し込まぬ場所に放り出された故に目が慣れていない所為だった。
真白い壁の廊下に居たはずだというのに、眼前に広がるのは薄暗い日本家屋。土埃の積もった床板、破けた障子戸、折れた縁柱、瓦の割れた屋根。地面がところどころ黒ずんでいるのは一体何が滴り落ちた痕なのかは考えたくない。
──男は、朽ち果てた日本家屋に立っていた。
あまりにもおどろおどろしい廃墟を前に悲鳴を上げそうになり、慌てて両手で口を押える。指先が震えた。まあ、そうでなくとも衝撃的な光景に喉が引き攣れて声が出せそうにはなかったのだが。むしろ悲鳴とは別のものが出そうなくらいだ。……吐瀉物とかタマシイとか。
男はホラー、心霊、怪奇的な現象が大の苦手だった。自身が身を置く職が若干オカルトじみているが、それはまた別の話である。
(……は? いや、いやいやいやココどこぉ!? ってか俺一人かよ!! さっき後ろまで来てたじゃんかぁ!!)
男は内心で叫んだ。指先が震える。やばいやばい、頭に浮かぶのはそればかり。焦燥のあまり思考が働かない。軽くパニック状態に陥っていた。
いかにも「何かいます」と言わんばかりの空気に自然と強張る身体。自身の身を守るかのように包む羽織をぎゅっと握りしめ、ぎこちない動きで顔を左右に視線を動かす。
薄く月の光が照らしているとはいえ、それは微々たるものだ。小心者の男は地獄に放り出されたような心地だった。
暗い。よく見えない。こわい。おそろしい。自然と息が浅くなるのを自覚した男はグッと下唇を噛む。もっとも自身が信用する者の言葉を思い出して震える息を吸い込んだ。次いで意識してゆっくりと吐き出す。
──焦りは禁物だよ、主。それで失敗することが多いんだから。焦ったときは一度深呼吸すると良い。一つ、二つ、呼吸を置いて、それから物事を考えれば少しは余裕もできるだろう。どうか忘れないでおくれよ。
ああ、そうだな。心の中でそう頷いた男は、無事に帰還できたら感謝を伝えようと決意した。恐怖で情けなくも歪んだ顔。その両頬を両手でバチンと強めに叩き、気合を入れる。顔を上げる。前を向く。……しかし。
「……、……、……むりぃ、たすけてくれはちすかぁ」
口からこぼれ出るのはか細い声。
無風であり空気に温度も無い。生を感じられない。ゾッとするような静寂だった。
暗然としている周囲に、いったい何が潜んでいるのだろうか。視えない。目が慣れてきたことに加え、完全なる暗闇ではないことにより、物の輪郭が薄らと見えている。だからこそ想像力がより一層掻き立てられ不安が増す。余計に恐怖心を煽られたのだ。
心臓が早鐘を打つ。どっ、どっ、と己の鼓動の音ばかりが鼓膜を打つ。
意識してゆっくりとした呼吸を心掛けつつ、男は一歩踏み出した。少しでも明るい場所へと向かうことにしたのだ。下唇を噛みながら足元の暗がりに目を凝らす。
そして、空に浮かぶ細い月の光が何物にも遮られない場所まで辿り着いた。
が、しかし。
(こっからどうすりゃ良いんだよぉ、研修所で習うのこういうのじゃ無いんだってば無理無理無理どうやったら政府の方に戻れんの! ってか堀川とか着いて来てくれて無いのはぐれた!? 近くに居ない!? 何かこう、気配? とか霊力? とかで来てくれたりしない!?)
有事の際に対応できるように修練を積んでおけ。そう毎日のように言われて久しい。教習所でも簡易的にまとめられたマニュアルが配られていた。その中には当然、自身が契約を結んだ相手との繋がりを手繰る術、呼び寄せるための術などが記載されていた。……男はチラッと目を通しただけで殆ど読んでいないが。
まあ、つまり、この立ち往生状態の半分は自業自得である。
こんな事になるならば、進言に従って真面目に習得するまで励むんだった。そうでなくとも基礎が危うい立場であるのは変わらないのだから。男は半分泣きが入りながら頭の隅で呟く。
そうは考えても時すでに遅し。巻き込まれた後である。ああ、己んぬる哉。
幽々たる暗がりが深まっている箇所が、もぞりと蠢いたように見えて。何かが這い出てくるようにも見えて。男は引き攣れた悲鳴を上げた。ひぃ、と情けないか細い声が喉の奥で潰れたように響く。
恐怖に駆られ思考もまとまらない。追い詰められ末に、彼は己がよく知る退魔の術を思い出した。一般の出である者すら知っている有名なもの。だが、本職でない者が無闇矢鱈と使うことは推奨されていない術。
「り、ん、兵、えっと、闘──」
九字である。震える指で刀印を組み、つたないながらも虚空に縦横九つ線を切った。しかし何も起こらない。それが良いか悪いか判断のしようのない男は途方に暮れる。
落ち着きなく顔を動かし周囲を見回し、そして、はたりと気づいた。
「……あ、れ? ここって、もしかして……?」
よくよく見れば己の知る建物と、形状や配置などがひどく似ていることに。
サッとさらに顔色を悪くさせた男は片手で口元を覆った。脳裏をよぎったのはとある名称。もし男の推測が正しかったとするならば、やはり一人丸腰で彷徨うのは自殺行為にも等しい。
今度こそ腰を抜かしそうになり、がくがくと笑う膝に片手を着いた。
──男の脳裏に浮かんだ場所、その通称をブラック本丸と云う。
◇
二二〇五年、存在が確認された数多の時間犯罪者。「正しい歴史への修正」を自称、修正を騙り時間遡行を繰り返し、過去を改変しようと企む者たち。
組織的な統一性はなく、単独で行動している節も見受けられる。目的を同じくし、政府や検非違使などの敵を同じくすることから一時的に手を組んでいるのではないか、との見方も出ている。
時の政府において便宜上の名称だったものが通称と変化し久しい。
──歴史修正主義者と時間遡行軍。それが過去への干渉と攻撃を繰り返す者たちの総称である。
それ等に対抗するため、時の政府が対策課を設置し、秘密裡に「審神者」と「刀剣男士」という存在を配置していった。一般に知られずして戦に身を投じる者たち。表向きは政府職員や公務員。その実態は刀剣に宿りし付喪神を奮起させ、歴史の改変を防ぐ審神者であった。
彼らの身が据え置かれるのは本丸である。陰陽師や術者が知力や技術を駆使して作り上げた現世とは一線を画した場所に存在する特殊空間。マヨヒガとも幽世とも呼ばれる場所だ。歴史修正主義者との戦における最前線の基地とも言える。
そんな特殊空間に座する本丸が機能停止、凍結、放置されることも間々あった。要因は何通りか存在している。
一つ、審神者の長期不在による本丸の機能停止。
一つ、歴史修正主義者の襲撃による審神者と刀剣男士の落命および修繕不可。
一つ、本丸自体の不備による凍結。
一つ、結界の破損による怪異や異形の侵入及び常在化のため凍結。
一つ、何らかの原因によって祟り場と化し事実上の封鎖。
他、多数。
男が迷い込んだこの場所こそが、歴史修正主義者との戦における最前線だった本丸。その変質した成れの果てだ。
そして男はとある本丸に配属された審神者である。就任して約半年と経たない、いわゆる新人。さらに言うならば一般の出であるが故に知識も実力も並どころかそれを下回る。
そういった者たちの救済措置として就任から数か月後に本丸運営に関する講習会が行われていた。彼は受講するために政府の対策課本部に赴いていたのだ。
だがしかし、無事に講習を終えたと思えばこの有り様。不運などという言葉では言い表せない。なお政府では忽然と姿を消した新人一名と護衛二振りに廊下が騒然となっているのだが、それはまた別の話だ。
──なぜ彼がブラック本丸の存在を脳裏に浮かべたのか。それは薄明かりの下に見えた廃屋の状態にあった。
板張りの廊下に散見するおびただしい量の血痕がどす黒く変色している。無残にもへし折られた柱に確認できる刀傷。垣間見えた銀のきらめきは、おそらく刀身の破片だろう。
己の足音にさえビクついた男は自分が想像しうる最悪を頭に浮かべたのだ。着任して間もない彼には敵方に拠点である本丸を襲撃される想像などつかない。故に、最も身近で想像の容易い通称に辿り着いたのだ。
この場は刀剣男士が堕ち祟り場と化した本丸であるのだ、と。
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2020.12.23.支部にも投稿しました
2022.1.15.別館サイトに掲載